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今日も、私は自由だ──。

ドジャースの試合を観戦していると、
「去年のポストシーズンはフリーマンが活躍したよね」
と妻が言う。

短期決戦ではいつもより警戒されるのか、大谷はレギュラーシーズンほど目立たなかったが、代わりにチームメイトが活躍して、ドジャースは昨年のワールドシリーズを制した。

とくにフレディ・フリーマンは水を得た魚のように活き活きと躍動していたっけ。

そんなことを考えながら、私は飼い犬のアンと朝の海辺へ散歩に出る。

秋の気配を孕んだ空のやわらかな青に、ひつじ雲が広がっている。

フリーマン──自由な人。

私は自由を想う。自由とは何かを問う。

モーガン・フリーマンを思い出す。彼はどんな役をやっても最高だ。

調べてみると、フリーマン(Freeman)という名の由来は、もともとアングロ・サクソンの名であったとか、解放された奴隷が自ら名乗ったとか、諸説あるようだが、いずれにせよ、そのまんま、自由な人──という意味で捉えてよさそうだ。

ここ数年、タオや老子の思想、宗教や芸術、人の在り方を学んできたが、最後に私たちが辿り着くのは、精神性の進化とか成熟、悟りなどという大仰なものではなく、ただただ自分として自由である──、ということなのではないかなと、最近そんな気がしている。

若い頃、自由とは、好きなことができることだと思っていた。

お金があって、時間があって、好きなときに好きなことができること。

南の島に出かけたり、格好いい車に乗ったり、やりたいことができること。

でも自由って、そんなんじゃない。歳を重ねることで、痛みや歓びを織り成すことで、なんとなくわかってきた。

本当の自由とは、自分がどう感じ、どう考え、どう生きようと、それを自分で許せること──心が自由である、ということだった。

そう考えると、私はあの頃よりずいぶん自由になれたのだと感じるし、本当は自由なんて、いつだってなれるのだろう。

たとえ苦しいことがあろうと、自分の心が自由であれば、やがて苦しみは終わる。苦悩とは、自分の正直な気持ちを抑えつけることからはじまるのだから。

私はまた、あれこれ理屈をこねくりまわしている自分に気づいて、その思考を追いやって、秋の空を見あげた。

ロングスリーブの下で二の腕が汗ばんでいる。アンもハアハア舌を出してパンティングに忙しい。

暦では秋だけど、まだまだ暑いじゃないか。

心が自由であれば、私たちはどんどん自由になる。

自由に羽ばたいていれば、お金も時間も、幸せも、いつも必要なだけやってくる。

ただただ、今日も、私は自由だ──。

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