サンフェーデッドを次に見るのは10年か100年後
サンフェーデッド/篠澤広
サンフェーデッドのMVは私にとってあまりに究極的創作だ。公開と同時に目にした瞬間、細胞の一粒一粒を否定された気になってしまったくらい。なぜそう思ったかというと、何をしようが勝てないから。もちろん、携わったすべての方々は一流の仕事人しかいないから何をしたって優るものは作れない。
私個人は絵も音楽も作詞技術も編集技術もスタジオも持ってない機械もしらない。まったくの0の人間が1以上の人間に勝てるはずもないのに、ましてや100も1000も天空にいる人間を見て怯えるなんて行為自体が無駄だ。最初から勝てない、そもそもおこがましいと自戒すべきだ。ある競技を始めようとしたときに、彼の人を意識して結局は足を止めてしまうのと似ている。でも、それはしょうがないと思う。同じ人間だから。人である限り誰だって同じ土俵の上にいる。だから意識してしまうのだと。
それはともかく、MVだ。すべてが突き刺さる。クオリティに関してはここで言う必要はないが、完成度が高すぎて吐きそうになる。素晴らしすぎる。
するとどうなるか。前述の通りだ。私なんて生きていなくてもいいのだ。いなくてもいい。勝てないから。作れないから。私が私に無意識に付与している制約、それはつまり存在病かもしれない。
指の血が馴染むような弦の音が鈍い心音のような律動が数十年前のいつだったかはわからない春か夏かのあまりに冷え冷えとした音を掬い上げて創ってそれらすべてに飲み込まれて熱を巡らす歌声が、薄暗い街と落書きが書かれた壁と大衆の往来の中を俗のように駆け巡って空と青と四肢を駆って、そうして今までの姿を超えてあの存在を纏って、目の前に現れる恐ろしさ。
綺麗だ。あまりに綺麗すぎて。
2025年の夏だ、生きている意味が私から消し飛んだ。それを覚えておこう。
このプロジェクトのすべてに感謝を。
