恋の墳墓 13
自分が自分でなくなる ――多岐川美雨の手記4
お酒もたばこもやらないきれいな躰の私。まさか子供たちを送り出して夕方までのフリーな時間がこんなにも長くて閑暇に感じられるなんて思わなかった。気をまぎらわそうとワインをちょっと舐めてみたけど、途端に頬が上気してしまって偏頭痛に見舞われた。こんな私、いけない。でも結局、することがなくてトオルくんからのLINEを待ってしまう。朝に・昼に・夕に、そして夜中に。この頃は迷惑だと思いつつもわざと彼の仕事中にメールを入れてしまう。それも大事なインタビューのときにばんばん送っちゃう。何ていけない主婦なんだろうと思いつつも知的でクールなトオルくんが携帯のバイブに気づきながらも、動揺の中、澄ました顔してやりすごす姿などを想像している瞬間が、最高にしあわせ。
英会話スクールは、教えているメンバーが近所のお子様だからそんなに高いレベルは期待できないけど、フリートークやトピックをひろってきて議論などもする。ちょっとしたワード遊びもやる。それなりに結構愉しんでいるのだけれど、この頃はどうしても愉しめない。ハッピーという言葉がこれほど遠くに感じられたことはない。結局、会話って、意思の交換の妙(みょう)に愉しさがあるのだけど、大事なのはコミュニケーションをする相手で、この人たちとやりとりをしていても念仏を唱えているようにしか思えない。英会話の最中、失礼だなと思いつつも、子供たちやママさんの発音がノイズに聞こえてくる。ノイズは耳に残らない。つまり意味のない音。トオルくんとは、二人が逢うことについての話題はさけるている。だってこわくて。とっても怖い。何月何日にK駅で待ち合わせ。そんなこと、私にできるかしら。じつは先週末、夫が北海道に出張していてフリーだったのに、トオルくんになぜか教えられなかった。尻込みする私が許せない。
ちょっと太りぎみだったからこの一週間は一生懸命ダイエットに励んでしまった。誰のため? トオルくんに逢うため。彼の目線に耐えるため。夫に、お前ちょっと痩せたんじゃないか。と言われ、無性に腹が立って、もちろん夫はノーマルな人だから、そんな私のむくれた理由などすこしもわからない。わからくていい。馬鹿はそっとしておけばよろしい。で、すっかり人付き合いがおっくうになって、必要のないとき以外はなるべくひとりでいるようになったの。こんなとき、サンディがいてくれたらな。お気に入りの藤井風くんの音をかけて、車で、近くまで買い物。といっても埼玉の北の、関東の、平野の、のんべんだらりとした風景のど真ん中。ドライブをしたところで何もあるわけがないじゃない。何をしても気持ちが晴れない。こうなるといよいよ、トオルくんに逢うしかないのかな。それにしても私は何をそんなに怯えているのかしら。
――こんばんわ。トオルくん。
今日も普通のおばさん、してしまいました。何もしなかったような。それでいてあくせくと動きまわっていたような。下の娘も幼稚園で、もうずっとそばについていなくても済むようになったので、この頃は、急に自分の時間が増えたような気がします。
この前の取材はうまくいったのかな? ちょっと心配だからその時間に手を合わせてしまいました。通じた? いつかトオルくんが良いって言っていたフランスの作家のコンスタンの『アドルフ』、今日、岩波文庫で購入しました。薄い本なのですぐ読めるよね。今夜からさっそく読書に励みます!
実は先日勧めたのですが、やはり『アドルフ』なんて、よしたほうがいいです。読み物としては気に入っているで、先日、ミウに紹介しましたけど、よくよく考えると私のひとりよがりでした。やはり読まないほうがいいです。やはりでなく、たぶん読まないほうがいいです。読書などより、もっと自分の時間を優先されてください。
珍しくこんなぶっきらぼうな短い返信が送られてきた。こんな忠告をされるとますます読んでみたくなるのが人の常。それでさっそく読んでみたら、な~に、これ! さる貴族の囲いモノの女を年下の前途ある青年貴族のアドルフが誘惑してあと、こんどはその年嵩の女の絶望的な支配から逃れようと女々しく逃げまわる男の告白記。じゃない。しかも女のほうは旦那様の寵愛も愛する子供も財産も捨ててアドルフの胸に飛び込んだのに、この青年貴族は、最後にはこの女を捨てるのだわ。愛の蜜月は第一章にしか書かれていなくて、第二章からは延々と別れ話が続く。失礼しちゃう。こんなものが好きだなんて。私は年上の囲われマダムじゃなくてよ。トオルくんの、好み、というより、これが彼の常套の手練手管なのかしら。いずれにしても、私、こんな小説、ノンだわ。安心してね、私のラブは命がけじゃなくてよ。なんて思っていたら、急に真っ黒なパニックが襲ってきて、口から異物を吐いてしまったの。黄色いさらりとした液体が口から噴水のように飛び出して、イン・ザ・ルームのお気に入りのソファベッドをだんだらに汚してしまった。ああ、美しいクリームいろの生地がもう台無し。トオルくんが『アドルフ』なんて読ませるからよ。とか、逆恨みをしていたらおなかのあたりがふにゃふにゃしてきて、首のリンパがきつくきつくこわばってきた。空気が薄い。息が苦しくなって、たくさん空気を吸うのだけれど吸うだけで、どうやって吐いたらいいのかわからない。すう~はぁ~、すう~はぁ~。出産のときに学んだ呼吸法を思いだす。だめだ。苦しい。途端に視界が紫いろに暗くなってきた。天井が変に歪んでいるのはどうしてかしら。どうして? と思っていたら時計のカチカチカチと時を刻む音が脳の奥のほうでする。耳のうらが痛い。何かの本で読んだけど、脳のこの部位は記憶をつかさどる海馬があるあたり。やだわ、海馬だって。耳の奥で木琴が鳴っている。ず~と。何でしょう、この音は? またおなかがふにゃふにゃしだした。おなかが笑っている。口の中がとても乾き、急に寒くなったと思ったら心臓が一気にこわばった。
自分が自分でない感じ。ちょっと宙に浮いて、自分の殻の外から、自分を見下ろしている。
待って。これ、まずい。
自分が自分でなくなる。
自分が自分でなくなる。
自分が自分でなくなる。
自分が自分でなくなる。
自分が自分でなくなる。
自分が自分でなくなる。
自分が自分でなくなる。
死ぬわ。死ぬ。
トオルくん。助けて。ミウ、死にたくない。まだ死にたくないよ。まだ何もしていないの。私、まだ生きていないの。したいことなんて何もしてこなかった。いつもたくさんの人の中にあってじろじろ見られてきたわ。いつも他人が私の外見を見て何かの判断を下すのだわ。道を歩いているだけで嘲笑が襲ってくるような気がした。私の行く先々で他人の意識がある。私はわるくない。いつも良い子にしてきたもの。なのになぜ? じろじろじろじろじろじろもういい加減にして! 私は何もわるくないのよ。わるくなかったのよ。ふつうの女の子として生きていたかった。生きることは、そんな重い命題じゃない筈。
ふつう。そう、ふつう。ただふつうであればよかった。私を見ないで。電車に乗ってもデパートの中にいても、ひとりでいても誰といてもいなくても、ごはんを食べたあとふとため息をする瞬間だって、いつも誰かが、私を、見ている。あの目は何なの。私は何も意識しない。意識なんてしていないのに。常に意識させられる。これ以上、私をいじめないで。私はふつうの人。私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、ほんとうにふつうの人なんだから。邪魔しないで。ただ空気を吸うだけ。吸うだけ。吸って。そして吐く。吐くだけ。吐かせて。誰も侵入してほしくない。吸うだけよ。でも吐いたら迷惑なんでしょ? 吐かないわ。周りには迷惑をかけたくない。ひっそりと存在していたい。野の草のように。誰にも後ろ指をさされたくないの。自分は自分なんだわ。なのになぜ? あっ、お父さん。これ何? どうしてそんなに息づかいがあらいの? 変だわ。お父さん。そんなに肩を強く掴まないで。私は、どこにも行かないから。私は誰も傷つけない。傷つけられても傷つけない。逃げない。泣かない。叫ばない。いたい! お父さん、痛いよ。なぜ、ミウの中に入ってくるの。胃から真っ黒なあめ玉があがってきた。壊れるよ、ミウ。こわれる。私は、まじめな子、良い子、すてきな子。頭だっていい。心もすなお。そしてかわいらしい。みんなから愛される子。愛し・愛される。
愛し・愛されること、それが理想だ。
アイシ・アイサレルコト、ソレガ リソウダ。
トオルくんにそう言われて何かが変わった。
助けて。苦しいよ。このままじゃ死んじゃうよ、トオルくん! お願い、助けて。苦しいよ。苦しいんだから。みんな嘘ばっかり言っている。みんな心から笑っていない。また私を利用しようとするのだわ。きっとそう。こんな世の中、いつまでも続くわけがない。みんな嘘ばかり。トオルくん。助けて! トオルくんのことを強く念じた。そしたら小さな光が見えてきて額のあたりに温かいものが流れこんでくるのがわかった。心が肉の殻に戻り、苦しみは去った。パニックの遠くに私は保護された。すこしずつすこしずつ感覚が戻ってくる。つらい感覚のよみがえりだけど、これが私のほんとうの感覚。呼吸が静かに落ち着いてくる。トオルくん。また救ってくれてありがとう。
そのまま夕方までゲロで汚れたソファに横たわった。たそがれの闇の中でひどく落ち込んでいた。いつまでも悲しみが持続するようだった。子供たちは今夜は母のもとに預けている。夫はまた残業だろう。誰からも連絡が入ってこない。私はひとりなのか。この疲労感は何でしょう。さみしくて、すこし、ほんのすこしだけ、生きていてもしょうがないかなと思えた。こんな感覚ははじめて。明かりもつけずに私は天井を見続けた。
そのときスマホが鳴った。トオルくんからのLINEだった。トオルくんに逢いたい。トオルくんに逢わなくてはいけない。私をわかってくれるのはトオルくんだけ。彼のほか、誰も私に力を持たない。そうだ。今夜、彼に電話してみよう。
――今夜、電話していいかな。声聞きたいな。心臓がちょっと苦しくて。お願い。
どうしたの? また発作? 僕で役立つことがあればいくらでも協力するよ。ミウの都合のいい時間にかけて来てね。ただし、今夜は取材先とコンシンカイなんだ。最低だろ。懇親会。それが済むのが九時頃だから、きっと十時には家についているよ。それまで待てるかな……?
――私、待つ。きれいずきのトオルくんだから。きちんとお風呂に入ってさっぱりしたあとの声を聞きたいかな。十一時くらいに連絡するね。私、それまで何とかして時間を過ごします。
時間は針のようだった。一秒一秒がとても長くてつらかった。秒針を追いながら一分がこんなにも長いなんて。これが六十回まわってやっと一時間! あまりにつらいので耳をふさごうと思った。目をつぶそうと思った。でも十一時まで待たなくちゃ。トオルくんの存在が大きい。トオルくんの優しさが偉大だ。優しさって理解力だわ。もう私は自分のことを自分で解決できないのかしら。はやくトオルくんの声が聞きたい。そのときスマホが鳴動した。
トオルくんだった。
初めて耳にする声。少し低いのだけれども野太くなく、音に嗜みと流れるようなリズムがある。その声の調子。聞く者の耳に不快にならないようにたえずコントロールしているような。私にはわかる。甘く切なくそれでいて強く悲しい。声。というより、音楽。その声があまりにも耐え難く美しいので私は気を失いそうになった。適当な返事が浮かばない。いいえ、返事をしなくても、一方的に聞いていても癒される波動だわ。トオルくんも暗い洞窟をくぐりぬけてきた人なんだ。あらゆる美しさの起源には傷があるもの。どうしようもなく深くえぐられて超えがたい鉛のような悲しみ。トオルくんと私は同類なんだわ。この優しさは、何? 携帯からトオルくんの悲しみが私の中にどっと入ってきて瞬(またた)く間に占領されるのを感じた。私、今まで、何をしてきたのかしら。この三十九年間、時間を無駄に過ごしてきたのかしら。こんなにも深い悲しみを背負ってきた人がいるのだわ。トオルくん。君はいったい何を経験したの? 受話器からもれるブレスが耳に心地よい。私は知っている。この声は神と直結した何かよ。癒し、ふとそんな言葉が浮かぶ。今まで何度墜落したのでしょう。そこで何を見たのかしら。私は知っている。トオルくんはダイブする魂なのだと。遠くで鐘の音が聞こえる。どこまでも重くとどく祈りの響き。この響きは宇宙に共鳴している。トオルくんの声は、オンガク。この悲しみはすべての許しに通じる。
私、ずっとつらかったんだわ。やっと出会えた。この人に。この感性は冬の夜空の金星のようにけざやかに毅然としている。生きていくことはつらいもの。でもつらいと認めるなと教えられてきた。泣きたいときは泣けばいいのに。そうすることが罪だと教えられた。この世に強い人なんていない。弱さはそっとしておけばいいの。誰もそれを矯正することなんてできやしない。毅然と泣けばいい。トオルくんは、そのことを、私に気づかせてくれた。もう私はひとりではない。誰も私を否定できない。私、生きていてよかった。今、そう思う。
――昨夜は疲れているのに連絡をしてくれてありがとう。昼間、今まで経験したことがない激しいパニックに襲われて、本当に自分を見失ってしまったの。わかるかしら。自分が自分でなくなる感覚……。体のつらさなんてたいしたことはない。問題は、この世によってたつ場所がなくなるという怖さ。その不安に耐えられなくなって、私、もがいたわ。遠い過去まで行ってしまった。そこには小さい頃の私がいて、お父さんが裸で私をためしているのでした。こんなこと、トオルくんにしか言えない。でも、トオルくんならわかってくれるよね。
夕方、目が覚めて、ふるえる手で、パソコンのキーを叩いたの。昨日は大事なインタビューだったんだよね。ごめんなさい。でもトオルくんに私の存在を伝えたくて。どこにいてもあなたと交流していたいの。つながっていたいの。まだ見ぬトオルくんが私の生きる世界なの。そして夜まで待ちました。アロマの香りで気持ちを落ち着けようとしたのだけれど、時間は無情にも長く感じられて、あのときほど時間が責め苦だと思ったことはありません。今、あなたはどこにいるの? 何をしているの? 何を見ているのかしら? この場所で生きている限り、あなたと混じり合えない私。私は、トオルくんを侵すことができない。
トオルくんが教えてくれたプラトンの話。聞いたときは笑ってしまったけど、今の私なら理解できる。昔、男と女はひとつのボディで、一つの体に頭が二つ、腕が四つに、足が四本。男と女はいつもひとつだったけれど、あるとき半分に割れて、男と女は別々の存在に別れた。それ以来、男は離れた女の部分を求め、女も離れた男の部分を求め、かくて男女は永遠にさまよい、求め合う関係となった。生きているのがつらいから、必死で求めても混じり合う瞬間はわずかで、つながったと思ったらまた離れてしまうばかりで、男は女を占領できず、女も男と混じり合えない。この世はどうしたところでつらいから。死んだあと、真に求め合う男女は融合してひとつの魂として混ざり合う。その歓喜は想像を超えていて、言葉では言い尽くせないほど。その歓喜は永遠で、神といえども分離できない。その歓喜は卓越していて、宇宙で唯一の存在として汚すことができない。
トオルくん。私、やっとあなたに出会えた気がします。こんな私じゃ不服よね。だってもうおばさんだもの。こんな私じゃ。でも勇気を持つわ。だってトオルくんが私を救ってくれた。私のパニックを退散させてくれたの。これって、愛の力じゃなくて。恥ずかしいことだけど、この歳(とし)になってはじめて人を愛するということを知りました。そう。アイシ・アイサレルコト、ソレガ理想よ。今まで、私は誰も愛さなかったのです。いいえ。愛せなかったのです。アイスル意味を知らなかったのです。それがどんなに大切なことかを知らなかった。全身で対象にぶつかる勇気。人は知らなくってね。だのに、みんな我知り顔に生きている。本当は何も知らないのに! そのことを昨日、トオルくんが、私に、教えてくれました。世界の不毛なんて問題じゃない。今なら鬼畜にレイプされている瞬間でも、天国の浄福を味わえることでしょう。
だって、私、もうひとりではないのだから。
――だから、私は、トオルくんに逢います。
――未来のことはわからないけど、この気持ちを伝えたくて。この言葉には責任を持ちます。長々とした文面でごめんなさい。昨日の疲れが残っているのでしょうけれど、今日もお仕事、頑張ってね。チュッ!
トオルくんからの返事はこうだった。
僕は、普通の人、ミウに、関心があります。
