2026年 年間第19主日(A年)
簡単な解説
第1朗読 列王記上 19・9a、11-13a
エリヤはカルメル山でバアルの預言者たちと対決し勝利を収めた直後、王妃イゼベルから命を狙われ、南方へ逃れます。北王国イスラエルの王アハブに嫁いだフェニキアの王女イゼベルは、バアル信仰を宮廷に持ち込み、伝統的な信仰の土台を揺るがしていました。勝利の直後に襲った深い恐れと孤立の中で、エリヤはえにしだの木の下に座り込み、自らの死を願うほどに憔悴します。そこから40日40夜歩き続けて至るのが、ベエル・シェバから遥か南方、シナイ半島の奥に位置する神の山ホレブです。この40という数字は、モーセがシナイ山で神と共に過ごした40日、また荒れ野をさまよったイスラエルの40年と重なり合い、エリヤの歩みが単なる逃避ではなく、民の歴史全体を凝縮した道であることを物語ります。
洞穴での夜を経て、エリヤは山の中で神の前に立つよう命じられます。「そこを出て、山の中で神の前に立ちなさい」という命令と、通り過ぎて行く神の前で立つという場面設定は、出エジプト記33章でモーセが岩の裂け目に置かれ、神の栄光が通り過ぎるのを見た場面と平行関係を結びます。人間の挫折と限界のただ中で、神は自ら客観的な言葉をもって介入されます。激しい大風は山を裂き岩を砕くほどの破壊力をもって描かれ、地震、火とともに、シナイ山でモーセに神が現れた際の雷、火、密雲という古い神顕現の型を踏襲します。しかし、原文が繰り返す否定文の構造、すなわち風の中にも、地震の中にも、火の中にも神はおられなかったという反復は、神がもはや激しい自然現象に還元される方ではないことを明示します。
続く「静かにささやく声」(コール・デマーマー・ダッカー、קוֹל דְּמָמָה דַקָּה)という原語表現は、直訳すれば「薄い静寂の声」という逆説的な語です。声でありながら沈黙であり、しかもそれは薄く細いものとして描かれます。この矛盾を含んだ表現こそ、迫害という混乱の極みにあったエリヤが出会った神の現れ方であり、預言者はこの声を聞いて初めて、外套で顔を覆い、洞穴の入り口へと進み出ます。顔を覆う仕草は、燃える柴の前で神を見ることを恐れたモーセの姿(出エジプト3・6)と重なり、荒れ野を経てホレブに至ったエリヤが、先達と同じ場所で同じ畏れをもって神の前に立った事実を示しています。
第2朗読 ローマの信徒への手紙9・1-5
ローマの信徒への手紙9章から11章は、パウロが福音を宣べ伝える中で避けて通れなかった深い痛みを扱うひと続きの箇所であり、9章1節はその冒頭に位置します。紀元50年代半ば、まだ訪れたことのないローマ教会に宛てて書かれたこの手紙は、異邦人への福音宣教が広がる一方で、選びの民イスラエルの多くが福音を受け入れずにいる現実と向き合う場面から始まります。8章で神の愛から何ものも引き離すことはできないと高らかに歌い上げたパウロが、9章冒頭で一転して深い嘆きを語り始める落差は、この手紙の構成上の大きな転換点です。
パウロは、自らの発言の真実性を「キリストに結ばれた者として」語ることと「聖霊によって証しする良心」という2つの保証によって裏づけます(ローマ9・1)。これは単なる誓約の強調ではなく、パウロの言葉自体が神との交わりのうちに置かれている事実を示します。続く「深い悲しみ」と「絶え間ない痛み」というギリシア語原文の対(リュペー、λύπη/オデュネー、ὀδύνη)は、感情の一時的な高ぶりではなく、持続する内的な苦しみを表す語です。
同胞のためなら「キリストから離され、神から見捨てられた者」となってもよいとまで語る(ローマ9・3)際の「見捨てられた者」の原語アナテマ(ἀνάθεμα)は、本来神に捧げられ、人間の使用から切り離されたものを指します。パウロは自らをイスラエルの救いのための供え物として差し出す覚悟を、この一句に込めています。
神はイスラエルに与えられた恵みを1つずつ数え上げます。子としての身分(ヒュイオテシア、υἱοθεσία)、栄光、契約、律法、神によって確立された礼拝(ラトレイア、λατρεία)、約束、先祖たち、そして肉によればキリストご自身までもが、彼らから出られたと語られます(ローマ9・4-5)。ここで語られる礼拝は、人間の側からの発案ではなく、神の与えられた規範に基づく客観的現実であり、キリストにおいて完結する真の典礼への伏線です。契約が複数形で記されるのは、アブラハムとの契約、シナイでの契約など、幾つもの契約の積み重ねを指すためです。「肉によれば」という限定は、この後に続くキリストへの賛美の句への橋渡しとなる表現です。この列挙は、神の選びが取り消されたのではなく、なお有効であることを示すための構成であり、神の言葉は決して効力を失ったわけではないという主張への伏線となっています。
福音朗読 マタイによる福音書 14・22-33
夜明け前のガリラヤ湖で、弟子たちを乗せた舟は逆風に悩まされていました(マタイ14・24)。ガリラヤ湖は周囲を丘陵に囲まれた盆地状の地形を持ち、突然強い風が吹き込みやすい地理的特徴を備えます。イエスは、弟子たちを舟に強いて乗り込ませてから、ひとり山へ祈るために退かれました(マタイ14・22-23)。群衆から離れ、神との交わりのうちに夜を過ごすイエスの姿が描かれます。舟に乗り込んだ弟子たちの群れは、荒波の中で航海を続ける教会共同体の型として、以後の場面全体の舞台となります。
湖の上を歩いて近づくキリストの姿を見た弟子たちは、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげます(マタイ14・26)。それに対しキリストが語る「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ14・27)という原文の「わたしだ」は、エゴー・エイミ(ἐγώ εἰμι)であり、出エジプト記でモーセに示された神の自己啓示の言い回しと一致します。嵐の混乱のただ中に響くこの言葉は、単なる励ましではなく、神ご自身の現れとして語られています。
ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願い出ます(マタイ14・28)。「命令して」(ケレウソン、κέλευσόν)という語が示す通り、ペトロが水の上を歩み得たのは自らの力や主観的感情によるものではなく、キリストの発せられた客観的な言葉への服従によるものでした。「来なさい」との一言に応じて舟を降り、歩み出す間は水の上に立っていましたが、視線をキリストから外し、周囲の強い風に気づいて怖くなった瞬間、沈みかけます(マタイ14・29-30)。
キリストはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます(マタイ14・31)。「信仰の薄い者」(オリゴピステ、ὀλιγόπιστε)という語は、マタイ福音書に集中して用いられる特徴的な表現であり、信仰の欠如そのものではなく、揺れ動く途上にある信仰を指し示します。2人が舟に乗り込むと風は静まり、舟の中にいた人々は「本当に、あなたは神の子です」と言ってキリストを拝みます(マタイ14・33)。この告白は、後にペトロがフィリポ・カイサリア地方で語る信仰告白を先取りするものであり、嵐を越えて舟に集う群れが、揺れる信仰の途上でなお、キリストを神の子と言い表す群れへと変えられていく様が示されています。
カテキズム
ペリコーぺ
主よ、助けてください
信仰を持って生きるということ
舟は嵐の中にあった
五千人にパンを分け与えられた直後、イエスは弟子たちを強く促して舟に乗せ、対岸へと向かわせました。ご自分はお一人で祈るために山へ登られたのです。夜が深まるにつれ、舟は陸から遠く離れた湖のただ中で強い逆風に見舞われ、荒れ狂う波に激しく押し戻され続けました(マタイ14・22-24参照)。イエスの姿はなく、弟子たちは暗闇の中で夜明け近くまで、ただ命がけで漕ぎ続けるほかありませんでした。
この湖上の光景は、洗礼を受けて教会という舟に乗り組み、主日の典礼からそれぞれの日常へと送り出されるわたしたちの歩みを映し出しています。弟子たちが荒波の中へ漕ぎ出したのは、ほかでもなくイエスご自身の派遣に従った結果でした。キリストの招きに応えて信仰の道を選んだ者であっても、人生の過酷な波浪や冷たい逆風に晒される現実は変わりません。神の言葉に従って直進しているはずの生活に、なぜ激しい試練や闇が訪れるのでしょうか。その深い戸惑いは、現代を生きるわたしたちの胸にも重く刻まれています。
主日のミサで聖体を受け、神との親しい一致を味わった信者であっても、日常生活においては逃れがたい病や苦難に直面します。思いがけない病の宣告、かけがえのない家族との死別、職場や家庭で受ける不当な扱い、そして切実な祈りを捧げ続けても状況が一向に変わらない長い夜。そのような現実のさなかで神の臨在を実感することは、決して容易ではありません。世界に目を向ければ、戦争や理不尽な暴力が罪もない人々の命を脅かし続けています。神が全能であり愛そのものであられるならば、なぜこれほどの苦痛や悪が放置されているのかという悲痛な問いは、神を信じる者だからこそ、逃れられない重荷となってのしかかります。
典礼の豊かな空間で神の確かな臨在を噛みしめた心が、生活の現実を前にした途端、神の不在に苛まれることがあります。どれほど涙を流して祈っても愛する者の病が癒えず、失われた命が戻らないとき、救いの光などどこにも見えない孤独な夜が訪れます。しかし、わたしたちが暗闇の中で手応えを求めてもだえ苦しんでいる間も、山で祈っておられたイエスの温かい眼差しは、嵐に揉まれる弟子たちから一時も離れてはいませんでした。
教会は、地上における信仰の歩みについて、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」のであり(二コリント5・7参照)、神を「鏡におぼろに映ったもののように、一部しか知らない」状態で歩むのだと教えています(一コリント13・12参照)。それゆえ、信仰の道は絶えず暗闇と試練を通り抜ける旅路となります。迫り来る苦難や死の現実は、一見すると福音の約束と鋭く対立しているように思え、わたしたちの神への信頼を根本から揺さぶります。
どれほど深く神を信じる者であっても、暗闇の訪れや疑いの揺らぎを免れることはできません(ヨゼフ・ラッツィンガー『キリスト教入門』参照)。こうした試練の中で抱く葛藤は、決して不信仰という罪ではありません。旧約の詩編を開けば、神の民がいかに沈黙される神に向かって声を限りに叫び続けてきたかがわかります。「わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになったのか」という哀歌は、やがて十字架上のイエスご自身の絶叫となり、今も典礼を通じて神へと捧げられています(詩編22・2参照)。状況が変わらず、神が沈黙しておられるように思えるときこそ、目に見える保証の何一つない暗闇の中で、神の真実といつくしみに留まり続ける静かな決断が求められているのです。
夜明けが近づいたころ、イエスは湖面を歩いて弟子たちに近づかれました。しかし、極限状態にあった弟子たちは恐怖のあまり「幽霊だ」と言って悲鳴を上げました(マタイ14・25-26参照)。極限の瞬間に訪れた神の救いは、人間の貧しい予測をはるかに超えていたため、はじめは恐れとしてしか受け取れなかったのです。わたしたちの日常においても、神の助けが人間側の望む分かりやすい形で訪れるとは限りません。
ミサで捧げられるパンとぶどう酒が、五感の観察を超えて信仰の眼差しによってのみ受け止められるように、荒波の中で近づかれるイエスの御手も、時には恐れや戸惑いとして体験されます。しかし、神のいつくしみは荒波に揉まれる教会と信者の上に、今も絶え間なく注がれています。
イエスは恐怖に震える弟子たちに向かって、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と優しく語りかけられました(マタイ14・27参照)。信仰とは、苦しみの現実を偽ることなくありのままに引き受けながら、イエスの言葉から決して目を逸らさずに留まり続ける姿勢にほかなりません。自らの無力を深く思い知るとき、人間ははじめて、神の無償のいつくしみに全面的に依拠するという救いの真実に到達するのです。
典礼は、この暗闇の体験を祭壇の上でキリストの十字架の奉献と一つに結び合わせてきました。ミサの奉献において、わたしたちが日々の労苦や病、深い悩みをそのまま捧げるのは、人間の弱さの中にこそ神の全能が力強く働くことを信じているからです。
暗闇の中でイエスがペトロに示された「来なさい」という招きは、水の上を歩くという、人間の力や常識から見れば絶対に「無理」と思えるものでした。わたしたちの計算では、破滅でしかないように思えることもあります。しかし、信仰とは、「無理ではない」と自分に言い聞かせることではありません。「自分には無理だ」と知りながら、それでもイエスの言葉を信じ、その言葉に従って一歩を踏み出すことです。人間には無理であるからこそ、イエスを信じて歩むのです。その一歩を踏み出すことこそ、信仰を持って生きるということなのです
神の全能を信じて歩む
激しい風に心を奪われ、水の中に沈みかけたペトロが「主よ、助けてください」と絶叫したとき、イエスはただちに手を伸ばして彼を捕らえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました(マタイ14・31参照)。この言葉は、過ちを責め立てて突き放す裁きではなく、ご自分の御手によって命をつなぎ止める救いの確実さを伝えるものでした。ペトロが沈んでしまったのは、水の上を歩ませるイエスの言葉から目を逸らし、吹き荒れる風の猛威という現実に心を奪われてしまったからです。イエスの呼びかけは、一歩を踏み出しながらも試練の前に怯えてしまう人間の弱さを誰よりも知るイエスの、どこまでもいつくしみ深い招きでした。自らの決断で歩み出しながら現実の厳しさに圧倒されるときも、極限の場所から救いを求めて叫ぶなら、イエスの御手は必ずわたしたちを捉えて離しません。
イエスが湖上で示された神の力は、単に風や波を即座に鎮めるという目に見える奇跡にとどまるものではありません。水の上を歩ませる業の奥には、人間の理解や尺度をはるかに超えた神の全能が隠されています。人間が思い描く「全能」とは、目の前の障害を一瞬で取り除き、不都合な状況を直接的な威力で変革することを指しがちです。しかし、神がイエスにおいて現された救いの全能は、そうした人間の身勝手な枠組みを根底から覆します。十字架につけられたキリストの姿は、この世の基準から見れば無力と敗北の極致に過ぎません。それにもかかわらず、神は、ご自分を無とされた御子を死者の中から復活させることによってご自分の全能を示し、悪と死の勢力を完全に打ち倒されました(教会は、十字架につけられたキリストこそが神の力であり知恵であると伝えています[一コリント1・25参照])。神の力は、人間が弱さと捉える十字架においてこそ、最も鮮やかに示されたのです(エフェソ1・19-22参照)。
ペトロの手を捉えたイエスの力と、死者の中からイエスを復活させた神の力は、まったく同じ一つの救いの全能です。神の全能は、人間が思い描くような力づくの形ではなく、隠された静かな道をたどって働きます。生活の中で重い病に侵され、大切な人間関係が壊れ、理不尽な苦難に苛まれるとき、目に見える奇跡が直ちに起こらないこともあります。そのとき、わたしたちは神の全能を疑う強い誘惑に晒されます。もちろん、悪や痛みを安易に美化する必要はありません。しかし信仰は、人間の目には完全に行き詰まりに見える暗闇の果てにも神が救いの道を備えておられ、あらゆる苦難を超えてご自分の救済計画を成し遂げられることを信頼し続けます。真の信仰とは自分の思い通りの結果を神に強制することではなく、不条理な暗闇の中でも神の深い摂理に従い続けることだからです(ヨゼフ・ラッツィンガー『神と世界』参照)。神におできにならないことは何一つないという揺るぎない確信こそが、わたしたちの信仰と希望を力強く支えます。この信頼を心に刻むとき、理性を超える出来事や救いの神秘にも、安心して自らを委ねることができるのです。
この神の全能に完全に自己を委ね尽くした最高の模範が、おとめマリアでした。ペトロは吹き荒れる風の激しさを見て疑いに心を奪われましたが、マリアは人間の能力や状況の良し悪しではなく、神の言葉そのものを土台として歩まれました。天使ガブリエルから救い主の母となるお告げを受けたとき、マリアは「神にできないことは何一つない」と深く信じ、「お言葉どおり、この身になりますように」とご自分を完全に差し出されました(ルカ1・37-38参照)。マリアはこれから起こる出来事をあらかじめすべて見通していたから信じたのではなく、神の全能といつくしみに心から信頼したからこそ、未知なる歩みへと踏み出されたのです。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさり、そのみ名は尊い」と称えたマリアの信仰は、貧しい飼い葉桶での出産、エジプトへの着の身着のままの逃亡、ナザレでの隠れた日常を通じても決して揺らぐことはありませんでした(ルカ1・49参照)。そして、最愛の御子イエスが十字架につけられ惨めな死を遂げる最大の闇においても、マリアは十字架の下に立ち続け、全能への信頼を手放されませんでした。ペトロが恐れに負けて沈みかけた極限の場所に、マリアは静かな沈黙とともに踏み留まり、死を越えて救いを成し遂げられる神の御業を待ち望まれたのです。
主日の典礼で与かるエウカリスチアの秘跡は、十字架において示され復活において勝利した神の全能が、今この瞬間に現在化される聖なる場です。祭壇の上に置かれたパンとぶどう酒は、自然科学の観察においてはあまりにも脆弱な食物に過ぎませんが、聖霊の働きとイエスの約束の言葉によって、キリストの生きた体と血へと完全に変容させられます。このような卑近でささやかな姿に神の全能が隠されているという秘跡の真理は、日常における神の働きのあり方を鮮やかに証ししています。生活の中で自らの限界や病の苦しみに直面するとき、わたしたちは自らの無力を隠して強がるのではなく、その弱さをそのまま秘跡の祭壇へと差し出すよう招かれています。自分の力に頼るのではなく、十字架と復活に示された神の全能を深く信頼して歩むとき、わたしたちは恐れに支配されることなく、今日という日を神の救いの道として力強く歩み続けることができるのです。
イエスに従い、向こう岸を目指す
ペトロが荒波の上に思い切って足を踏み出したのは、決して無謀な血気からではなく、闇の中で響いたイエスの「来なさい」という言葉を信じて体を委ねたからでした(マタイ14・29参照)。理屈や計算に照らせば、荒れ狂う水の上へ踏み出す行為はあまりにも危険な暴挙に映ります。しかし、ペトロが水面を歩むことができたのは、彼自身に特殊な能力や強靭な精神力があったからではありません。ただイエスの姿を見つめ、その呼びかけに応えて足を出したからこそ、不可能な場所が進むべき道へと変えられたのです。不可能を可能へと変える真の源泉は、人間の情熱などではなく、語りかけてくださる神の恵みと全能にあります。
言葉だけを頼りにして未知なる場所へ踏み出すこの動きは、聖書の救いの歴史において幾度となく繰り返されてきました。アブラハムは目的地すら明かされないまま、「生まれ故郷を離れよ」という神の招きに応え、ただ約束の言葉だけを支えにして旅立ちました(創世記12・1-4参照)。イスラエルの民もまた、目の前に紅海が立ち塞がり、後ろからエジプトの戦車隊が迫る絶体絶命の中で、神が切り開かれた乾いた道を信じて進み出ました(出エジプト14章参照)。これらに共通しているのは、人間が自らの知恵や力で道を拓いたのではなく、神が開いてくださった不可能な道を、従順をもって歩んだという点です。「神にできないことは何一つない」という言葉は、自分の勝手な計画のために神の力を利用できるという意味ではありません(ルカ1・37参照)。真の信仰とは、私たちの思考ではどれほど不可能に思えても、キリストが呼びかけておられるなら、その声に従って保身の舟から足を踏み出す深い従順なのです。
それでは、イエスが目指すよう命じられた「向こう岸」とは、いったい何を指しているのでしょうか。
まず個人にとっての「向こう岸」とは、自らが築き上げた安全な枠組みを飛び出し、キリストの言葉に背中を押されて踏み出していく信頼の領域です。慣れ親しんだ舟の中に留まってさえいれば、傷つくことも裏切られることもありません。しかし、イエスがわたしたちを招かれる場所は、常にそうした安全地帯の外側にあります。たとえば、家族や周囲との関係が冷え切り、固く閉ざされてしまったとき、自分の方から赦しと和解のために一歩を踏み出す行為は、まさに荒れ狂う水面へと足を下ろす決断に似ています。拒絶されるリスクを恐れず、自分の尊厳や感情ではなくキリストの愛の言葉を土台として歩み出すとき、そこに「向こう岸」への道が新しく開かれます。見返りを期待できない奉仕や、誰も見ていないところでの誠実さを貫くことも、まったく同じ命の動きなのです。
そして教会全体にとっての「向こう岸」とは、歴史の完成において実現する神の国の全貌にほかなりません。キリストの国は、洗礼とエウカリスチアを通じてすでに教会のうちに始まっていますが、キリストが再び来臨され、すべてが完成される時へはまだ至っていません。十字架と復活によって悪と死の勢力は決定的に打ち負かされましたが、地上を旅する教会はなおも激しい試練や苦難に晒されています。新しい天と地が完全に実現するその日まで、教会は深い苦しみの中で神の子らの現れを待ち望んでいます。向こう岸とは、人間が自力で造り上げる理想郷などではなく、神が歴史の終わりに与えてくださる永遠の完成の地なのです。
イエスは昇天に先立ち、神の王が完成される時はまだ来ていないことをはっきりと告げられました(使徒1・6-8、イザヤ11・1-9参照)。今という時間は、与えられた聖霊の力によって救いを証ししつつ、試練の中でキリストの再臨を忍耐強く待望すべき時です。数々の殉教者や日本の潜伏キリスト者が死を賭して信仰を守り抜くことができたのも、目の前の不条理な現実に惑わされることなく、必ず与えられると約束された向こう岸を確信して見つめていたからにほかなりません。
この地上の旅路において、教会がよく「舟」に例えられるのは、キリストの呼びかけによって集められ、ともに向こう岸へと漕ぎ進む神の民だからです。ペトロの湖上での歩みは、決して彼個人のパフォーマンスでは終わりませんでした。イエスに力強く引き上げられた後、ペトロが戻っていったのは、弟子たちが互いに身を寄せ合う舟の中でした(マタイ14・32参照)。そして舟に乗っていた全員が一つになり、イエスに向かって「本当に、あなたは神の子です」とひれ伏して告白し、イエスを拝んだのです(マタイ14・33参照)。
この出来事は、個人の信仰の決断と共同体性の不可分な結びつきを雄弁に物語っています。信仰には、一人の人間としてイエスと真剣に向かい合い、舟の縁から暗闇へと踏み出す厳粛な瞬間が存在します。誰も他人の代わりに水の上を踏み出すことはできず、ただ「助けてください」と叫ぶほかはありません。しかし、その必死の一歩が辿り着く行き着く先は孤立や独善ではなく、兄弟姉妹がともに乗り組む教会という舟への回帰なのです。ペトロは舟へ戻ることによって、共同体の豊かな礼拝の中へと再び組み込まれました。
したがって、舟から踏み出すことと舟へ戻ることを対立させて捉えてはなりません。キリストの言葉に従ってリスクを取る挑戦と、自らの弱さを引き受けて共同体の中へと戻り、ともにキリストを拝む礼拝とは、ひとつの信仰の力強い鼓動なのです。一人だけで自足して教会を軽視するなら、信仰は自己満足へと変質してしまい、逆に、安全な舟の中に閉じこもって踏み出すことを拒むなら、教会そのものが閉鎖的な共同体へと変わってしまいます。
主日のミサにおいて、わたしたちはこの「舟」の現実を体験しています。ミサとは、神の民がひとつの舟に乗り合わせ、同じ神の言葉を聞き、同じ一つのパンを分かち合う交わりの場です。病や試練によって一人で漕ぐ手を止めてしまいそうになるとき、共同体の祈りがそっと支え、聖歌の響きや典礼の動きがわたしたちの弱さを担い上げてくれます。キリスト者になるとは「わたしたち」という大きな主語の中に自らの孤立した自我を沈め、キリストの体の一部として組み込まれることなのです(ヨゼフ・ラッツィンガー『キリスト教入門』参照)。一人の貧しい力ではとても漕ぎきれない荒波であっても、キリストがともにおられる舟の中で互いに支え合って進むなら、約束された完成の向こう岸へと向かって、確実に進み続けることができるのです。わたしたち個人の信仰は、まさにこの教会という舟の中でこそ、活き活きと生きられるのです。
信仰は神の救いの歴史の中で育つ
激しい嵐の中で「助けてください」と必死に手を伸ばしたペトロの姿の底には、単なる一瞬の感情を超えた、深い信頼の土壌が存在していました。弟子たちの抱く信頼は、神が人類の歴史の中で長い時間をかけて備えてこられた救いの歩みという豊かな土壌に固く根を下ろしていたのです。
神はご自分の無限の知恵と愛によって万物を造り、保たれる中で、絶えずご自身についての証しを人間に与えられました。さらに初めから、人類の最初の親にご自身を明らかに示し、親しい交わりへと招かれたのです(『啓示憲章』3参照)。人間が罪によってその聖なる交わりを失ってしまってからも、神は決して見捨てることなく救い(贖い)を約束し、救いの希望を抱かせ続けられました(『啓示憲章』3参照)。「人が神に背いて親しい交わりを失ってからも、死の国に見捨てることなく」、神の忍耐強いいつくしみは一度たりとも断たれることなく、「たびたび人と契約を結ばれました」(『ローマ・ミサ典礼書』第4奉献文参照)。
罪によって人類の一致が惨めにも砕かれた後も、神は全諸民族を救うための壮大な計画を進められました。ノアと結ばれた契約は、あらゆる人々に対する神の普遍的な救いの意志を示しています(創世記9・9、10・5参照)。バベルの塔に見られる人間の傲慢や偶像崇拝の闇の中でも、神は正しいアベル、王であり祭司であったメルキゼデク、ノアやヨブらの生き方を通し、ご自分の契約に従う聖徳の姿を歴史の中に刻み付けられました(創世記14・18、ヘブライ7・3、エゼキエル14・14、ヨハネ11・52参照)。
そして、散らされてしまった人類を再び一つに集めるため、神はアブラハムを選び出し、「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」と力強く呼びかけられました(創世記12・1参照)。アブラハムは目的地すら知らされないまま、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という神の約束の言葉だけを信じ、住み慣れた故郷を後にしました(創世記12・3、17・5、ガラテヤ3・8参照)。この命がけの旅立ちは、イエスの「来なさい」という声だけを頼りに水面へと足を踏み出したペトロの歩みと、深く響き合っています。目に見える保証が何一つないまま、神の言葉を全面的に信頼して最初の一歩を踏み出す姿勢こそ、旧約から新約へと貫かれている真の信仰の姿なのです。アブラハムの民は、すべての神の子らが教会のうちに集められる日のために準備する聖なる役割を担い、のちに異邦人の信者が接ぎ木されるための確かな根となりました(ローマ11・17-24参照)。
エジプトで酷い奴隷状態にあった民のうめき声を聞き、神は彼らを劇的に解放してご自分の民とされました。シナイ山においてモーセを通して与えられた契約と律法は、唯一の真の神を認め、その摂理に信頼して仕え、約束された救い主の到来を待ち望むための愛の教えでした(出エジプト19・6、申命記28・10、『啓示憲章』3参照)。「はじめに神の語りかけを受けた民」と称えられるように、イスラエルは神の招きに最初に応えた選ばれた民であり、わたしたちキリスト者にとっての信仰の兄にあたるのです(『ローマ・ミサ典礼書』聖金曜日・主の受難の祭儀の盛式共同祈願6参照)。
民が愚かにも神への不忠実に陥るたびに、神は預言者たちをたびたび遣わして彼らの心を連れ戻し、新しい契約への豊かな希望を育てられました(エレミヤ31・31-34、エゼキエル36章参照)。預言者が告げた救いの待望は、深く自らを低くし、神に己の貧しさをありのままに差し出す人々の心によって大切に保持されていきました(ゼファニヤ2・3参照)。サラ、リベカ、ラケル、ミリヤム、デボラ、ハンナ、ユディト、エステルといった聖書の敬虔な女性たちは、暗闇の中で救いの希望を灯し続けました。そしてその麗しい至りとしておとめマリアが誕生し、神の救いの計画全体を全身全霊で受け入れられたのです(ルカ1・38参照)。
ですから、イエスの降臨によって、旧約聖書の尊い価値が失われたわけではありません。旧約の書物は聖霊の霊感によって書かれた神の言葉であり、永遠に変わらない価値を保ち続けています(『啓示憲章』14参照)。旧約の経綸は、キリストの到来を前もって準備し指し示すものであり、そこには崇高な教え、生きるための真の知恵、そして祈りの豊かな宝が満ちあふれています(『啓示憲章』15参照)。詩編の痛切な叫びや預言者たちの燃えるような希望、エリヤが耳にした「静かにささやく細い声」の出来事は、現代の暗闇を生きるわたしたちの心にも力強く響き、信仰を支える生きた力となっているのです(列王記上19章参照)。
イスラエルの民がその長い歴史の中で深く悟ったのは、神が自分たちを選び、何度背いても赦し続けてくださった理由が、自分たちの功績や優位性などではなく、神の完全な無償の愛であったという真実でした(申命記4・37、7・8、イザヤ43章、ホセア2章参照)。聖書はこの深く温かい愛を、父親のいつくしみ深い情愛(ホセア11・1参照)、母親の切ないほどの深い愛(イザヤ49・14-15参照)、そして花婿の燃えるような熱情(イザヤ62・4-5参照)に例えて描いています。そしてこの神の愛は、独り子を世にお与えになるという十字架のあがないの業において、ついに最高の極点に達したのです(ヨハネ3・16参照)。
神の啓示とは単なる抽象的な教義の伝達などではなく、神ご自身が歴史の時間と人間の現実の中に入り込み、わたしたちとの間に永遠の交わりを開いてくださる愛の出会いです(ヨゼフ・ラッツィンガー『キリスト教入門』参照)。わたしたちが洗礼を受け、ミサで神の言葉を聞き、エウカリスチアに与る時、自分一人の孤立した心で信じているのではありません。アブラハムの旅立ちからモーセの渡海、預言者たちの叫び、マリアの受諾、そしてイエスの十字架と復活に至る、数千年にわたって紡がれてきた神の壮大な救いの歴史の最先端に、いま今日のわたしたちの命が置かれているのです。
日々の激しい試練の中で、自分の祈りが天に届かないように感じられる孤独な夜であっても、自分だけの力で寂しく舟を漕ぐ必要はありません。ミサにおいてこの救いの歴史を記憶するとき、わたしたちは全人類を包み込む神の大いなる愛の物語の中にしっかりと抱かれていることを確信できます。自分の弱さや情けなさに失望しそうになるときこそ、この神の愛に支えられてきた無数の聖なる人々とともに、決して取り消されることのない約束を支えとして、歩み続けていきましょう。わたしたちの信仰は、決して孤立したものではなく、アブラハム、イスラエル、預言者、マリア、そしてキリストへとまっすぐに続く救いの歴史の中で、温かく育まれているのです。
イエスとともに歩み続ける
新しい契約に生きる教会は、救いの神秘を深く見つめるとき、古い契約の民であるユダヤ人との切っても切れない結びつきを見出します(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』4参照)。神の与えられた恵みと選ばれは、決して破棄されることがないからです(『ローマ・ミサ典礼書』聖金曜日・主の受難の祭儀の盛式共同祈願6参照)。聖ヨハネ・パウロ2世が「わたしたちの兄にあたる民」と親しみを込めて呼んだように(聖ヨハネ・パウロ2世「ローマのシナゴーグで行われたユダヤ人共同体との会見におけるあいさつ」参照)、神の子の身分、契約、律法、礼拝、そして数々の約束は彼らのものであり、肉によればキリストご自身も彼らの血筋からお生まれになりました(ローマ9・4-5参照)。「神のたまものと招きとは取り消されないもの」だからです(ローマ11・29参照)。旧約の民と教会は、世の終わりに臨むキリストの満ちあふれる到来という、共通の希望の目標に向かってともに歩んでいます。神が歴史の中で紡いでこられた救いの歩みを無視して、信仰を語ることはできません。嵐の中でわたしたちが踏み出す一歩は、無数の先達たちの歩みと地続きになっているのです。
ひるがえって日々のわたしたちの日常を省みるとき、自分がいかに自己中心的な思考に囚われているかに気づかされます。わたしたちは自分の狭い考えや都合の枠組みの中に神を閉じ込めようとし、自分の計画や損得感情に神を従わせようとしてしまいます。物事が順調に運んでいるときは感謝して賛美を捧げても、ひとたび病や不条理な苦難に見舞われると、途端に神の存在や愛を疑い始めてしまいます。「なぜ神はこのような苦しみを放置されるのか」という痛切な問いの裏には、実は神を自分の都合よく動かそうとする人間の密かな傲慢さが潜んでいるのかもしれません。荒れ狂う波を見て沈みかけたペトロのように、わたしたちも目に見える絶望的な状況ばかりを注視し、語りかけてくださるキリストの言葉から目をそらして、不信の深みへと沈んでいってしまいます。今わたしたちに強く求められているのは、そうした自分本位な思考の軸を思い切って手放し、キリストの「来なさい」という招きに全存在をもって従い、信仰の一歩を踏み出すことです。
わたしたちが目指すべき「向こう岸」とは、単なる世俗的な成功や、悩みの全くない快適な場所ではありません。個人にとっては、保身の舟を飛び出し、キリストの愛に従って赦しや奉仕へと踏み出す信頼の生き方です。そして教会全体にとっては、終わりの時にキリストが再臨され、正義と愛と平和の神の秩序が完結する神の国の完成です。この向こう岸は、主日の典礼、特にエウカリスチアにおいて、今ここで秘跡として先行して見事なまでに現在化されています。キリストの体と血を頂くとき、わたしたちは完成された神の国の豊かな恵みを、すでにここで味わっているのです。
ペトロが絞り出した「助けてください」という叫びは(マタイ14・30参照)、自力によるコントロールがすべて崩れ去ったときに生まれた、最も真実で深い祈りでした。この叫びは歴史を通じて幾重にも重ねられ、典礼の中で神の国の完成を熱望する祈りへと高められていきます。感謝の祭儀において、教会は「主よ、来てください」と祈り(一コリント11・26、16・22、黙示録22・20参照)、神の言葉に対する応答として力強く「アーメン」と唱えます。「アーメン」とは、「神の真実と約束に、わたしの全存在を委ねます」という魂からの同意です。エウカリスチアにおいて自らの弱さや深い苦難を祭壇へと差し出し、キリストの十字架の奉献に一つに結び合わせるとき、イエスの力強い御手が必ずわたしたちを引き上げてくださいます。
したがって、わたしたち自身が現実の重い病、深い喪失、不条理という絶望の中に置かれたときも、過剰にうろたえたり諦めたりする必要はありません。人間にはとても「無理だ」と思える状況であっても、イエスを信じ、その言葉に従って勇気をもって一歩を踏み出します。それこそが、わたしたちの生きる信仰なのです。そして、あらゆる絶望の奥底にまことの希望が隠されていることを、イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちはすでに知っています。イエスの死から復活へと至った救いの道を深く信じ、絶望の奥にある神の希望を力強く信頼して、イエスとともに今日というかけがえのない一日を、深い勇気と希望をもって歩み続けてまいりましょう。
