「ぼく」と「君」の日常ノワール『半分だけ持つ』――「白線の上で踊る」
君は、横断歩道の向こう側にいた。
夕方だった。
信号は赤で、車が何台も通っている。
バス。
タクシー。
白い軽トラック。
自転車は、歩道の端で少しだけ止まって、また走っていった。
ぼくはこっち側にいる。
君は向こう側にいる。
距離は、道路一本分。
近いのか遠いのか、よくわからない。
スマホが震えた。
見えてる?
ぼくは君を見た。
君はスマホを見ている。
顔は上げていない。
ぼくは返した。
見えてる。
すぐに既読がついた。
君は、ようやく顔を上げた。
信号はまだ赤だった。
横断歩道の白い線が、雨上がりのアスファルトの上に並んでいる。
昨日の雨の名残で、ところどころ白線が光っていた。
「今日は、渡る?」
そう打とうとして、やめた。
代わりに、
そっちは寒い?
と送った。
君は少しだけ首を傾げてから、画面を見た。
こっちも寒い。
それは当たり前だった。
同じ町の、同じ交差点の、同じ夕方なのだから。
でも、そう返ってきたことに少し安心した。
信号が青になった。
人が動き出す。
こちら側からも、向こう側からも、人が白線の上を渡っていく。
ぼくは動かなかった。
君も動かなかった。
人の流れだけが、ぼくたちの間を通っていく。
ベビーカーを押す人。
学生服の男の子たち。
買い物袋を持った女の人。
イヤホンをした若い人。
みんな、普通に渡っている。
渡ることに意味なんて持たせていない。
それが少しうらやましかった。
信号が点滅する。
赤に戻る。
君はまだ向こう側にいる。
ぼくも、まだこっち側にいる。
スマホが震えた。
渡らなかったね。
ぼくは返す。
うん。
そっちも。
うん。
それだけだった。
それだけなのに、少し息が浅くなった。
君は白線の端を見ている。
足元。
白い線の、いちばん端。
そこに靴のつま先を少しだけ乗せた。
車道には出ていない。
でも、歩道の中だけでもない。
「危ないよ」
送ろうとして、やめた。
危なくない。
それくらいは、危なくない。
でも、君が白線の端に立つだけで、何かが始まりそうに見える。
君からメッセージが来た。
一線って、こういうの?
ぼくは少し笑った。
笑ったのに、胸の奥が少し痛かった。
たぶん。
白いね。
うん。
思ったより太い。
ぼくは横断歩道の白線を見た。
たしかに太い。
一線、という言葉ほど細くない。
人が何人も同時に踏めるくらいの幅がある。
一線って、踏めるんだね。
君がそう送ってきた。
ぼくは返事に迷った。
越えるものだと思ってた。
送る。
すぐ既読。
少しして、
今日は、踏む。
と来た。
次の青になった。
君は白線の上へ一歩出た。
ぼくも、一歩出た。
でも、渡らない。
横断歩道の最初の白線の上に立つ。
車は止まっている。
人はまた歩き始める。
ぼくたちは、進まない。
横断歩道の端と端で、同じように一歩だけ出ている。
向こうから見たら、ただ立ち止まっている人だろう。
でも、ぼくには、君が白線の上に立っていることだけがやけにはっきり見えた。
スマホを持つ手が少し冷たい。
君からメッセージ。
これ、踊り?
ぼくは返す。
かなり下手な。
君は少し笑った。
遠くて、声は聞こえない。
でも、笑ったのはわかった。
三拍子じゃないね。
信号だから。
何拍子?
ぼくは信号を見た。
青。
点滅。
赤。
青、点滅、赤。
送る。
君からすぐ返事。
それは踊りにくい。
点滅が始まった。
周りの人たちは少し急ぐ。
ぼくたちは戻った。
歩道の上へ。
君も戻った。
同時だったかどうかはわからない。
でも、そう見えた。
信号が赤になる。
また車が流れる。
ぼくたちはそれぞれの側に戻っている。
何もしていない。
渡っていない。
会っていない。
でも、白線を一歩だけ踏んだ。
それだけだった。
それだけで、少し疲れた。
足、冷えた。
君から。
白線のせい?
たぶん。
白線は冷たい?
今日は冷たい。
ぼくは自分の靴の裏を少しだけ意識した。
白線の上に立ったときの感触。
アスファルトより、少しだけ滑る。
少しだけ硬い。
塗料の厚みがある。
白線には厚みがある。
それが今日、初めてわかった。
道路の向こう側で、君はポケットにスマホをしまった。
ぼくもスマホをしまった。
しばらく、ただ向かい合った。
言葉なしで。
車の音だけがある。
でも、言葉がないことが、今日は少し悪くなかった。
昨日は会わなかった。
一昨日は、君が普通に笑っているのを見た。
その前は、ワルツを一曲だけ踊った。
その全部のあとで、今、道路一本分を挟んで立っている。
近づかない。
でも、逃げてもいない。
君が、こちらへ小さく手を上げた。
手を振るほどではない。
ただ、見えていると知らせるくらいの動き。
ぼくも同じように手を上げた。
それだけ。
次の青で、君は二歩進んだ。
ぼくも二歩進んだ。
横断歩道の中に入る。
でも、真ん中までは行かない。
人がぼくたちの横を通り過ぎる。
向こうから来る人と、こちらから行く人がすれ違う。
その流れの中で、ぼくと君だけが少し遅い。
一歩。
止まる。
もう一歩。
止まる。
踊りというより、歩きそこねているみたいだった。
でも、それでよかった。
白線から白線へ、足を置く。
黒いところは踏まない。
そんなルールを、誰も決めていないのに、二人とも同じようにしていた。
君がスマホを出した。
ぼくも出す。
黒いところ踏まないの?
そっちもでしょ。
うん。
どうして?
わからない。
今日は、わからないでいい?
ぼくは少し考える。
いい。
すぐ既読。
君は少しだけ頷いた。
点滅が始まった。
今度は、戻るには少し遠い。
渡り切るには、まだ早い。
ぼくたちは横断歩道の途中で止まっている。
本当は止まってはいけない。
でも、車はまだ動かない。
点滅している。
君がこちらを見る。
ぼくも君を見る。
距離は、道路半分より少し短い。
近い。
でも、まだ向こう側ではない。
君からメッセージ。
真ん中はだめだね。
ぼくは返す。
危ない。
そういう正しさ。
今日は?
少し間があった。
信号はまだ点滅している。
かなり要る。
その返事を読んで、ぼくは歩き出した。
君も歩き出した。
ぼくは元の側へ戻った。
君も元の側へ戻った。
結局、また渡らなかった。
信号は赤になった。
車が動き出す。
ぼくたちは、それぞれの側に戻っている。
でも、さっきより少し息が上がっていた。
通りの向こうで、君が笑った。
今度は声が少し聞こえた気がした。
車の音に混ざって、ほんの少し。
ぼくも笑った。
笑ってから、少し楽になった。
スマホが震える。
ばかみたい。
うん。
大人なのに。
うん。
横断歩道で何してるの。
白線の上で踊ってる。
送ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、君からすぐ返事が来た。
それなら、まだいい。
まだいい。
その言葉が、今日の真ん中に置かれた気がした。
何度目かの赤で、ぼくは歩道の端に座りそうになった。
でも座る場所はなかった。
君も少し疲れているように見える。
横断歩道を渡らずに疲れる人間が、この町にどれくらいいるだろう。
たぶん、あまりいない。
いつまでやるの?
ぼくが送る。
君はスマホを見て、少し考えた。
渡りたくなるまで。
渡るの?
わからない。
渡らないかもしれない?
うん。
じゃあ、終わらない。
終わらないものは、途中でやめる。
ぼくはその文を読んだ。
それは、君にしてはかなり正しかった。
やめる?
送る。
君は顔を上げた。
そして、こちらを見て、小さく首を振った。
スマホが震える。
あと一回。
あと一回。
そう決めると、急に横断歩道が舞台みたいに見えた。
白線。
信号。
車道。
歩道。
向こう側。
すべてが、最初からそこにあったのに。
最後の青になった。
ぼくは一歩出る。
君も一歩出る。
白線の上に足を置く。
黒いところは踏まない。
一歩。
一歩。
一歩。
今度は止まらない。
でも急がない。
真ん中に近づく。
君も近づく。
距離が短くなる。
道路の真ん中あたりで、君とすれ違う。
触れない。
立ち止まらない。
でも、すれ違う瞬間、君が言った。
声で。
「今日は、ここまで」
ぼくは頷いた。
声は出なかった。
そのまま歩く。
ぼくは向こう側へ行く。
君はこっち側へ行く。
つまり、入れ替わった。
信号が点滅する前に、二人とも渡り切った。
君は、さっきまでぼくがいた側に立っている。
ぼくは、さっきまで君がいた側に立っている。
道路を挟んで、また向かい合った。
でも、場所が変わっている。
それだけで、少し変だった。
スマホが震えた。
そっちはどう?
ぼくは周りを見る。
同じ交差点。
同じコンビニ。
同じ薬局。
同じ駅の入口。
でも、見え方が少し違う。
こっちも寒い。
送る。
君はそれを読んで、少しだけ笑った。
それ、さっき私が言った。
うん。
移った。
うん。
嫌?
ぼくは少し考える。
少し。
送る。
君から返事。
少しならいい。
信号は赤だった。
もう渡らない。
それは、二人ともわかっている気がした。
今日は、会わなかった。
いや、会ったのかもしれない。
道路の真ん中ですれ違った。
声を一言だけ聞いた。
白線を一緒に踏んだ。
でも、同じ側には立たなかった。
それでよかった。
たぶん。
今日は何にする?
ぼくが送る。
君はスマホを見る。
少し考えている。
白線。
そのまま。
そのままがいい日もある。
持てる?
踏んだから、持たない。
ぼくはその文を見て、少しだけ笑った。
踏んだから、持たない。
今日の君らしい言葉だった。
覚える?
送る。
既読。
足の裏だけ。
ぼくは自分の足を見る。
靴の裏は見えない。
でも、白線の感触はまだ少しある。
じゃあ、今日は足の裏に置く。
送る。
君は少し長く返事をしなかった。
それから、
汚れるよ。
と来た。
ぼくは返す。
それくらいでいい。
既読。
返事はなかった。
でも、君が向こう側で笑ったのが見えた。
駅の入口へ向かうには、ぼくはこのまま歩けばいい。
君も、さっきぼくがいた側からなら別の入口へ行ける。
つまり、もう同じ方向へ行かなくても帰れる。
君が小さく手を上げた。
ぼくも手を上げた。
今度は、昨日より少し大きく。
でも、振りすぎない。
それから、君は駅の反対側の入口へ歩いていった。
ぼくも、自分の側の入口へ歩いた。
一緒には歩かなかった。
でも、今日はそれでよかった。
家に帰って、靴を脱いだ。
玄関の電球は、まだあたたかい色で点いた。
君が選んだ色。
靴の裏を見る。
当たり前だけれど、白くはなっていない。
横断歩道を踏んだ痕跡なんて、どこにもない。
それが少し残念で、少し安心だった。
手を洗う。
顔を洗う。
机を見る。
箱。
裏返しのコピー。
レシート。
今日は、何も増えていない。
足の裏だけが、少しだけ覚えている。
スマホが震えた。
君からだった。
こっち側、少し変だった。
ぼくは返す。
そっち側も。
どっちがそっち?
ぼくは少し考えた。
もう、どっちがどっちなのかわからない。
今日のそっち。
送る。
既読。
少しして、
じゃあ、今日のこっちも変だった。
ぼくは画面を見て、少し笑った。
変だった。
それで十分だった。
寝る前に、もう一通来た。
渡らなかったわけじゃないね。
ぼくはその文を見た。
確かに。
渡らなかったわけではない。
でも、会いに行ったわけでもない。
すれ違って、入れ替わった。
同じ場所に立つかわりに、相手のいた側に行った。
返事を打つ。
越えたんじゃなくて、交換した感じ。
既読はすぐについた。
返事は少し遅れて来た。
じゃあ、一線じゃなくて白線だったね。
ぼくはその文を何度か読んだ。
一線じゃなくて、白線。
越えるためではなく、踏むためにあるもの。
渡るためではなく、少しだけ踊るためにあったもの。
返事はしなかった。
しばらくして、白い横線の絵文字のようなものがひとつ届いた。
線なのか、道なのか、
今日だけ踏んでよかった境界なのか、わからない。
ぼくはスマホを伏せる。
部屋は静かだった。
でも、足の裏だけが、
まだ少し、
白線の上にいる気がした。
