反重力恋愛『半分だけ持つ』――「栞は同じ頁に挟まない」

駅ビルの書店には、椅子が二つあった。
並んではいない。
一つは文学の棚の前。
もう一つは、窓際の新刊台のそば。
離れているけれど、互いに見えないほどではなかった。
君は文学の棚から本を一冊抜いた。
青い表紙だった。
「読むの?」
ぼくが聞いた。
「少しだけ」
「買う?」
「まだわからない」
「最後まで読む?」
君は本を開きながら首を振った。
「今日は最後まで読まない」
「決めてるんだ」
「最後まで読める日に、最後まで読めばいいから」
「そういう正しさ」
「今日は?」
君は頁をめくった。
「少し要る」
ぼくも棚から本を一冊取った。
君が持っているのと同じ本だった。
版は違う。
君の本は青い表紙。
ぼくの本は黒に近い緑色。
「同じ本」
君が言った。
「うん」
「合わせたの?」
「たまたま」
「そういう正しさ」
「今日は?」
君はぼくの本を見た。
「要らない」
「どうして」
「たまたまのままにしておきたい」
君は文学の棚の前の椅子に座った。
ぼくは窓際の椅子へ行った。
同じ本を、離れた場所で開く。
君がどの頁を読んでいるのかは見えない。
ぼくがどこを読んでいるのかも、君にはわからない。
ただ、頁をめくる音だけが、ときどき重なった。
一度。
二度。
三度目は、君のほうが少し早かった。
ぼくは手を止めた。
君も、止めたように見えた。
しばらくして、君がこちらへ来た。
本は閉じていない。
人差し指を頁のあいだに挟んでいる。
「どこまで読んだ?」
ぼくが聞いた。
「言わない」
「どうして」
「同じところだったら困る」
「何が?」
君は少し考えた。
「続きを読んだときに、同じものを見たことになる」
「同じ本だから」
「同じ本でも、同じ頁じゃなければ違う」
「そういう正しさ」
「今日は?」
「かなり要る」
君は指を挟んだまま、本を閉じた。
書店の隅に、無料の栞が置いてあった。
薄い紙でできたもの。
店の名前と、営業時間が印刷されている。
君は二枚取った。
一枚をぼくに差し出した。
「もらっていいの?」
「うん」
「同じ栞」
「同じじゃない」
君は裏側を見せた。
片方には、小さなインクの掠れがあった。
もう片方には何もない。
「どっちがいい?」
ぼくが聞いた。
「選ばない」
「じゃあ」
「裏返して」
ぼくは二枚の栞を伏せた。
君が一枚取った。
ぼくは残った一枚を取った。
君の栞に掠れがあるかどうかは、見なかった。
「どこに挟む?」
ぼくが聞いた。
「いま読んでいたところ」
「ぼくも」
君は少しだけ眉を寄せた。
「同じ頁だったら?」
「確認する?」
「しない」
「じゃあ」
「ずらす」
「何頁?」
「一頁だけ」
君はそう言って、本を開いた。
いま読んでいた頁より、一頁先に栞を挟む。
「まだ読んでないところだよ」
「うん」
「いいの?」
「ここまで読む、じゃなくて」
君は本を閉じた。
「次はここから、にする」
ぼくも自分の本を開いた。
いま読んでいた頁から、一頁だけ戻ったところに栞を挟んだ。
君が見ていた。
「戻るの?」
「うん」
「もう読んだところ」
「読み直す」
「どうして」
「君が一頁先に行ったから」
「待つの?」
「違う」
「じゃあ」
ぼくは本を閉じた。
「同じ頁にしない」
君は黙った。
それから、小さく言った。
「ひどいね」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「じゃあ」
「でも、よかった」
二冊の本を重ねてはいけない気がした。
だから、返す棚も別々にした。
君は青い本を元の場所へ戻した。
ぼくは緑の本を、少し離れた棚へ戻した。
同じ物語が、別の背表紙になって並ぶ。
「買わなかったね」
ぼくが言った。
「うん」
「続きを読めない」
「また来ればいい」
「本がなかったら?」
君は少し考えた。
「そのときは、そのとき」
「忘れたら?」
「何を?」
「どこまで読んだか」
君はポケットの栞に触れた。
「栞だけ持ってる」
「本がないのに?」
「うん」
「それ、役に立つ?」
「立たなくていい」
書店を出ると、外はもう暗かった。
駅ビルのガラスに、店内の灯りが映っている。
人が本を選んでいる。
頁をめくっている。
買う人もいる。
戻す人もいる。
「最後まで読まないって」
君が言った。
「うん」
「途中でやめるのと違うね」
「違う?」
「うん」
「どう違うの」
君はポケットから栞を少しだけ出した。
「続きがあると思って閉じるから」
改札の前で、君は立ち止まった。
「今日は何頁?」
ぼくが聞いた。
「言わない」
「まだ?」
「うん」
「いつか言う?」
「同じ頁じゃなくなったら」
「ずっと違うかもしれない」
「それでいい」
君は栞をポケットに戻した。
「同じ本なら」
それだけ言って、改札を通った。
夜、スマホが震えた。
君からだった。
栞、持ってる?
ぼくは机の上を見た。
書店の名前が印刷された、薄い紙。
持ってる。
既読。
本はないのに。
うん。
少し間があった。
変だね。
ぼくは返す。
かなり。
既読。
また少し間があった。
でも、捨てないで。
ぼくは画面を見た。
それは、ぼくに向けられた要求だった。
触らないで、でもない。
待ってて、でもない。
見てて、でもない。
捨てないで。
ぼくはすぐに返した。
捨てない。
既読。
返事は来なかった。
寝る前に、本のない栞を引き出しに入れようとした。
でも、やめた。
机の上に置いた。
使われていない。
頁を覚えていない。
何かを挟んでいるわけでもない。
ただ、次に本を開くまで、そこにある。
スマホがもう一度震えた。
つづき、やろ?
ぼくは返した。
うん。
少し考えて、もう一行だけ書いた。
同じ頁にはならないまま。
既読。
しばらくして、君から返事が来た。
それなら、つづけられる。
本は閉じたままだった。
物語は止まっていた。
でも、止まっていることと、終わっていることは違う。
今夜、二枚の栞だけが、
まだ読まれていない別々の頁を、
誰にも見えないところで待っている。
