【メタ批評】批評の4極と、立場の自覚。
良いレビューを見た。
批評を3極に、わかりやすく整理。
批評とは特別な行為ではありません。
映画を観て「刺さった」「刺さらなかった」と感じた瞬間、私たちはすでに何かを読み、何かを判断し、何かを語ろうとしていて、その時点で、誰もがもう批評の現場に立っています。
それらに違いが生まれるとすれば、
観客主義的に「体験の言葉」で出るのか、
作品主義的に「構造の言葉」で出るのか、
作家主義的に「作家の物語」として出るのか、
その起点と翻訳先の違いだけです。
「どの批評が正しいか」「いかに持論が正しいか」という答え探しや仮想敵探しは、無意味であることに注意したいと思います。
多くの混乱は、自分がどこから語っているのか、相手がどこから語っているのかを自覚しないまま、同じ土俵に上がってしまうところから生まれます。
逆に言えば、自分の立ち位置が分かった瞬間、批評はぐっと自由になります。
合わない作品を急に好きになる必要はない。
解釈不一致の批評と戦う必要もない。
もちろん時には戦うことも自由ですが。
でも「なぜ合わなかったのか」
その時互いがどの言語で語っているのかが見えたとき、それはただの好き嫌いではなく、
もう一段深い“読み”になる。
『果てしなきスカーレット』がここまで議論を呼んだのは、作品が未完成だったからでも、失敗作だったからでもなく、
私たち自身の「読みの立場」を強く露呈させる作品だったということだと思います。
炎上も、再評価も、すれ違いも、空中戦も。
それは作品の外側で起きている“ノイズ”ではなく、作品がまだ対話を生んでいるという証拠です。
つまりこの作品は、今もちゃんと呼吸しているということ。
だからこそ、そこにちょっとした批評のコツや地図があるだけで、僕たちの会話はもっとラクに、もっと面白くなる。
正しさの殴り合いじゃなく、立場の違いを踏まえた上で「自分はこう読んだ」を持ち寄れるようになる。
自分からはやや観客主義寄りに見える立場だが、とても誠実な考え方だ。
批評の4極が一党独裁に支配されるまで。
実際かつては、以下の4つの極が互いに牽制し合っていた。
作家主義をひきずるオタクは、作家の執念を信じて読み解き、二次創作し、作品同士を繋いだ。
作品主義にこだわる研究者は、構造の論理でテクストを解剖し、構造を分析、手法を体系だて系譜に整理した。
現実主義にひっぱられる評論家は、創作を現実の表象、世界の反映や風刺と見なしてその投影の当否や参照の正誤を論じ、歴史と接続した。
観客主義におもねるサブカルライターは、時代の空気を読み、消費社会と作品の共鳴を祝った。

2極・3極を兼ねる批評も多かった。決して1強にならないよう、均衡の上に批評が成り立っていた。
しかし現在、状況は大きく変わった。
作家主義は執念を失い、推し活という消費行動に回収された。
作品主義はタイパの低さにいじけ、象牙の塔に引きこもり、ポリコレという表層の公共性に回収された。
現実主義は創作以上に不安定化・戯画化した現実に直面し、投影の価値や、創作が現実に及ぼす影響を強く主張できなくなった。
そして残った観客主義は暴走し、興行収入とレビューの平均スコアだけを気にして、東浩紀の予言以上に動物化してしまった。
かくして批評は1極化した。
東や宇野の希望的観測では、観客主義の実感をテコに、作家の執念を照らし、作品の形式を媒介として、現実社会へと跳ね返すことができるようになる――はずだった。
ところが今や、自分の情緒を最大化してくれる作品だけを摂取し、それ以外を炎上で排除する。
動物化した観客の生態が、作品よりも情緒的なエンタメになる、そんな動物園にわれわれは居る。
もはや作品は「観客がいっとき騒ぐための、焚き火の燃料」に貶められてしまった。

SNSでは、作品の批評ではなく、「その作品を観てどう騒いでいるかという観客のリアクション」を観て楽しむという二重・三重・・・の消費が繰り返される。
作品の内容や質よりも「なぜこれが叩かれているのか」「どう再評価されているか」という、議論の混線そのものが、最も刺激的なコンテンツ、情緒的なエンタメになってしまう。
作品よりも、軽薄な批判をもてはやし「作品より批判の方が面白い」「おかげで作品に触れずに済んだ」と言い放つ人々。
あかん、これでは作家も作品も、先細りしてしまう。
令和人文主義の問題。
最近流行している「考察」や「人文っぽい語り」、いわゆる「令和人文主義」には、哲学・社会理論・批評語を参照したり、メタ視点を装いながらも、批評の4極を、観客主義の独裁に委ねてしまうものがほとんどだ。
その理由はふたつある。
ひとつ目の理由は、批評に内在するリスクの回避だ。
作家主義には、人格・意図を読み違えるリスクがある。
作品主義には、論理破綻や実証不備のリスクがある。
現実主義には、史実や社会分析を誤るリスクがある。
しかし観客主義だけは、安易なままでも「そう感じた」と言い張ることで逃げる道が残っている(と現代日本では見なされている)。

令和人文主義において、一見作品主義に見える考察が、未整理のまま観客主義に吸収され、感想の強化装置に終わるのはこのためだ。
「わからない」は不快だが、とても良い状態だと自分は考える。間違えるかもしれない、わからない、わからない、それでいい。
勉強とは「わからない」に耐え、間違えるかもしれない自分を認める訓練である。
そして、間違えることを恐れず「わからない」を「わかる」へ変えようとする行為が学習だ。
知識が増えたけれども、わからないことも昔よりずっと増えました。以前は存在自体に気がついていなかった謎や疑問がいくつもある。解決した問題よりも新たに気がついた問題の方が多い。だから、やればやるだけ疑問は増えていくわけです。でも新たな問題、疑問に気がつくというのはとても愉快なことで、自分が一つ賢くなった気がします。
ノーベル賞をもらうような人たちは、私たちよりも格段に知識の量が多いだろうけど、わからないことも私たちよりずっと多いんだろうなと思います。少し逆説的かもしれませんが、人間の賢さというのはわからないことの量で決まるのではないでしょうか。
だが「わからない」「間違えるかもしれない」に耐えられず、できるだけ早くラクに「わかる」「間違いない」に到達しようとすると、解釈を増殖・分岐させるよりも、収斂させる態度が優位になってしまう。SNSが言論空間となり、この傾向は加速した。
令和人文主義者が作品の解釈を、増殖・増幅させようとせず、空気を読んで収斂させようとする様子は、まるで学級会の同調圧力のようだ。
それは批評どころか、知的な装いをふりかけただけの、空気を読む作業に過ぎない。
SNSでの批評は「作品がどのように優れているか」ではなく「どの感情が正義か」が競われる、情緒の競技場だ。逆張りは、数の暴力で圧され吊るされる。吊るされたくないから、「間違えない」「わかる」ことを優先する。
観客主義の高度化に見えて、実際には 観客主義の恐怖政治 に近い。
本来、批評とは「別の見方を提示して世界を広げる」行為だ。
だが今の批評は「みんなの正解を確認して安心するためのツール」に留まり、作品を「観客がいっとき騒ぐための、焚き火の燃料」に貶めている。
クリエイターが、命を削って送り出したものを、ゼロかイチかで断罪することに躊躇のない、リスペクトに欠けた言論空間。こんな酷薄な砂漠で、みずみずしい創造性が維持されるとは、自分には思えない。

ひとりのレビュアーとして。
自分は観客主義で終わらず、作家主義と作品主義と現実主義を取り込んだ、バランスの良い批評、わずかでも独創性のある視点を意識して、批判を受けるリスクを取りながら、レビューを続けていくつもりだ。
自分の読みが間違っているかもしれないというリスクを負ってでも、作品に対して誠実な言葉を捧げたい。
これまでに自分を形成してくれた、多くのクリエイターたちとその作品群に対して、金銭だけでなく、時を超えたリスペクトで報いるために。
