読書エッセイ 『蜘蛛の糸』を読む ― お釈迦様は何を見ていたのか

はじめに

私の読書方法は、まず点字で数ページほど読み、その後はデイジー図書で全体を聞くというものです。

今回読んだのは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です。

『蜘蛛の糸』は、文庫で6ページほどの短い作品です。今回は点字で冒頭を読み、デイジー図書で全体を聞き、さらに青空文庫の全文をChatGPTに送って対話しながら読みました。

今回あらためて冒頭を点字で読んでみると、この物語がまずお釈迦様の様子から始まっていることに気づきました。私は長いあいだ『蜘蛛の糸』を、地獄に落ちた犍陀多(かんだた)が蜘蛛の糸を登る話として覚えていました。

けれども実際には、最初に描かれるのは地獄ではなく、極楽の蓮池を歩くお釈迦様の姿です。

そのことが、今回の私には少し新鮮でした。この作品を犍陀多の話としてではなく、お釈迦様の話として読んでみたい。そんなふうに思いました。


極楽から始まる物語

以下、芥川龍之介『蜘蛛の糸』(青空文庫)より引用します。

 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、かん陀多と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。

点字でゆっくり読んでいると、まず印象に残るのは極楽の静かな風景でした。白い蓮の花、金色の蕊、そして朝の気配。私の記憶の中にあった『蜘蛛の糸』は地獄の話でしたが、実際の物語は、その前にこうした穏やかな極楽の情景から始まっていたのです。

そしてお釈迦様は、蓮池の水面から地獄を見下ろし、そこでかん陀多を見つけます。今回の私は、この冒頭を読んだ時点で、もうかん陀多よりもお釈迦様の方に気持ちが向いていました。お釈迦様は地獄の底にいるひとりの罪人を見て、何を思ったのだろうか。そんなことが気になり始めたのです。


教訓として読んでいた『蜘蛛の糸』

『蜘蛛の糸』は私の世代では、小学校などで「自分だけ助かろうとしてはいけない」という教訓として読まれることがあります。

私も長いあいだ、そのような物語として覚えていました。

けれども今回は、その教訓よりも、お釈迦様がかん陀多をどのような思いで見つめていたのか、そのほうが気になるようになりました。


お釈迦様の悲しみ

かん陀多は、生前に悪事を重ねたために地獄へ落ちた人物です。それでもお釈迦様は、彼がかつて蜘蛛を助けたことを思い出し、蜘蛛の糸を垂らします。

もし蜘蛛の糸が、人間を試すためだけに垂らされたものだったのなら、かん陀多が途中で失敗しても、それほど不思議ではありません。

けれども、物語の最後で描かれるお釈迦様は、そうした冷たく人を試すだけの存在には見えません。

芥川は最後に、お釈迦様が「悲しそうな御顔をなさいました」と書いています。もし人間を試すことだけが目的なら、この悲しみは描かれなかったのではないでしょうか。

かん陀多は自分だけ助かろうとして糸の上で叫び、再び地獄へ落ちていきます。

その結末を見て、お釈迦様が悲しそうなお顔をなさったのは、かん陀多の身勝手さに呆れたからというより、私には、救いたかった相手を救えなかった悲しみのように思えました。


おわりに

子どもの頃は、かん陀多が失敗した話として読んでいました。

今回読み返して心に残ったのは、救おうとして救えなかったお釈迦様の悲しそうな姿でした。

『蜘蛛の糸』は、人間の欲を描いた物語としてよく知られています。しかし今回の私には、それ以上に、お釈迦様の悲しそうな姿がいつまでも心に残る物語でした。

いいなと思ったら応援しよう!