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2026年 年間第3主日(A年)

簡単な解説

いよいよ今年もイエスとの旅が始まります!

年間第3主日は、降誕節のテーマである「闇に輝く光(エピファニア)」が、イエスの公生活において具体的な「宣教の旅」として始動する重要な節目です。降誕節の「夜半のミサ」で読まれたイザヤ書の預言は、この主日の福音(マタイ4:12-23)において、イエスがガリラヤの地で第一歩を踏み出すことで「実現」へと動き出します。

ベツレヘムの馬小屋で静かに現れた「受肉の神秘」としての光が、ここから受難と復活という目的地を目指し、人類の歴史の中を突き進む動的な歩みへと移行する点に大きな意義があります。イエスが網を打つ漁師たちを呼び、自らも「歩き始められた」姿は、救いの計画が単なる知識ではなく、共に歩む「旅」であることを示しています。この主日は、降誕節で祝った救い主の到来が、具体的な救いのわざへと展開していく「公生活の出発点」なのです。

第1朗読 イザヤ書 8章23b〜9章3節

イザヤ書第一部(1〜39章)は紀元前8世紀後半、アッシリア帝国の圧迫下にあったユダ王国の危機的状況を背景としています。特にこの箇所は、紀元前732年にアッシリアがガリラヤ地方を征服し、多くの住民が捕囚として連れ去られた「暗黒の時代」を念頭に置いています。

「ゼブルンの地、ナフタリの地」は北イスラエル王国の中心地であり、最も早くアッシリアの支配下に入った地域です。預言者イザヤは、この「暗闇に歩む民」に対して、やがて「大いなる光」が臨むという希望を宣言します。ヘブライ語で「光を見た」(ראו אור)という完了形の動詞は、預言的完了形と呼ばれ、未来の出来事をすでに成就したかのように確実性をもって語る表現技法です。

「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭」という三重の表現は、アッシリアによる政治的・軍事的支配の具体的描写であり、同時にエジプト脱出における解放の記憶を喚起させます。「ミディアンの日」は士師記7章における劇的な勝利を指し、神ご自身が直接介入される解放を暗示しています。この預言は、マタイ福音書において、ガリラヤで宣教を開始されたイエスの出現と結びつけられ、メシア到来の成就として解釈されることになります。

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章10〜13、17節

コリント教会は紀元50年代、使徒パウロの第二回宣教旅行中に設立されました。コリントは当時、ローマ帝国アカイア州の州都として繁栄し、東西交易の要衝であると同時に、多様な宗教・哲学思想が交錯する国際都市でした。この手紙が執筆された紀元54〜55年頃、教会内部では指導者をめぐる派閥争いが深刻化していました。

パウロは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」という分裂状態を、キリストご自身が「分割されている」(μεμέρισται ὁ Χριστός)という鋭い問いによって批判します。ギリシア語の「分割する」(μερίζω)は、肉体を引き裂くという物理的暴力を含意する強い表現であり、教会分裂がキリストの体そのものへの暴力であることを示唆しています。

「キリストがわたしをお遣わしになったのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」という17節は、パウロの使徒職理解を端的に示しています。「言葉の知恵によらないで」(οὐκ ἐν σοφίᾳ λόγου)という句は、当時のコリント教会に浸透していたギリシア修辞学への批判であり、十字架の福音が人間的雄弁や哲学的体系によって「空しいもの」(κενωθῇ)とされてはならないという警告です。パウロにとって、福音は人間の知恵によって飾られるべき内容ではなく、それ自体が神の力として働く客観的現実なのです。

福音朗読 マタイによる福音書 4章12〜23節

マタイ福音書は紀元80年代、おそらくシリアのアンティオキア周辺で、ユダヤ教会堂から分離しつつあったユダヤ人キリスト者共同体に向けて執筆されました。マタイの一貫したテーマは「義」(δικαιοσύνη)であり、イエスが約束されたメシア・王として、律法を廃棄するのではなく成就される方であることを示すことです。

「ヨハネが捕らえられた」という出来事は、イエスの公生活の開始を告げる転換点です。ギリシア語「パラディドーミ」(παραδίδωμι、引き渡される)は、後にイエスご自身の受難を予告する語でもあり、洗礼者ヨハネの運命とイエスの十字架が重ね合わされています。「ガリラヤに退かれた」という表現は、単なる地理的移動ではなく、神の救済計画における戦略的配置を意味します。

マタイは意図的にイザヤ書8章23b〜9章1節を引用し、「異邦人のガリラヤ」における宣教開始が、旧約預言の成就であることを強調します。「暗闇に住む民」とは、アッシリア支配下の歴史的苦難だけでなく、律法の完全な理解を欠いた状態、すなわち義の欠如を指しています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というイエスの第一声は、洗礼者ヨハネの言葉(3章2節)と同一であり、連続性と同時に、イエスご自身が「天の国」を体現する方であることを暗示します。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という召命の言葉において、ギリシア語「デウテ・オピソー・ムー」(Δεῦτε ὀπίσω μου)は、当時のラビが弟子を召す際の定型句とは異なる性格を持っています。通常、ラビと弟子の関係では、弟子の側がラビを選び、「あなたに従うことを許してください」と願い出る形式が取られました。しかしイエスの召命は、弟子の側の意志や準備、資格を問わない、より直接的で権威ある命令形です。これは、イエスの言葉が人間的な教師としての招きを超えた、神的権威に基づく絶対的召命であることを示しています。

「人間をとる」(ἁλιεῖς ἀνθρώπων)という表現は、エレミヤ書16章16節の「漁師」のイメージを背景に持っています。エレミヤ書では「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして彼らを釣り上げさせる」と語られ、そこでの「漁師」は神の裁きの道具として、罪に陥ったイスラエルの民を捕らえる者を意味していました。しかしイエスにおいては、この「捕らえる」行為が裁きから救いへ、滅びから命へと人を「引き上げる」積極的使命へと転換されています。つまり、弟子たちは暗闇の中にある人々を、光であるキリストのもとへと導き入れる器とされるのです。

一方「従った」と訳された「アコルーテオー」(ἀκολουθέω)というギリシア語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味も含んでいます。これは単なる物理的追従や教えの受容にとどまらず、イエスの生き方、運命、使命そのものへの全人格的参与を示唆する語です。「すぐに網を捨てて従った」という即座の応答は、イエスの言葉が持つ絶対的権威と、弟子たちの内に働く恵みの先行性を示しています。マタイにとって、この召命物語は、教会の使徒的基礎が人間の決断や資質ではなく、イエスの一方的な選びにあることを明示する神学的宣言なのです。


カテキズム

ペリコーぺ

悔い改めよ。天の国は近づいた

教会の一致は妨げられない

ガリラヤから始まる一致の出来事

本日の福音は、イエスがガリラヤで宣教を開始され、最初の弟子たちを呼び集められる場面を示します。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。この宣言は、まず人間の内面の変化を求める道徳的呼びかけではありません。教会は、ここでまず、神の国がすでに到来しているという客観的事実が告げられていると伝えています。人間はその事実を成立させる主体ではなく、すでに始まっている出来事の中へと呼び入れられる存在です。

宣教は、神の国の始まりです。イエスとこの道を共にする中で、感性と理性が後から照らされ、福音の真髄へと導かれていくように、私たちは招かれています。感性と理性によって「到達する」のではなく、すでに始まっている神の国の現実の中で、感性と理性そのものが形づくられていくのです。

イエスは、個々人をばらばらに救うためではなく、集めるために来られました。ガリラヤでの召命は、単なる人材集めではなく、新しい民の形成そのものです。教会は、イエスが十二人を選ばれたことについて、イスラエルの十二部族を象徴する行為であり、新しい神の民の礎を据える出来事であったと伝えています(マルコ3章、マタイ19章参照)。

この時点で、すでに重要なことが示されています。教会の一致は、人間が後から努力して作り上げる理想ではありません。キリストご自身が呼び集め、形づくられた現実なのです。

十二使徒の召命と、分裂を超える構造

教会は、十二使徒の召命について、キリストがご自身の権能に参与させ、神の国を告げ知らせ、癒やしを行うために遣わされた出来事であったと伝えています(ルカ9章参照)。ここで注目すべきは、「理解度」や「成熟度」によって選ばれたのではない、という点です。

イエスが選ばれたのは、道徳的に完成された「よい人々」ではありませんでした。福音書が率直に示すように、使徒たちは無理解で、恐れ、裏切り、逃げ出す者たちでした。ペトロは主を三度否定し、ユダは裏切り、他の弟子たちは十字架の前から逃げ去りました。それにもかかわらず、彼らの弱さによって、キリストの計画が破綻することはありませんでした。教会はここに、一致が人間の完成度に依存しないという決定的な原理を見ています。

しかし、私たちは自分を善人だと思い込み、分断することで自分を正しい位置に置こうとします。「あの人は問題がある」「この人は教会にふさわしくない」――そうした判断によって、私たちは無意識のうちに、神のみ旨によってイエスに招かれた人を排除することを平気で行ってしまいます。

アウグスティヌスは、教会について次のように述べています。「教会は、聖なる者たちだけの集まりではなく、義とされつつある罪びとの共同体である」(アウグスティヌス『詩編注解』参照)。一致は、罪の不在によって保証されるのではありません。むしろ、罪を抱えた人間をも包み込む、キリストの忠実さによって保持されます。

この構造は、秘跡的です。秘跡の効力が、司式者や受け取る側の完成度によらず、キリストご自身の行為に基づくように、教会の一致もまた、事効論的に与えられている現実です。人間の罪は一致を傷つけ得ますが、無効化することはできません。

神の国は、分断を前提としない

この主日はまた、「神の国が近づいた」という宣言を中心に据えます。教会は、神の国について、特定の民族や文化、完成された宗教集団の所有物ではなく、ユダヤ人と異邦人をともに招き入れる普遍的な出来事であると伝えています(マタイ8章、28章参照)。

ここで重要なのは、神の国が「共通理解」や「合意形成」によって成立するのではない、という点です。神の国は、キリストの十字架と復活という過越の神秘によって、すでに実現されています。「わたしが地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12章)。

この「引き寄せ」は、説得や交渉ではありません。キリストの自己奉献そのものが、人類を一つの方向へと引き寄せる力を持っています。したがって、教会の一致は、共通のビジョンや運動目標から生まれるのではなく、一つの犠牲、一つの奉献への参与から生まれます。

ルイ・ブイエは、教会の一致について次のように述べています。「教会の一致は、組織的調整の結果ではなく、聖体においてすでに現実である」(Bouyer, L'Église de Dieu 参照)。聖体が一つである限り、教会の一致は根底から崩れることはありません。

三位一体に根差す一致

教会は、その源からして一つであると伝えています。この一致の究極の根拠は、人間社会の調和ではなく、父と子と聖霊の交わりそのものです。

アレクサンドリアのクレメンスは、教会について、「唯一の父、唯一の御言葉、唯一の聖霊に対応する、唯一の花嫁」と語っています(クレメンス『教育者』参照)。つまり、教会の一致は、三位一体の一致の反映であり、模倣です。

この視点に立つとき、「一致が妨げられる」という発想そのものが、修正されなければなりません。人間の側の分裂や対立は、確かに現実です。しかし、それは一致そのものを破壊する力を持たない。なぜなら、一致の主体は教会ではなく、三位一体の神ご自身だからです。

トマス・アクィナスは、愛徳について、「愛は多くの者を一つに結ぶ徳である」と述べています(『神学大全』II-II, q.23 参照)。教会の一致は、この愛徳が聖霊によって注がれている事実に基づいています。

見える分裂と、失われない一致

教会は、歴史の中で実際に分裂が起こったことを隠しません。異端、背教、離教といった現実が存在し、それがキリストのからだを傷つけてきたことも認めています。

しかし同時に教会は、一致そのものが失われたとは決して言いません。なぜなら、一致は人間の側の忠実さではなく、キリストの約束に基づいているからです。

オリゲネスは、「罪のあるところには分裂があり、徳のあるところには一致がある」と述べています(『エゼキエル書講話』参照)。この言葉は、分裂の責任を他者に押し付けるためではなく、一致が徳としてすでに与えられている現実を思い起こさせるものです。

洗礼によってキリストに結ばれた者は、たとえ完全な交わりの中にいなくとも、すでに一致へと向かう力の中に置かれています。教会は、目に見える境界の外にも、成聖と真理の要素が数多く存在すると伝えています。これらはすべて、キリストから来て、キリストへと導くものです。

一致を破壊できないが、拒否することはできる

教会の一致が妨げられないという命題は、人間の行為が無意味であることを意味しません。むしろ逆に、それは、人間が一致を「破壊する力」を持たない代わりに、一致を拒否する態度を取り得る、という厳しい現実を照らし出します。

教会の一致は、神の側からすでに与えられているがゆえに、人間の判断によって無効にされることはありません。しかし、人間は、その一致の現実に参与することを拒むことができます。そしてその拒否は、しばしば「正義」や「秩序」や「配慮」という言葉をまとって現れます。

ここで問題となっているのは、露骨な分裂行為ではありません。むしろ、より深刻なのは、無自覚な排除です。教会の中で、「問題を起こしそうな人」「過去に重い罪を犯した人」「空気を乱す人」を前にしたとき、私たちは形式上は受け入れながら、実質的には距離を置き、沈黙の壁を築きます。このとき、誰も「出て行け」とは言わない。しかし、視線、態度、空気によって、「あなたはここに完全には属していない」というメッセージが伝えられてしまいます。

もし、過去に殺人を犯したことのある人が教会を訪れたなら、私たちはどうするでしょうか。理論的には、「悔い改めた者を神は拒まれない」と答えることができるでしょう。しかし実際には、恐れ、不安、嫌悪、そして「共同体を守らなければならない」という名目のもとで、心の中に境界線を引いてしまうのではないでしょうか。

ここで問われているのは、その人を信頼できるかどうかではありません。問われているのは、教会が誰の正義によって成り立っているのか、という根本問題です。

教会は、人間の無罪性や安全性によって成立する共同体ではありません。教会は、キリストが罪人のために死なれたという事実によってのみ成立しています。したがって、「この人は危険かもしれない」「この人は受け入れがたい」という判断が、いつのまにか「この人は教会にふさわしくない」という結論にすり替わるとき、私たちは自分の正義を、キリストの十字架よりも上位に置いてしまいます。

視線、沈黙、距離感、そして心の中の拒絶。それらはすべて、外的には秩序や平和を保っているように見えながら、内的には一致を裂く行為となり得ます。なぜなら一致は、感情的親和性ではなく、キリストの犠牲への参与によってのみ成立しているからです。

アウグスティヌスが繰り返し警告したように、教会は終末に先立って最終的裁きを行う場ではありません。教会は裁判所ではなく、救済史の途上にある場です。麦と毒麦が共に育つことを耐え忍ぶ場であり、人間の目には理解しがたい混在を引き受ける場です(アウグスティヌス『マタイ福音書説教』参照)。ここにおいて、「排除」は秩序の維持ではなく、神の忍耐への不信として現れます。

トマス・アクィナスが示したように、秘跡は「ふさわしい者への報酬」ではなく、「弱さを負った者への薬」です(トマス・アクィナス『神学大全』III, q.61 参照)。この原理は、教会全体にも当てはまります。

聖霊が風にたとえられるのは、この点において決定的です。風は、管理された空間や、条件付きの開放のもとでは自由に吹きません。人間が恐れや自己防衛によって壁を築くとき、その空間は安全になるかもしれませんが、同時に、聖霊の自由な働きから閉ざされます。聖霊は、完成された共同体を好まれるのではありません。むしろ、裂け目と緊張と危うさを抱えた場においてこそ、和解と新生をもたらされます。

したがって、教会を分断させようとするあらゆる思惑――たとえそれが善意や配慮、あるいは無意識の反応であったとしても――は、最終的には、神のみ旨に対する抵抗となります。それは一致を破壊することはできませんが、一致の現実に身を置くことを拒否する態度として、私たち自身を貧しくします。

ヨーゼフ・ラッツィンガーは、教会の一致について、「一致とは人間が守る秩序ではなく、神が忍耐強く保っておられる現実である」と述べています(Ratzinger, Called to Communion 参照)。この忍耐に耐えられなくなったとき、人間は自分の正義によって裁きを先取りし、結果として、神が招いておられる者を教会から遠ざけてしまいます。

一致は努力目標ではなく、受け取る現実

今日、今・この中心にあるのは、「呼び集めるキリスト」の姿です。この姿が私たちに示すのは、「一致を守れ」という道徳的課題以前に、すでに一致の中に置かれているという事実です。

一致は、作り出すものではありません。秘跡と同じく、まず与えられ、私たちはそれを受け取り、その現実に生きるよう招かれています。

ヨーゼフ・ラッツィンガーは、「教会の一致は、常に先行する賜物であり、人間の計画の成果ではない」と述べています(Ratzinger, Called to Communion 参照)。だからこそ、一致は妨げられません。傷つけられることはあっても、消し去られることはないのです。

教会の一致は、守るべき成果ではなく、耐え忍んで受け取り続ける賜物です。自分の正義によって人を裁き、距離を取り、排除するたびに、私たちは教会を守っているつもりで、実は、キリストの忍耐から離れていきます。

分断は、単なる人間関係の失敗ではありません。それは、神のみ旨――すべての人をキリストにおいて一つに集めるという御計画――に対する、沈黙の拒否なのです。

私たちは、自分の正義が教会を守っていると思い込みやすい。しかし実際には、教会を守っているのは、私たちの正義ではなく、キリストの十字架です。その十字架の下に立つとき、誰一人として「排除する側」に安全に立つことはできません。私たちは皆、赦され、なお招かれ続けている者だからです。

このときこそ、イエスのことばが再び響きます。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。それは、他者に向けられた言葉ではなく、一致の現実を条件付きでしか受け取れない私たち自身に向けられた、神からの呼びかけなのです。

すでに与えられている一致の中で生きる

本日、私たちに「何を成し遂げるか」よりも、「どこに置かれているか」を問いかけられています。私たちは、すでにキリストによって呼び集められ、聖体によって形づくられ、三位一体の交わりに結び入れられています。

ですから私たちは、分裂の現実を前にして焦って何かを解決しようとする前に、すでに与えられている一致の中に、静かにとどまり続けていきましょう。
教会を支えているのは、私たちの判断や正義ではなく、今も聖体においてご自身を与え続けておられるキリストの十字架です。

その十字架の下に共に立つ者として、誰かを排除する側に身を置くのではなく、赦され、なお呼び集められている者として生きていきましょう。
すでに妨げられることのない一致を、条件付きで受け取るのではなく、そのまま受け取り、その重みと忍耐の中に生きていきましょう。

そして、呼び集め続けておられるキリストの声に身を委ねながら、
与えられているこの一致の中で、今日も教会として歩んでいきましょう。

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