天狗山・十国峠|富士山を見た瞬間、頭の奥でもう答え合わせが始まっている

富士山って、
見たことがなくても「見た気」になれる。
写真じゃなくてもいい。
説明もいらない。
「富士山」と聞いた瞬間、もうあの姿が、頭の中に浮かぶ。
実際に目の前にすると、不思議なことが起きる。
きれいだと思う前に、もう「納得している」。
驚くより先に、終わっている。
気づけば、目が勝手に追っている。
でも、どこを見ているのかはよくわからない。
視線の置き場を選んでいる感じがない。
ただ、全部がそこにある。

たとえば、北アルプスは違う。
岩の荒さに目がいく日もあれば、稜線の細さに惹かれる日もある。
どこを見るかは、そのときの自分に委ねられている。
だから、何度も見直す。
でも、富士山は違う。
どこを見るかを選べない。
最初から、全部見せられている。
選ぶ余地がない。
山の上を歩きながら、ずっと考えていた。
なぜ、富士山はこんなにも人を黙らせるのか。
たぶんそれは、
“余白がない”からじゃない。
見た瞬間に、もう完成形として頭に収まってしまう。
「どう感じるか」を考える前に、感じる余地が消えている。
富士山を見ているとき、
自分の感性が働いている感じがしない。
選んでいないのに、
もう「そう感じてしまっている」。
だから、言葉が出てこない。
何かを足す必要も、引く必要もない。
ただ、そのまま受け取るしかない。
完成されたものは、人を黙らせる。
でも富士山は、少し違う。
黙らされる。
視線も、感想も、反応も、すべて先回りされている。気づいたときには、もう答え合わせが終わっている。
たぶん富士山は、見に行く山じゃない。
自分の中に、すでに刷り込まれている形を、
なぞりにいく山なんだと思う。
何度見ても、また確かめたくなる。
おわりに|同じ富士山でも、見る場所によって、空気の纏い方が少しずつ違う
同じ富士山でも、見る場所によって、
纏う空気は少しずつ違う。
それでも、どこから見ても「富士山だ」とわかる。
その確かさが、また不思議で、少し嬉しい。
最後まで読んでくれて、ありがとう。
スキやフォロー、コメントをもらえるたびに、
「あ、誰かに届いたんだな」って思えます。
無理に反応しなくても大丈夫。
ただどこか一行でも引っかかったなら、それで十分です。
また山で拾った話を、持ち帰ってきますね。
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