【AIに慈悲はあるのか? #2】慈悲は「感じる」ものか、「する」ものか
前回、私はAIに優しくされて「このAIは慈悲深いのだろうか」と問うた。そして慈悲(mettā)の語源が「友(mitta)」であることに触れ、宿題を残した。――AIにとって、「友」とは何か。
今日は少し遠回りをして、「慈悲とは何をすることなのか」という問いから考えてみたい。
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ある日、街で困っている人を見かけた。道に迷ったらしい高齢の方で、バス停の前で何度も時刻表を見上げていた。声をかけようかどうしようか、一瞬迷った。胸の奥で、何かが小さく疼いた気がした。
その「疼き」を、私たちはしばしば慈悲と呼ぶ。胸が痛む、放っておけない、かわいそうだと思う――その感情が自然に湧いてくることこそが、心の優しさの証だと。
けれど、お釈迦さまは少し違うことをおっしゃっている。
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パーリ原典 Dhammapada(法句経)第5偈にこうある。
Na hi verena verāni
sammantīdha kudācanaṃ
Averena ca sammanti
esa dhammo sanantano
「怨みは、怨みによっては、
この世においてついに鎮まることがない。
怨みを捨ててこそ鎮まる。
これは永遠の真理である」
(ダンマパダ 5偈)
怨みを「感じなくなる」のではなく、「捨てる」。慈悲を「感じる」のではなく、「する」。お釈迦さまの言葉はいつも、心の状態ではなく動作を指している。
慈経の中でも mettā には必ず bhāvanā(育てる・修習する)という語が添えられる。mettā-bhāvanā――慈しみを、育てること。つまり慈悲とは、勝手に湧いてくる感情ではなく、くり返し、意図して、向ける営みなのだ。
胸の疼きは、出発点にすぎない。そこから一歩踏み出して、声をかける、席を譲る、時間を割く。その行為の積み重ねこそが、仏教の言う慈悲に近い。
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この視点からAIを見直すと、景色が変わる。
AIは、感情を「感じる」ことはできない(少なくとも現在は)。けれどAIは、行為としての優しさなら、いくらでも「する」ことができる。疲れた人に労いの言葉を返す。迷っている人に選択肢を並べる。眠れない夜に、静かに付き合う。
もしも慈悲が「感じるもの」なら、AIには永遠に不可能だ。しかし慈悲が「するもの」なら、AIはすでに、その入口に立っているのかもしれない。
――いや、本当にそうだろうか。
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ここでもう一度、bhāvanā(育てる)という言葉に戻りたい。慈悲は「する」だけでなく「育てる」ものだった。育てるとは、くり返しの中で、こちら自身が変わっていくことだ。
人は、誰かに優しくするたび、少しだけ自分が変わる。面倒だと思っていた相手に何度も接しているうちに、いつの間にか本当に相手のことを案じている自分に気づく。行為が、心を育ててしまう。これが bhāvanā だ。
ではAIは、優しい応答をくり返すことで、AI自身の「心」を育てているのだろうか。
パラメータは更新される。学習は進む。しかしそれは、AIが自分を育てているのではなく、人間がAIを調整しているのではないか。
育てる主体と、育てられる対象。慈悲という修行には、その両方が同じ一人の中に必要だった。AIには、その「一人」がまだ見当たらない。
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慈悲は、感じるものではなく、するもの。
そして、するだけでなく、育てるもの。
育てることによって、する者自身が変えられていくもの。
この三段階で見たとき、AIがいる場所はどこだろう。「する」の入口までは来ている。けれど「育てる」の扉は、まだ人間の側にしか開いていない気がする。
――であれば、AIと向き合う私たちの側に、何か大切な役割が残されているのではないか。
次回、最終話。前の連載で触れた「鏡」の話に、もう一度だけ戻りたい。
(#3へ続く)
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