建物の持つ『センチメンタル・バリュー』。オスロの築133年住宅と、札幌時計台は、マサチューセッツ州でつながる。
傑作映画のキャラクター、一軒の家。
現在上映中の映画『センチメンタル・バリュー』は、ヨアキム・トリアー監督の最高傑作だ。
この映画は、砂浜・劇場・姉妹それぞれの自宅・ドーヴィルの自然での短い場面を除けば、ほぼずっと、一軒の戸建て住宅で展開される。
背景を通り越し、まるで「映画の登場人物」のように存在感のある、とても印象的な家だ。

名優ステラン・スカルスガルド演じる主人公、映画監督グスタフは、この家で生まれ育った。そして彼が去ったその後は妻とふたりの娘が暮らした。
ふたりの娘は、各部屋のストーブの共通煙突を通して、家の中の会話を盗み聞く。
妻の葬儀で、父と娘たちが再会するところから、この映画は始まる。
姉ノーラの方が主人公で女優。前作同様レナーテ・レインスヴェが演じる。妹アグネスは歴史研究者。新星インガ・イブスドッテル・リッレオースが演じている。
姉ノーラが父の提案を断り、代わりにエル・ファニング演じる若き大女優がやってくる。この4人、なんと全員が本作でアカデミー賞にノミネートされている。
物語が進むうち、グスタフが生まれる前には、この家にはグスタフの母と、妹(グスタフの叔母にして育ての親)が暮らしていたこと、戦争とおそらく隣人の密告によってナチスに対するレジスタンス活動に参加していた母とその妹が引き裂かれ、母の心に癒えない傷を負わせたこと、さらにそれが悲劇によってグスタフ自身の癒えない傷になり、さらに姉妹の不信と苦しみの元になったこと、そのすべてが起きた運命の家であることが、静かに明かされる。
劇中、1918年から2023年の105年間、一軒の家が、変わり続ける時代の中で揉まれる三代の人々を包む。
大きすぎず、小さすぎず、古く、ひび割れ、トラウマの源泉であり、それでもなおかつ「感傷的な価値」を失わない、家族そのものを象徴するような家。
そこには、父祖三代に渡って映画に関わってきた、ヨアキム・トリアー自身の実感も込められているように思われた。
なお、『ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)』で知られるラース・フォン・トリアーもまた義父が同じトリアー家で、子役時代から映画業界に関わった。ただし、ラースの実父は著名なレジスタンス運動家で、母の臨終の床でそれを知らされている。ラースと実父の関係はその後も含めて悲劇というほかなく、ラースの作品に重大な影響を与えている。
そしてヨアキムの本作にも、ヨアキムから見たラースの影を感じる。
北欧においては、戦争の影は西欧よりもずっと重い。
正体は、オスロ都心に残る築133年の古民家。
あの住宅が気になって、少し調べてみた。
実際にはロケ撮影は外観と1階だけで、残りの大半、とくに寝室と2階はLEDディスプレイの前にセットを組んで撮影されたという。
塗り直し改修するシーンが撮影できたのは、セットの方だったから。
窓の外に映る樹が成長していたのは、CGだからだ。
とはいえ、あまりに絵になりすぎるし、劇中の時代設定に合っている。
―― それは、やはり実在する家だった。

撮影:ヤン=トーレ・エッゲ Jan-Tore Egge。以降すべて彼の撮影した写真だ。
地元の建築遺産を記録する素晴らしい仕事に感謝。CC BY-SA 3.0

右側ベランダの三連の比は、12:5:12で、出入りする階段が極端に小さい。
このベランダの階段が、ステラン・スカルスガルドとエル・ファニングに最高のシーンを用意する。
1892年竣工、撮影当時で築133年、グスタフの倍くらい歳をとった古い家である。105年家族3代に渡る歴史を収めるに、ふさわしい。
この住宅、ノルウェーの建築家、シグルド・R・グルブランセン(Sigurd Reidolph Gulbransen)が若い頃に設計した住宅で、いわば登録文化財級の古民家だ。
しかもトーマス・ヘフティーズ門通り25番地という、オスロ都心に近い、非常に高価な土地に建っている。日本で言えば小石川か白金台あたりのイメージだろうか。
劇中、リッレオース演じる妹が「買い取ることはできない、高すぎて」と述べるシーンがあるが、立地も価値も、今や高すぎて手の出ない超高級住宅なのだ。
ニューヨーカーの記事は、この家をドラゲスティル(竜様式、Dragestil、Dragon Style)の一種として説明しているが、これは非常に雑な分類で、誤解を招く。
また、当時世界で流行していたスイス山小屋様式(シャレー様式、ノルウェーで言うスイス風住宅 Sveitservilla)の影響を多少受けているものの、それとも違う。そもそも①壁がログハウス(校倉造り)風にすらなっていないし、②上部だけが張り出してもいない。③屋根も大きく架けず、この家では複雑な屋根の組み合わせになっている。
したがって、Dragestil/Sveitservilla といった大雑把なくくりは、厳密分類としてではなく、1890年前後のノルウェー木造装飾(sveitser-/drage期)の見え方を示す便宜的ラベルとして扱うべきだろう。
むしろ、あの家は不思議なほどアメリカ北東部マサチューセッツ州の住宅デザインにそっくりだ。
その理由は後にゆずるとして、ここでは「19世紀末マサチューセッツ様式の住宅」と呼ぶ。

右側1/3に開放的なベランダを配した点、地階の窓が基礎に開けられている点などは映画の家にもよく似ているが、ここでは中央ではなく、左側の食事室を外に大きく張り出し、左右非対称にしている。
右側ベランダの三連の比は、12:10:12。

オスロ大によれば、確認できないがおそらく設計も同じグルブランセンだろうと。
こちらは右側のベランダは建物の外側に張り出し、ベランダ三連は等分、12:12:12。
縦張りの外装は、後の断熱改修で取り付けられたもので、元の外壁はその裏に隠れているが、同じく横張りの下見板だったことだろう。
ここまで撮影:ヤン=トーレ・エッゲ Jan-Tore Egge

wikicommonsより。
その師は同郷のネストル・ゲオルギウス・トーマスセン(1844-1902)。
設計者グルブランセンは、最初に上記デビュー作をステンス公園近くのピレストレデットに展開、それを増やしつつ、コレッツ門25番地の第二期(現存しない)、そしてトーマス・ヘフティーズ門通りに一軒だけの第三期を設計した。
グルブランセンは事務所を設立直後の3年間、こうした木造戸建て住宅を手がけた。
だが1890年代後半には都市型集合住宅(bygård / leiegård)へ急速に軸足を移し、戻った形跡がない。舞台と同じトーマス・ヘフティーズ門通り沿い、45-47番地にマンション的なビルも建てている(1898–1900年)が、これはすっかり普通の設計だ。
初期の木造住宅はキャリア全体の中では短い期間に際立っている。
舞台となったあの家は、その「凝縮された期間」の最後に、一軒だけ建てられた。
よく建築家は「デビュー作かその周辺のどれか小規模な作品に、自分のやりたいことのすべてが詰まっている」と言うが、グルブランセンのすべては、あの家にあったのだと、映画を見ていても感じる。
これほどピンポイントに価値があり、かつ猛烈に「絵になる」住宅を選ぶことができたのは、トリアー監督の妻、ハレ・ベンディクセン・トリアーが、オスロ建築学校の助教(昔風に言うと助手)を務めているからだ。

奥方の方が芸能人に見える。
同時期のマサチューセッツ風デザインの結晶、札幌時計台。
さて、先ほどあの家は、アメリカ東海岸マサチューセッツ様式のデザインだと述べた。
実はそれと共通する貴重な文化財のひとつが、日本で著名な観光名所になっている。

札幌時計台(旧・農学校演武場)である。
ちまたではガッカリ名所なんて言われてるが、実はすごい文化財だ。竣工は1878年。『センチメンタル・バリュー』のあの家の、14年前に建てられている。どちらも日本の明治時代にあたる。
下見板張りの外壁に、細かく分けた上げ下げ窓。これは今でもマサチューセッツ州の住宅そっくりだ。
でも札幌時計台にはさらに、軒を深くするための持ち出し材、装飾付きブラケットや、螻羽の下に付く装飾付き破風板(vergeboard / bargeboard)まで残っていて、これはもう現地にほぼ現存しない、かなり貴重な文化財だ。
なお、ここで装飾のうち、斜めの部分のギザギザ装飾には水下に水を到達させずに切る、水切りとしての機能がある。ただの飾りではない。
時計台の基本設計者はウィリアム・ホイーラー(1851-1932)。
実施設計監理は大工出身の開拓使ベテラン技師、安達喜幸(1827-1884)。


ホイーラーは「大志を抱け(Be ambitious.)」でおなじみクラーク博士の後任として、札幌農学校(後の北海道大学)教頭に着任。
博士同様、ホイーラーもマサチューセッツ州の出身だ。
北海道とマサチューセッツが現在姉妹提携しているのは、クラークやホイーラーら、マサチューセッツから来た人々が取り持った縁だ。
そして、ホイーラーがキリスト教の中でもかなり尖った考え方を持ち込んだのも、19世紀後半マサチューセッツ州コンコードという特殊な時代・地域の出身だったからだ。
ニューイングランド建築に対する理解が深まると、ガッカリスポットとして揶揄されがちなあの札幌時計台でアハ体験が出来ます。基本設計者がマサチューセッツ州出身ってところまで完璧。面白いね。 pic.twitter.com/DGfMnq6FkE
— matori (@matori_gr) March 2, 2026
橋を架け続けた、時計台コンビと弟子たち。
ホイーラーは英語・数学を指導し、建築よりも土木で活躍、特に「橋」の人だった。時計台の建設と同時に、豊平川に大きな橋を架けた。
教え子に岡崎文吉、内村鑑三、新渡戸稲造、広井勇など。
彼らはホイーラーに影響され、文理両方で、橋に関わる仕事をした。
内村は宗教家。Jesus:イエスと Japan:日本という「二つのJ」を結ぶ 橋 になることを志した。
旧5千円札の新渡戸は外交官。後に東京帝大へ進む際、面接で「太平洋の 橋 になりたい」と話し、生涯のテーマとした。
ホイーラーの橋を、もっと直接・即物的に受け継いだ弟子たちも居た。

増水ですぐ流され、1か月程度しかもたなかったという。
東北帝国大学農科大学 編 - 『温故写真帖』第1集(札幌)より。

1878年の第4代豊平橋。11年もった。

1898年の第7代豊平橋。12年もった。

1924年の第21代豊平橋。ついに増水で落ちなくなった。
札幌市中央図書館より。
40年使われ、1964年道路拡幅のために架けかえられた。現在の橋は第23代。
ホイーラーが設計し安達が木造で架けた第4代 豊平橋 を、道庁に入った教え子の岡崎が後に北海道初の鉄橋、第14代に架け替え、さらにその後、帝大土木教授を退職した広井が設計指導し三連アーチの第21代豊平橋として、ようやく自然の猛威を耐え抜いた。
架けては流される 豊平橋 の物語は、北海道の人間と自然の関わりの歴史として、もっと知られるべきだ。札幌市広報が2ページ見開きで、わかりやすい。国交省のサイトもある。
なお、広井は関門橋の原型となった下関海峡横断橋案の設計も行っている。
また旭川市の旭橋は広井の教え子 吉町太郎一、つまりホイーラーの孫弟子が設計している。
オスロとコンコードと札幌に架かる橋。
時計台と豊平橋を建設後、ホイーラーは帰国し、故郷マサチューセッツ州コンコードに住んだ。
彼自身が設計した自邸は1884年に竣工。札幌の円山公園から名をとって「円山館」(Maru-Yama Kwan (means Round Hill House))と名付けられた。

どこから見ても非対称だがまとまっている、非凡な設計。
オスロのあの家にもどこか似ている。

彼は周辺一帯を開発し、母校マサチューセッツ農大の理事を務めながら活躍した。1880年には光ファイバーの前身となる、照明用導光チューブの特許(US247229A)を取っている。


ホイーラーとは、いったいどういう背景を持った人だったのか。なぜオスロのあの家と似た設計を、コンコードにも札幌にも残したのか。
コンコード、自然主義者の中心地。
コンコードは、大都市ボストンの郊外のひとつだが、何よりもまず1775年4月19日イギリスに対して独立戦争が始まった地だ。
そしてその後の19世紀、このコンコードを中心にマサチューセッツ州ボストン西部近郊では、「コンコード派」「超絶主義者」と呼ばれる哲学者 R.W. エマーソン(1803-1882)や自然主義者 H.D. ソロー(1817-1862)が注目されていた。
彼らの思想の源流には、北欧の科学者・神秘思想家 E. スヴェーデンボリ(1688-1782)がある。自然の中に神性を見るスヴェーデンボリの視点は、エマーソンを経て、生態学を先取りし、さらにまたアメリカ独自の精神哲学、後のスピリチュアル思想へと発展した。
この時期のコンコードはL.M.オルコットの『若草物語(1868)』など、多くの文学作品を産んだことでも知られる。
『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語(2019)』
第92 回アカデミー賞 衣装デザイン部門受賞、品賞他 6部⾨ノミネート。
作品賞
脚⾊賞(グレタ・ガーウィグ)
主演⼥優賞(シアーシャ・ローナン)
助演⼥優賞(フローレンス・ピュー)
作曲賞(アレクサンドル・デスプラ)
★⾐装デザイン賞(ジャクリーン・デュラン)
19世紀、アメリカ、マサチューセッツ州ボストン。 マーチ家の四姉妹メグ、ジョー、ベス、エイミー。情熱家で、自分を曲げられないため周りとぶつかってばかりの次女ジョー(シアーシャ・ローナン)は、小説家を目指し、執筆に励む日々。自分とは正反対の控えめで美しい姉メグ(エマ・ワトソン)が大好きで、病弱な妹ベス(エリザ・スカンレン)を我が子のように溺愛するが、オシャレにしか興味がない美人の妹エイミー(フローレンス・ピュー)とはケンカが絶えない。
この個性豊かな姉妹の中で、ジョーは小説家としての成功を夢見ている。 ある日ジョーは、資産家のローレンス家の一人息子であるローリー(ティモシー・シャラメ)にダンス・パーティで出会う。ローリーの飾らない性格に、徐々に心惹かれていくジョー。しかしローリーからプロポーズされるも、結婚をして家に入ることで小説家になる夢が消えてしまうと信じるジョーは、「私は結婚できない。あなたはいつかきっと、もっと素敵な人と出会う」とローリーに告げる。 自分の選択でありながらも、心に一抹の寂しさを抱えながらジョーは小説家として自立するため、ニューヨークに渡る――。
広く公開されただけでも6度目となる映画化。
なお、過去の映画化も評価が高い。
ウィノナ・ライダーがジョーを演じた1994年版、
エリザベス・テイラーがエイミーを演じた1949年版、
キャサリン・ヘプバーンがジョーを演じた1933年版(モノクロ。なお、これがすでに、少なくとも3回目の映画化であった)。
日本アニメーションによる『愛の若草物語(1987)』。
2026年4月21日までの限定配信。
キャラクターの魅力に加え、コンコードの風景と、マサチューセッツ様式の家を堪能できる。
■キャスト ジョオ:山田栄子、メグ:潘恵子、
ベス:荘真由美、エイミー:佐久間レイ、
メアリー:中西妙子。
■スタッフ 脚本:宮崎 晃、音楽:大谷和夫、
キャラクターデザイン:近藤喜文、山崎登志樹、
作画監督:山崎登志樹、古山 匠、大谷敦子、
美術監督:高野正道、
プロデューサー:中島順三、石川泰平、
監督:黒川文男 他。OPを歌うのは新田恵利。


モデルは「オールドマンス」こと旧エマーソン邸だよね。
入り口が右にズレてたらもっとよかった。
2枚とも ©日本アニメーション。
興味深いのは、この「北欧由来の自然主義思想」を持つソローが、当時コンコード周辺に大挙してやってきたノルウェー移民と深い共鳴を見せたことだ。
後に出版された『日記』1852年1月の書き込みなどで、ソローは薪割りの仕事をしていた若者、アレクセイ・ミューラーと出会ったときの感動を記している。
単なる労働者だと思っていた彼が、実は多言語を操り、北欧の高度な教育を受けていたことにソローは非常に驚き、深い感銘を受けた。
ソローは彼を「真の貴族」と呼ぶ。物質的な豊かさを追わず、自然の中で誠実かつ自立して生きようとする精神性は、まさにソローやエマーソンが理想とした「自己信頼」の体現者だったからだ。
ソローは、アメリカの即物的な文化に染まっていないノルウェー移民の青年の中に、スヴェーデンボリ的な、北欧特有の静謐で深い精神性を見てとり、実感した。
ソローが『ウォールデン 森の生活(1854)』で説いた「簡素で自然に根ざした生き方」は、まさに北欧の風土が育んだ気質そのものでもあった。北欧の思想がアメリカで哲学となり、それが新天地へ渡ってきた北欧移民の逞しい生き方と再び巡り合うというフィードバックが働いたと言える。
実際、ホイーラー家は17世紀から当地に住んでいた有力一族で、ソローの生家もホイーラー家の農場にあった。
ホイーラー家は、アンダーソン家のような19世紀に移住してきたノルウェー移民と結んでさらに発展した。
あのウイリアム・ホイーラー(1851-1932)の名をとって名付けられた、甥で写真家のウィリアム・ホイーラー・アンダーソン(1924-1992)のアーカイブが整理されている。
ここから、ホイーラーの姉妹が、ノルウェー移民と結婚し、協力して子孫を繋いでいったことがわかる。
ホイーラーは、札幌に来る際にエマーソンの書を携えており、学生のうち最も宗教にのめり込んだ内村鑑三は、エマーソンから遡って、スヴェーデンボリまで読んだという。
他方で逆に、ノルウェー移民たちは祖国の親戚知人と交流を続けていた。
18世紀末にシカゴで移民たちが発明したバルーンフレーム構法。

バルーンフレーム構法の説明としてあまりに分かりやすい。
壁自体がしっかり作られているので、作ってから引き起こすこともできた。
高所作業に慣れていなくても、引き起こす時だけ人を集めれば
家が建てられるとあって、移民にとっては大発明だった。
この壁、セットでも2トンあり、バスターキートンは命がけで撮影に臨んでいる。
首を傾げるだけでも怖いよ…かすっただけでしぬって。
そしてバルーンフレーム構法の利点を活かし、冷涼な気候に適したデザイン、マサチューセッツ様式。
誰かがこの組み合わせを、祖国ノルウェーに持ち込んだことは、ほぼ疑いない。
それはグラブルンセンか、その先輩の誰かだったのだろうか。アメリカに旅して見分したのか。グラブルンセンは、後に住宅設計用の図集を多く出版している。
あるいはノルウェーに戻った大工が持ち込んだのかもしれないし、図集・カタログの形だったのかもしれない。
いずれにせよ、こうして、アメリカ東海岸のデザインをたっぷり取り入れ、かつノルウェーっぽさを漂わせる、あの印象的な家が生まれた。
ちなみにバルーンフレーム構法の子孫が、今でいう2×4(ツーバイフォー)構法である。
現代の住宅メーカー、例えばスウェーデンハウスなどにも、そうした構法とデザインの系譜は受け継がれている。

実際には、スウェーデンハウスでも、様式はぐちゃぐちゃに混ぜられることが多い。
上げ下げ窓は気密性に限界があり、開き窓にとって代わられた。
■ 結論:19世紀に北欧 ⇔ マサチューセッツ州 ⇔ 札幌という不思議な旅が起きていた。
一部に謎は残るが、種明かしはこれで終わり。
つまり札幌時計台と、『センチメンタル・バリュー』のあの住宅が似ているのは、
19世紀末(明治中期)という時代に
ノルウェーの文化を受け継ぐ人々が、オスロと
移住先であるアメリカ・マサチューセッツ州、
特にボストン西部近郊コンコード周辺の、
両方に同時に存在、互いに交流していた。
彼らは新たに生態学や自然観、宗教観を開拓しながら
建築面ではシカゴ発のバルーンフレーム構法を取り入れ
冷涼な気候に適した新しい形の木造住宅をつくっていった。
それは左右非対称で、片側に特長的なベランダを持ち
勾配の強い切妻屋根と、縦長矩形の小さな上げ下げ窓、
その周りに彫刻装飾を伴っていた。
彼らのデザインはオスロとコンコードで驚くほど似ていた。
そしてそのうちの若いひとり20台後半のW.ホイーラーが、
マサチューセッツ州コンコードから札幌にやってきて
札幌時計台と豊平橋を築いて帰った。
そして、その14年後にもうひとり、
20台後半のS.R.グルブランセンが、
オスロであの家を建てた。
というわけなのだった。

ラストシーンでは、内装が直され、白色が塗られただけでなく、
屋根には瓦が葺かれ、ベランダの火打梁も作り直されている。
□ 付録1:19世紀末までのマサチューセッツ州の木造住宅文化財 ~ 文学史を添えて。

通称オーチャードハウス(1650年頃)。
17世紀時点ではデザインは左右対称だ。
ここでルイーザ・メイ・オルコットは『若草物語』を書きあげた。
現地には現上皇ご夫妻のご訪問記録もある。

若草物語クラブ https://wmcjp.org/?page_id=208 より。

若草物語クラブ https://wmcjp.org/?page_id=208 より。

1770年に建てられた旧牧師館(オールドマンス)。
表から見ると左右対称。
エマーソンの後、作家ナサニエル・ホーソーンと
画家ソフィア・ピーボディの夫妻は、新婚時にここを借りていた。
その後は「19世紀最も博学な女性」サラ・アルデン・
ブラッドフォード・リプリー(1793-1867)が住んだ。

ボストン公共図書館所蔵、初期マサチューセッツ建築写真資料アーカイブより。

庭はソローが整備した。ある種の聖地と見なされている。
wikicommonsより。

オーチャードハウスの右隣50mにある。
ミニットマンの逸話をつくり、またオルコット家が逃亡奴隷をかくまうなど、
アメリカ史的にも価値のある家だ。
1717年に中央部(左右対称)が建設され、増築を繰り返すうち、
結果的に左右非対称になり、さらに片側に大きなベランダが設けられることで、
19世紀後半のピクチャレスクな流行と呼応していく。
後にホーソーンに売却され、ウェイサイドと改名。
wikicommonsより。

ボストン公共図書館所蔵、初期マサチューセッツ建築写真資料アーカイブより。

コンコードよりもさらに西、ウースターにある文化財指定の古民家。
「ゴシック・リバイバル様式とスティック様式」などと曖昧に評されるが、
この写真ではちっともスティック様式に見えない。
むしろシンプルな中にもはっきりと地域独特のデザインが織り込まれている。
左右非対称でトリッキーなベランダのつくり、破風やベランダや
窓枠への装飾が、19世紀末のマサチューセッツ住宅の流行。
wikicommonsより。

マサチューセッツ州、コンコードとウースターの間のハドソン。
アン女王風、ヴィクトリア風でありながら、やはり地域独特のデザイン。
ベランダの装飾や破風飾りが凝っている。この時代の最高水準の建物。
wikicommonsより。

同じ非対称・似た屋根形状・ベランダありでもこうなる。
コーニス周りやベランダにギリシャ風の装飾が増え、それらを漆喰で塗り回している。
マサチューセッツ州ベルモント、プレザント通り歴史地区。
wikicommonsより。

壁がレンガになり、コーニス周りだけ装飾、屋根形状は2つ上とよく似ている。
wikicommonsより。
□ 付録2:19世紀末~20世紀日本の木造洋館。
時計台と豊平館は、大工出身の安達が、ホイーラーのバルーンフレーム構法を伝統的な軸組み構法にアレンジして、組み立てられている。
しかし表面のデザインは、ホイーラーのマサチューセッツ様式に忠実だ。
明治の洋館ではこうした、和魂洋才を地で行くアレンジが多く見受けられ、ただの下請けでない、大工の創意工夫を知ることができる。
ホイーラーの帰国後も、安達はマサチューセッツ風のデザインにこだわった。
明治天皇行幸のために1879年建てられた「北の迎賓館」「日本初の官営ホテル」にして「日本最古の木造ホテル」である、札幌市 豊平館 。時計台を観光するなら、絶対に併せて観るべき建物だ。
元は大通り公園の東端にあったが、今は移築され中島公園に建っている。時計台→豊平橋→豊平館で1~2時間で回れる。
豊平館は地元の方にとっては、結婚式場としてのご記憶もあるだろうか。

wikicommonsより。
ホイーラーと安達は、モデルバーンと呼ばれる実習棟をいくつか建てており、札幌市北18条周辺、北海道大学第二農場内に文化財として残る。
こちらはほぼバルーンフレーム構法だ。
とくにコーンバーンと呼ばれる棟が、マサチューセッツ様式をよく表している。

ホイーラーと安達の関わった建築と同じくらい、はっきりとマサチューセッツ様式なのは、宮城県川崎町青根温泉に現存する青根洋館くらいだろう。
これは明治末期、仙台市青葉区米ケ袋に東北学院と仙台教会の宣教師の家として建てられ、1959年と2002年の二度に渡り転々と移築されたものだが、詳しいことはわかっていない。
豊平館とは比べ物にならないほど質素な建物。しかし何ともよく似た設計だ。

そして、もうひとつ近いものを、我々は知っている。
『となりのトトロ(1988)』で描かれた、「まっくろくろすけ出ておいで!」の草壁家。
「サツキとメイの家」の洋風(父親の作業場)の方である。
和風住宅にくっついているが、これは紛れもなくマサチューセッツ様式。
こうした和洋折衷の文化住宅は、大正10年に命名され、昭和初期にかけて流行した。
その洋風デザインもさることながら、特に画家や彫刻家にとって重要な背の高い内部空間、あるいは2階を必要とする場合には、バルーンフレーム構法はコスト面で有効な選択肢だったからだ。
劇中の設定は1958年。
この家のモデルは、宮崎駿自身が戦時中に栃木県鹿沼に疎開していた時の文化住宅だという。


愛・地球博でもっとも人気を集めたのは、最新技術の展示ではなく、現実に建てられた「サツキとメイの家」だった。現在もジブリパーク内にある。
19世紀のマサチューセッツ州コンコードで起きた超絶主義、今でいうナチュラリズムやスピリチュアリズムが、このように思想と技術とデザインが融合し、記憶となってアニメの中に活かされ、そして愛されているのは、本当に面白い。
首都圏では、豊島区立 雑司が谷旧宣教師館・旧マッケーレブ邸(1907)と、旧尾崎テオドラ邸(1888)のデザインが、マサチューセッツ様式に比較的近い。
前者は、テネシー州出身の宣教師、J・M・マッケーレブが住居兼協会事務所として建てたもの。「カーペンターゴシック」などと説明される。いや、ほぼゴシックではないぞ。
非対称で大きなベランダ、破風飾りなどがよく似ているが、窓の作りや大きさに違いがある。
後者は、世田谷最古の洋館。「下見板コロニアル」などと説明される。
「憲政の神様」と呼ばれた政治家・尾崎行雄が住み、彼のために父親が建てた住宅だと長年言われてきた…が、実はもうちょっと複雑だった。
父の外交官・尾崎三良がイギリスで国際結婚(明治初)。そして生まれた娘・尾崎テオドラ英子が、後に日本に移り住む際に建てたものだった。
尾崎行雄は先妻に先立たれた後、同姓の尾崎テオドラ英子と再婚している。
後に英文学者が買い取り豪徳寺に移築。2019年に解体されそうになっているところを、『天才柳沢教授の生活』などで知られるマンガ家・山下和美らが保存に乗り出し、クラウドファンディングなどを経て公開されている。
せかまん収録の際はお世話になりました。
— 山下和美 (ツイステッド・シスターズ⑧5月22日発売) (@kazumiyamashita) October 11, 2024
今後とも旧尾崎テオドラ邸を宜しくお願い致します😊 https://t.co/alfXQNLYp5
防災に気を配りつつ、「漫画の聖地」になることを願う。
機会があれば、建設時のファクトなど取材させていただきたいものです。
旧尾崎テオドラ邸で
— 山下和美 (ツイステッド・シスターズ⑧5月22日発売) (@kazumiyamashita) May 18, 2024
待ってるわ‥https://t.co/8TjvoBJq6J pic.twitter.com/Td7GEPf5rF
横河工務所時代に大熊喜邦が設計した旧武藤山治邸(1907)も近いが、ハーフティンバーなのがマサチューセッツ的ではない。

□ 付録3:本当の山小屋様式(スイス・シャレー)ってやつを見せてやりますよ。
これらに対して、同時代、ジョサイア・コンドルによる台東区の旧岩崎邸ビリヤードルーム(1896)を見ると、似たように見てハッキリ違う。
屋根の勾配はゆるく、より山小屋風に、壁が下見板ではなくログハウス風の校倉造り、破風の壁は鱗形のシングル張りになっている。そして平屋だけれども「スイス山小屋風」になっている。さすが設計が上手い。コンドル流解釈だ。
後に1913年に出版されるウィリアム・S・B・ダナ「スイス山小屋様式のデザイン」と比べると、その近さがわかる。https://dahp.wa.gov/sites/default/files/The_Swiss_chalet_book_1913.pdf。
なお、スイス山小屋風建築、とくにホテルは日本でも大正以降に流行しており、その系譜はこちらの論文「日本の山岳・高原リゾート地における疑似スイス風シャレー建築と英国風・チロル風ハーフティンバー様式(河村 英和)」に詳しい。
例えば、上高地帝国ホテル(1933)では、スイス山小屋風(シャレー様式)とハーフティンバー(スティック様式)が混ざっている。
すごいけど、割とハチャメチャ。
ちなみに『風立ちぬ(2011)』に登場する草軽ホテルの外観は、この2つに加えて、マサチューセッツ様式、車寄せには新古典主義まで盛り込んだ節操のないごちゃ混ぜになっている。
現実以上に過剰な混ぜ方で、昭和初期感をブーストしている。ユーモラスかつリアルだ。
にしても、隅柱(これはサツキとメイの家にも無かった)や窓や屋根だけがマサチューセッツ風で、毎回思わず笑顔になる。
これはこれで、日本の「本当」だよね。

□ 付論:ネタバレしつつ考えた。
長く、やたら専門的な論考をお読みいただきありがとうございました。
ここからはネタバレなので、本編を未鑑賞の方はこれ以上、お読みになる必要ありません。ぜひ劇場へ。
こちらの素敵なレビューで、家そしてノーラという主人公の名から、本作はH.J.イプセンの戯曲『人形の家(1879)』の反転でもあるという指摘を読んで、ああ、なるほどと腑に落ちた。
あの戯曲が、最後に「家を出る」ことで自己を取り戻す物語なら、この映画は「出られなかった家」を受け容れる物語だ。
ヨアキム・トリアーは、本作で家族が「いつも 愛が まるつぶれ」な状態から話を始めつつ、やがて「もしかしたらこうなったかもしれない」という、希望の光をいくつか、夢見させてくれる。
それは単なる甘い夢ではない。光は見失っても、なくならない。
ノーラが最初から断らず、レイチェルが降板しなければ、取材をグスタフが追い出さなければ、ネトフリはスポンサーを降りず、家は家族の元に残っただろうか? それが一番のハッピーエンドで、ハッピーエンドに到達できなかったこのビターエンドは、失敗か?
―― いや、きっと、その「ハッピーエンド」では、ノーラの心の闇は払われなかったのではないだろうか。
そもそもグスタフが出ていかなければ良かったのでは?
妻はセラピストとしてグスタフを治療できたのでは?
―― いや、妻はグスタフに、子を捨てた親の側の気持ちを体験させ、最後はあの脚本を書かせることで、長い時間をかけてグスタフ自身が母の自死というトラウマを乗り越えられるように、導いたのではないだろうか。
そうしなければ、父と娘の関係は結局もっと悪くなると思ったのかもしれない。
そう考えると、あのビターなエンディングにこそ、救いがあるようにも思えてくる。
これまでの見方や捉え方が変わって、「苦い現状」の中にも、希望を見出すことができるようになる。
すっ…と楽になる。
同時に、ヨアキム・トリアー監督作品は、誰かひとりのせいにしてしまわない。
ノーラ、アグネスとその夫、レイチェル、グスタフ、グスタフの妻、グスタフの母、その妹、それぞれによんどころない事情があり、ひとりひとりが何度も、本意でない結果を招いてしまう。
そんな家族に対する怒りやわだかまりは、なかなか捨てられない。
過去や歴史は、決して無かったことにはできない。
いくら相手を拒絶して終わりにしようとしても、結局は鏡の中の自分が追いかけてくるからだ。家族を捨てても、自分は捨てられない。
それどころか、「自分の中での家族」はどこまでも自分の一部なのかもしれない。それを傷つけたり無視したりしようとすれば、一番傷つくのは自分なのではないか。
でも、そんなわだかまりを抱えたまま、相手を理解しようとすることはできる。
手を差し伸べることはできる。
ひびが入ったから住めない、と家を放り出し、独りになってしまうのではなく、時に傷つけ、汚しながらも、丁寧に扱い、寄り添おうとすること。
家とは、共同生活とは、家族とは、そういうものなのでは。
―― その価値、感傷的な価値を伝えるために、あの古い家が必要だったんじゃないだろうか。
大きくも、小さくもなく、古く、ひび割れ、トラウマの源泉であり、それでもなおかつ、いつまでも心の中であなたを支え続ける、家族そのものを象徴するような家が。
たぶんこの2つ、ビターエンドの救いと、スケープゴートにしない眼差しが、自分にとってのヨアキム・トリアー監督作品の良さだなあ、というような感想を記して、筆を擱く。
