あなたが走る、その背中を見ていた——母と私の境界線 #創作大賞2025
2歳のあなたが、坂道を走る。
振り向かず、前だけを見て。
最近は、もう手をつながなくても
歩けるようになった。
いや、歩くだけじゃない。
走る。駆け上がる──
その背中を見ていると、
私の“昨日”が静かにはがれていくような気がした。
寝返り、ハイハイ、初めてのことば。
あなたが世界と出会うたび、
私は一つずつ、戻れない場所を知る。
「おいしいね」
「いってきます」
「ママ、だいすき」
甘くて不安定なその発音も、
いつか大人の言葉にすり替わっていくのだろう。
あなたが目を輝かせて何かを見つけるたび、
私は、自分の心が少しずつ老いていることに
気づいてしまう──
「ひこうき」
「ありさん」
「ちゅんちゅん」
「ぶるどーざー」
道ばたの何気ないものに、
全力で笑い、驚き、語りかけるあなた。
“はじめて”が、毎日こぼれてくる。
まぶしくて、時々こわくなる。
40歳。ただの数字かもしれない。
でも──
「40歳ってほんとにくるんだ」
そんな子どもじみたことを、ふと思ってしまう。
私だって、昔はもっと驚けた。
昔好きだった音楽がうるさく感じるようになった。
人混みが疲れる。
誰かの視線が刺さるようになった。
一番怖いのは、体の衰えじゃない。
情熱を失っていくこと。
心が老いていくこと。
誰かの始まりに立ち会うたび、
自分の“若さ”が遠のいていくのを感じる──。
私は、この2年の間に2度の流産を経験した。
どうして、来てくれた命が、
私のところからいなくなってしまったのか。
その日は、月がやけに大きく見えた。
「ごめんね」
何に?誰に?
わからないまま、今も波の中で生きている。
それでも、あなたが笑ってくれることで、
私は、なんとかバランスを保っている。
あなたがいる。
それだけで、今日という日がほどけていく。
でも、あなたの人生は私のものじゃない。
私は、あなたの時間に
少しだけ立ち会っている、そんな存在だ。
いつかあなたは、
私の知らない世界へ行ってしまう。
私より好きな人ができて、
夢中になれるものを見つけて、
私はその輪の外から見守るようになるのだろう。
分かってる。
それが成長。
それが自然なこと。
……それでも、胸が焦がれてしまう。
置いていかれるようで、温度だけが胸に残る──
だから、私は“私自身”を大切にしたいと思った。
あなたの輪から外れてしまっても、
自分を持ち続けられるように。
先日、ひさしぶりにヨガマットを広げた。
息を吸って、吐いて
吸って、吐いて──
静かな時間に、“私”が少し戻ってくる感覚。
雲が流れていくのを、
ただ、何もせずに見ていられる時間。
そんな瞬間が、今の私には必要だった。
あなたが走る。
私はその風に、少しだけ置いていかれる。
同じ時間に立っているけど、
見ている景色は、きっともう違う。
それでも、今朝。
あなたの寝息と、手の動きが
私と“時間を共有している”ように思えた。
この瞬間を、一つでも多く心に残したい。
“母”である前に、“私”でいたいと願った朝。
あなたが未来へ駆けていく隣で、
今日という一日を“私自身として”歩いてみよう。
たとえまた明日、同じことでくよくよしても──。

