洗礼志願者への手紙 2026 四旬節第3主日
朗読箇所
5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
カテキズム
黙想
復活の聖なる徹夜祭まであと27日。
第一の気づき 私たちは荒れ野で渇いている
四旬節の旅は、私たちに一つの現実を少しずつ明らかにしてきました。
第1主日、私たちは気づかされました。私たちが生きている世界は荒れ野であるということです。荒れ野とは、単に苦しい場所という意味ではありません。それは、命を与える水がない場所です。人は水なしには生きられません。しかしここで言う「水」とは、川や湖の水のことだけではありません。人の魂を本当に潤す、神から来る命のことです。その命の水がないところ、それが荒れ野です。
普段、私たちはそのことに気づきません。社会は豊かで、情報は溢れ、欲しいものはすぐ手に入ります。しかし、どれほど満たされているように見えても、人の心の奥には消えない渇きがあります。それは何かが足りないという漠然とした感覚であったり、これだけ手に入れたのになぜこんなに空虚なのかという戸惑いであったりします。持っているはずなのに満たされない。そういう経験が、皆さんにもあるのではないでしょうか。
第2主日、私たちはイエスの光を浴びました。その光の中で、私たちは自分の本当の姿を見ました。それは、思っていたより立派な姿ではありませんでした。むしろ、自分がどれほど乾ききっている存在なのかを知ることになったのです。光が差し込むとき、私たちは自分の渇きを正直に見ることができます。人は本当の光を浴びるとき、初めて自分の渇きを知るのです。
私たちは今まで、その渇きを埋めるために、さまざまな「水」を飲んできました。成功、評価、安心、快楽、所有、承認。それらはすべて、喉を潤してくれるように見えました。しかし、それらは私たちを本当に潤す水ではありませんでした。むしろそれは、飲めば飲むほど喉を乾かす水でした。飲んだ直後は満たされたように感じますが、しばらくするとまた渇く。そして前よりも強い渇きで、また水を探し始める。その繰り返しの中に、私たちは生きてきたのかもしれません。
荒れ野とは、神がいない世界ではありません。神を見失った人間が作り出した世界です。その世界の中で、私たちは今、初めて自分の渇きに気づき始めています。そしてその渇きに気づいていること、それ自体がすでに恵みです。渇きを感じていない人は、泉を求めません。皆さんが今ここにいる理由は、その渇きがあったからです。この渇きに気づくことこそ、四旬節の最初の恵みなのです。
第二の気づき 私たちは多くの水を飲んできた
渇きを感じると、人は水を求めます。これはとても自然なことです。問題は、どの水を飲むのかということです。
私たちはこれまでの人生で、すでに多くの水を飲んできました。努力すれば幸せになれるという水。成功すれば満たされるという水。人から認められれば安心できるという水。現代社会は、こうした水を無数に差し出しています。テレビも、インターネットも、職場も、人間関係も、何かを手に入れれば満たされると語りかけてきます。しかし、それらは私たちを本当に潤す水ではありません。一時的に喉は潤ったように感じます。しかし、しばらくすると、また渇きます。しかも、以前よりも強い渇きです。なぜなら、それらは命の水ではなく、人間が作り出した水だからです。
預言者エレミヤを通して、神はこう語られます。「彼らは命の泉であるわたしを捨て、自分のために水をためる池を掘った。しかしそれは水をためることのできない壊れた池であった」(エレミヤ2・13参照)。人間が作り出した「水」は、壊れた池にためられた水だということです。一時は水が入っているように見えます。しかし、その池には底から亀裂が入っており、水は少しずつ染み出ていきます。気づいたときには、空になっている。それが人間の作り出す「水」の本質です。
私たちは、自分で井戸を掘ってきました。しかし、その井戸は水を保つことができませんでした。だから、私たちは今も渇いています。努力して成功を手に入れたのに、なぜかまた渇いている。人に認められたのに、しばらくするとまた不安になる。良いことをしているはずなのに、空虚感が消えない。それは、飲んでいる水が壊れた池の水だからです。
アウグスティヌスは長い人生の彷徨の後にこう語りました。「あなたは私たちをご自分に向けて造られました。あなたの中に安らぐまで、私たちの心は安らぎません」と(『告白』第1巻1章参照)。神に向けて造られた渇きは、神以外のものでは埋まらないのです。私たちがこれほど渇いているのは、壊れているからではありません。神に向けて造られているからこそ、神以外のものでは満たされないのです。
四旬節は、この現実を静かに見つめる時間です。自分がどの水を飲んできたのかを問い直す時間です。そして、その水が本当に命を与えるものだったのかどうかを、正直に見つめ直す時間です。壊れた池を掘り続けることをやめ、命の泉へと向きを変えることが、四旬節に私たちに求められていることです。
しかし、その転換は穏やかな方向転換ではありません。聖書が語る回心(メタノイア)とは、これまでの生き方の延長ではなく、それを終わらせることです。私たちはこれまで、成功や評価や安心を中心にして世界を理解し、その価値観の中で生きてきました。しかし神の前に立つとき、その価値観そのものが問い直されます。そこで求められているのは、単に人生を少し良くすることではありません。今までの自分の生き方を根底から否定し、それを死に渡すことです。
それは、今までとは逆の価値観で生き始めることでもあります。人より上に立つことで満たされると思っていた人が、仕えることの中に命を見出すようになります。多くを持つことが安心だと思っていた人が、神に委ねることの中に自由を見出すようになります。自分を守ることを中心にしていた人が、神と人のために自分を差し出す生き方へと向きを変えます。この逆転こそが、福音がもたらす転換です。
四旬節は、その転換が静かに始まる時間です。今まで飲んできた水が本当に命を与えるものだったのかを見つめ直し、そしてその水を手放す勇気を学ぶ時間です。皆さんの内で起こっている変化は、まだ小さなものかもしれません。しかしそれは確かに、これまでの生き方が終わり、新しい命が始まりつつあるしるしなのです。
第三の気づき 水は命であると同時に死でもある
しかし、聖書は水を単純に「良いもの」として描きません。水は命を与えるものですが、同時に恐ろしい力でもあります。
出エジプトのイスラエルは、荒れ野を歩く途中でしばしば水のなさに苦しみました。民はレフィディムで水がなく、モーセに逆らって言いました。「我々は水が欲しい。なぜエジプトから我々を連れ出したのか」と(出エジプト17・3参照)。奴隷であったエジプトへの郷愁は、渇きの前にいっそう強くなります。自由であることよりも、水があることの方が大切に見えたのです。しかし神はモーセに命じられました。「ホレブの岩を打て。そこから水が出る」と(出エジプト17・6参照)。打たれた岩から、水が流れ出ました。渇きは、神が近くにおられることを証明する場所となりました。
しかし聖書において水は、命の源であると同時に、死の力でもあります。海は混沌と死の象徴として描かれます。洪水はすべてを飲み込みます。紅海はエジプトの軍勢を葬りました。私たちが「水は良いものだ」と思い込もうとするとき、聖書はその甘さを拒みます。水は、私たちの力の及ばない何かです。支配できない何かです。私たちが管理できると思っていた世界の外側にある力です。
水は命を与えます。しかし水は、同時にすべてを奪う力を持っています。そしてその二つは、切り離すことができません。同じ水が、命を与え、同時に命を奪います。だから、聖書の水は、常に畏れを伴う水なのです。水を前にして、私たちは自分の小ささを知ります。自分が握りしめてきたものの儚さを知ります。そして初めて、本当に堅固なものを求め始めます。水は、私たちを謙らせます。水は、私たちが神なしには生きられないことを、身体で思い知らせます。
第2主日、山の上でイエスが変容される場面を見ました。栄光の光は、十字架を通り抜けた光でした。同じように、命の水は、死という水を通り抜けた命です。水は怖いものです。しかしそれを恐れて水から遠ざかる限り、私たちは渇いたままでいます。水の怖さを正直に認めることが、水が与える命へと向かうための第一歩です。
そして聖書においてもう一つ重要なことがあります。渇きを訴えたイスラエルの民に対して、神は水をどこから与えられたのかということです。神は川から水を引き寄せたのでも、空から雨を降らせたのでもありませんでした。モーセは岩を打ちました。打たれた岩から、水が流れ出ました。パウロはこの出来事についてこう語っています。「その岩とはキリストであった」と(一コリント10・4参照)。荒れ野を旅するイスラエルに水を与えた岩は、単なる岩ではなかったというのです。それは、キリストご自身を指し示す予型でした。
この洞察は、ヨハネ福音書の十字架の場面によって完成します。イエスが十字架の上で息を引き取られた後、兵士が槍でその脇腹を突きました。するとそこから「血と水が流れ出た」のです(ヨハネ19・34参照)。荒れ野で打たれた岩から水が流れたように、十字架で刺し貫かれたキリストの脇腹から、血と水が流れ出ました。岩は打たれなければ水を与えませんでした。キリストもまた、刺し貫かれることによって世界に命の水を与えられたのです。
聖書はここで、一つの驚くべき真理を示しています。神の命は、裂かれたところから流れ出るということです。荒れ野の岩も、キリストの脇腹も、どちらも打ち砕かれることによって初めて水を与えました。命は、閉じたところからではなく、開かれた傷から湧き出します。アウグスティヌスはこの脇腹の傷を、アダムの脇腹から造られたエバに重ねました。眠れるアダムの脇腹から花嫁が生まれたように、十字架の「眠り」の中で開かれたキリストの脇腹から、花嫁である教会が生まれたと語ったのです(『ヨハネ福音書講話』120参照)。
パウロが「その岩とはキリストであった」と語るとき、彼はイスラエルの旅の全体を、キリストの出来事の予型として読んでいます。荒れ野の渇きは、人間の根本的な渇きを示しました。打たれた岩は、打たれることによって命の水を与えるキリストを指し示しました。そして十字架の脇腹から流れた血と水は、洗礼と聖体という二つの秘跡の源泉となりました。命の水は、打たれることによって初めて流れ出します。水は恐ろしいものです。しかしその水の源は、傷つけられたキリストの内側にあります。この逆説が、次の気づきへと私たちを連れていきます。
第四の気づき ノアの洪水は「過越」だった
聖書の中で、水のもっとも大きな出来事の一つはノアの洪水です。
洪水は、世界を滅ぼしました。水は地を覆い、すべての生き物を飲み込みました。それは恐ろしい出来事でした。しかし聖書は、この出来事を単なる破壊として語ってはいません。洪水の水は、世界を滅ぼす水であると同時に、新しい世界を生み出す水でもありました。古い世界は水の中で終わりました。そして水の後に、新しい世界が始まりました。ノアが方舟の扉を開いたとき、そこにあったのは滅びではなく、再び始まった大地でした。
これは聖書の中で繰り返される一つの構造です。命は、死を通って生まれます。水は、古いものを終わらせることによって、新しいものを始めます。これはキリスト教信仰の中心にある出来事、十字架と復活の構造でもあります。死が終わりではありません。むしろ、命は死を通って現れるのです。十字架は失敗ではありませんでした。それは、復活への通路でした。同じように、洪水は滅びではありませんでした。それは、新しい創造への通路でした。
ジャン・ダニエルーは、洗礼の水がこれらすべての聖書的水の出来事を一身に引き受けていることを示しました。創造の水、洪水の水、紅海の水、ヨルダン川の水が、洗礼盤の水において一つに集約されるのです(『洗礼の神学』参照)。洗礼盤は、混沌の上に霊が舞っていた創世の水を指し示します。それは、古い世界を終わらせたノアの洪水の水を指し示します。それは、イスラエルを奴隷状態から解放した紅海の水を指し示します。そして、約束の地への入口となったヨルダン川の水を指し示します。これらすべての「神の過越」が、洗礼において皆さんの上に重なります。洗礼とは、歴史の中で繰り返されてきた「神による過越」の完成なのです。
私は2011年の東日本大震災の直後、南相馬にボランティアとして行きました。その風景を、私は今でも忘れることができません。そこには、水によって破壊された世界がありました。街は消えていました。家は流されていました。人々が築いてきた生活は跡形もなく失われていました。そこに残っていたのは、土砂に埋もれた残骸と、腐敗した匂い、そしてヘドロだけでした。本当に、何も残っていませんでした。あの日まで確かに存在していた建物が、道路が、人々の暮らしが、すべて消えていたのです。
そのとき私は強く感じました。人間が作り上げてきたものは、驚くほど簡単に失われるということです。社会も、文化も、価値観も、私たちが「確かなもの」だと思っていたすべてが、一瞬で崩れ去るのです。その光景を見たとき、私はふと思いました。おそらく1945年8月15日の後、日本の人々も同じ風景を見たのだろうと。すべてが失われた場所で、今まで信じていた価値観は崩れたのです。
しかし同時に、私はもう一つのことも見ました。すべてが失われた場所で、人々はなお生きていました。家も財産も流されても、人はなお立ち上がり、互いに助け合い、再び生き始めていました。水はすべてを奪いました。しかしその水の後に、なお命は残っていました。そしてその命は、以前とは違う仕方で始まり直していました。その光景を前にして、私は聖書が語る洪水の後の世界というものを、初めて身体で理解したように感じました。水が奪うとき、それは同時に神が与え始めるときでもあります。神の水は、常にそのようにして働くのです。
皆さんはまもなく、洗礼盤の水に沈みます。その水は冷たいかもしれません。その水は恐ろしいかもしれません。しかしその水は、同時にすべての「神による過越」が凝縮された水です。創造の初めから今日まで、神が繰り返してきた「死から命へ」という出来事が、皆さんの上で完成します。水は終わりではありません。水の向こうに、復活の大地があります。洗礼盤の水は、ノアが扉を開いたその朝の光へと、皆さんを運ぶ水なのです。
第五の気づき 渇く
そして今日、教会は一つの井戸の前に私たちを立たせます。
サマリアの女は井戸に水を汲みに来ました。しかしヨハネは、その時刻をわざわざ記しています。「第六の時ごろであった」と(ヨハネ4・6参照)。第六の時とは、正午のことです。古代の生活において、水を汲みに来るのは朝か夕方です。炎天下の正午に井戸へ来る者はほとんどいません。彼女は人目を避けていたのです。人々の視線を避けながら、それでも毎日水を汲みに来なければならない。そこには、人に見せることのできない過去がありました。複雑な傷がありました。それが彼女の現実でした。
しかしこの「第六の時」という時刻は、ヨハネ福音書の中でもう一度現れます。ピラトがイエスに対して死刑の判決を下した時刻も、「第六の時ごろであった」と記されています(ヨハネ19・14参照)。ヨハネはこの時刻の一致を、意図的に書いています。サマリアの女が井戸のそばでイエスと出会った時間と、イエスが十字架へと引き渡された時間は、同じ「第六の時」です。井戸の場面は、すでに十字架の影の中で起こっているのです。
その井戸のそばで、イエスは彼女に言われました。「水を飲ませてほしい」と(ヨハネ4・7参照)。渇いているのは、彼女のはずです。しかしイエスが水を求められます。神が先に求められます。神が渇いておられます。それは肉体的な渇きだけではありません。イエスは彼女との出会いを求めておられたのです。神は、私たちとの交わりを渇き望んでおられます。この「神の渇き」という逆転が、今日の福音の核心です。
そしてこの「渇く」は、十字架の上で再び現れます。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」(ヨハネ19・28参照)。ヨハネが「聖書の言葉が実現するために」と記すとき、これは単なる肉体的渇きの訴えではありません。神が人間を求める渇きが、十字架において極限に達した瞬間です。私たちが渇いていたはずでした。しかし実際には、キリストご自身が私たちの渇きを背負っておられたのです。私たちが飲むはずだった渇きの杯を、キリストが引き受けられました。だからこそ、私たちは命の水を受け取ることができるのです。命の水を与える方ご自身が、渇きを引き受けられました。
その直後、兵士がイエスの脇腹を槍で突きました。すると「血と水が流れ出た」のです(ヨハネ19・34参照)。第三の気づきで見たように、この脇腹から流れた水は、荒れ野で打たれた岩から流れ出た水と同じ構造を持っています。パウロが「その岩とはキリストであった」と語ったように(一コリント10・4参照)、荒れ野の岩はキリストの脇腹を指し示していました。岩は打たれなければ水を与えませんでした。キリストもまた、「渇く」と言われながら刺し貫かれることによって、世界に命の水を与えられました。教会が伝えるように、この脇腹から流れた血と水は、洗礼と聖体という二つの秘跡の源泉です。私たちを生かす命の水は、井戸の底からではなく、イエスの渇きから流れ出たのです。
キリストと出会った後、サマリアの女は「水がめをそこに置いたまま、町に行き」ました(ヨハネ4・28参照)。水を汲みに来たはずの人が、水を持たずに帰っていったのです。それは単に急いだからではありません。彼女は、自分で水を確保して生きる生き方を手放したのです。人が掘った井戸から水を得て生きる生き方を手放し、神が与える泉に身を委ねたのです。井戸は人間が掘るものです。しかし泉は、神から湧き出ます。ベネディクト十六世が繰り返し語ったように、キリスト教とは道徳的努力の宗教ではありません。受け取る宗教です(『ナザレのイエス』参照)。水がめを置くとは、「自分で命を管理する」という生き方から「神の泉から受け取る」という生き方への転換を、身体で示した行為なのです。この井戸の傍らで語られた「水」の物語は、やがて第六の時、十字架の上で主が「渇く」と言われる場面へと静かに通じていきます(ヨハネ19・28)。
イエスはかつて彼女に言われました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と(ヨハネ4・14参照)。水を外から汲み続ける人生は終わります。神の水は、外から運んでくるものではありません。それは、内側から湧き出す命です。
皆さんはまもなく、洗礼の水に触れます。その水は単なる象徴ではありません。それは、十字架のキリストの脇腹から流れ出た命の水です。荒れ野で「水を飲ませてほしい」と言われたイエスが、十字架の上で「渇く」と言われ、その傷から命の水を流されました。その水が、今日も流れ続けています。教会は、復活の聖なる夜、この水を祝福し、世界の初めから流れてきた救いの水として受け取ります。その水は、決して枯れることのない泉です。皆さんがまもなく沈む洗礼盤の水は、その渇きから湧き出た水なのです。その夜、皆さんはもはや井戸の水を汲みに来る人ではありません。
皆さん自身が、泉になるのです。
祈り
わたしたちの主イエス・キリストよ、
私たちは長い間、自分で水を探して歩いてきました。壊れた池を掘り続け、いつも乾いたままでいました。あなたのほかに命の水がないと知りながら、それでも自分の水がめを手放すことができずにいました。
しかしあなたは、昼の暑い時間に井戸のそばで彼女を待っておられたように、今日も私たちを待っておられます。あなたはまず私たちに求められます。渇いているのはあなたの方だと、今日私たちは知りました。
どうか私たちを、あなたという泉のもとへ導いてください。私たちがあなたの水を飲み、命に至る泉が心の中から湧き出る者となりますように。洗礼志願者の皆さんが、その泉の前に立っています。どうか彼らが水がめを置く勇気を受け取ることができますように。そして洗礼の水の中で、古い人間が終わり、あなたの命によって新しく生まれることができますように。
アーメン。
