「ぼく」と「君」の日常ノワール『半分だけ持つ』――「今日は会わない」
朝、君からメッセージが来た。
今日、会える?
ぼくは画面を見たまま、しばらく動かなかった。
外は晴れていた。
昨日の雨はもう止んでいて、ベランダの手すりにだけ水滴が残っている。
机の上には、箱と、裏返しのコピーと、昨日のレシートがあった。
ホットコーヒー。
一名。
時刻。
その紙だけが、朝の光の中で妙にはっきりしていた。
ぼくは返事を打った。
今日は、会わないほうがいいと思う。
送ってから、すぐに後悔した。
でも、取り消さなかった。
既読はすぐについた。
返事は来なかった。
一分。
三分。
五分。
君が言葉を選んでいるのが、画面の向こうから見える気がした。
やがて、短い返事が来た。
それは、持てない日?
ぼくは少しだけ息を吐いた。
怒っていない。
責めてもいない。
君は、昨日の続きとして聞いている。
ぼくはレシートを見る。
一名。
たぶん、見たものがまだ重い。
送る。
今度は、既読がつくまで少し時間がかかった。
朝食は食べなかった。
食べないつもりではなかった。
トーストを焼こうとして、パンが切れていることに気づいた。
冷蔵庫には卵と、麦茶と、半分だけ残った豆腐がある。
半分。
その言葉が少しうるさく感じたので、冷蔵庫を閉めた。
お湯を沸かして、インスタントコーヒーを作った。
昨日のカフェのコーヒーとは違う。
コンビニのコーヒーとも違う。
家のコーヒー。
誰にも見られないコーヒー。
レシートは出ない。
君から返事が来た。
ごめん、ってまた言いたくなる。
ぼくはその文を見た。
昨日、君は謝った。
ごめん、と。
それだけだった。
あの短さが、ずっと残っていた。
ぼくは返す。
今日は、まだ言わなくていい。
少しして、君から。
言わないでいるの、難しい。
ぼくは画面を見た。
それは、少しわかった。
謝りたいときに謝らないのは、謝ることより難しい場合がある。
謝れば、少し形になる。
でも、形にした瞬間に、誰かが悪いことになる。
昨日のことは、悪いことではなかった。
でも、痛かった。
そこが難しかった。
昼前に、洗濯をした。
洗濯機が回る音を聞いていると、少しだけ落ち着いた。
ポケットの中を確認する。
古いレシートが一枚出てきた。
いつのものかわからない。
ドラッグストア。
歯ブラシ。
洗剤。
ポイント利用。
それはすぐ捨てた。
昨日のレシートは捨てなかった。
捨てられなかった。
同じ薄い紙なのに、扱いが違う。
扱いが違うことが、少し嫌だった。
君からまたメッセージ。
今日は、何してる?
ぼくは少し迷った。
会わない日なのに、こういうことは聞くのか。
でも、会わないことは、話さないことではない。
たぶん。
洗濯。
送る。
乾燥機?
家の洗濯機。
そっか。
その「そっか」が、いつもより近く感じた。
会っていないのに。
昼過ぎ、外へ出た。
近所のスーパーへ行くためだった。
卵を買う。
パンも買う。
ついでに牛乳。
カゴに入れるものが、どれも普通だった。
普通すぎて、少し助かった。
レジで店員が言った。
「レシートはご利用ですか」
ぼくは少しだけ止まった。
「いりません」
そう答えた。
レシートは出てこなかった。
袋に、パンと卵と牛乳が入る。
その袋をひとりで持った。
片方の持ち手だけではなく、両方を自分で持った。
重さは普通だった。
普通の重さだった。
家に帰って、買ったものを冷蔵庫に入れる。
牛乳。
卵。
パン。
それだけで少し生活が戻った気がした。
スマホを見る。
君からは何も来ていない。
それでいいと思った。
でも、少し寂しかった。
会わない日というのは、相手から何も来ない時間も含めて会わないのだと、初めてわかった。
会わないと決めたのに、メッセージが来るかどうかを待っている。
それは少しずるい。
誰がずるいのかは、よくわからない。
夕方、君からメッセージが来た。
駅ビルの前を通った。
ぼくは画面を見た。
駅ビル。
昨日のカフェがある場所。
入った?
送るか迷った。
送らなかった。
代わりに、
そう。
とだけ返した。
すぐに既読。
入らなかった。
ぼくはその文を見て、少しだけ目を閉じた。
入らなかった。
それは報告なのか、言い訳なのか、約束なのか。
たぶん、どれでもない。
君はただ、通ったことと、入らなかったことを知らせてきた。
それだけ。
それだけで、少し胸が痛んだ。
会わない日も、報告するの?
ぼくはそう送った。
少し強い言い方だったかもしれない。
既読がついてから、返事まで少し空いた。
報告しないと、欠席になる気がした。
ぼくはその文をしばらく見た。
欠席。
たしかに、今日は会わない。
でも、休んでいるわけではない。
逃げているわけでもない。
約束を破っているわけでもない。
会わないことを、選んでいる。
欠席じゃないと思う。
送る。
君からすぐ返事。
じゃあ、何?
ぼくは答えに詰まった。
会わないこと。
欠席ではない。
拒絶でもない。
冷却期間でも、別れでもない。
休符。
送ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、君からはすぐに返事が来た。
それはいいね。
休符。
音がないところ。
でも、曲の外ではないところ。
弾かない。
鳴らさない。
でも数える。
ぼくはその言葉を送ったあとで、ようやく少し楽になった。
今日は会わない。
でも、関係の外に出たわけではない。
一拍、休んでいる。
いや、一拍ではないかもしれない。
今日一日ぶん。
それでも、曲の中にあるなら、少し耐えられる気がした。
夜になって、昨日のレシートを手に取った。
ホットコーヒー。
一名。
時刻。
それをどうするか、昼から何度も考えていた。
捨てる。
残す。
箱に入れる。
コピーの下に置く。
財布にしまう。
どれも違った。
ぼくはレシートを持ったまま、玄関に行った。
傘が立てかけてある。
昨日、ひとりで差した傘。
乾いていた。
傘の柄に、レシートを巻きつけるようにしてみた。
変だった。
すぐ外した。
君からメッセージが来た。
休符は、半分持てる?
ぼくは少し笑った。
いかにも君らしい質問だった。
でも、すぐには答えられなかった。
休符を持つ。
音がないところを持つ。
会わないことを持つ。
ひとりで持つと、欠席になる気がする。
送った。
しばらくして、君から。
二人で持つと?
ぼくは少し考えた。
約束になる気がする。
送る。
既読。
長い間、返事はなかった。
それから、
じゃあ、今日は会わない約束。
と来た。
ぼくは画面を見た。
会わない約束。
変な言葉だった。
でも、今日には合っていた。
ぼくはレシートを机に戻した。
捨てなかった。
しまわなかった。
箱にも入れなかった。
ただ、机の上に置いた。
昨日のものとして。
今日、処理しないものとして。
今日は会わない約束だから、昨日の痛みも、今日のうちに片づけなくていい気がした。
机の上には、箱と、裏返しのコピーと、レシート。
少しずつ、未処理のものが増えている。
それはあまりよくない気もした。
でも、全部を今日片づけるほうが、もっとよくない気もした。
夜、風呂から出ると、スマホにメッセージが来ていた。
今日は何も渡してない。
ぼくは髪を拭きながら、画面を見た。
うん。
送る。
少しして、
でも、会わないことを置いた。
ぼくはその文を見た。
置いた。
持った、ではなく。
渡した、でもなく。
置いた。
どこに?
送る。
君からの返事は少し遅かった。
間。
ぼくはその一文字を見て、少しだけ息を止めた。
間。
ポケットティッシュを置いたベンチの真ん中。
ショーウィンドウに映った薄い二人。
ワルツのそろえそこねた一拍。
昨日のカフェで見てしまった普通。
その全部の間。
今日は、そこに会わないことが置かれている。
寝る前に、もう一度君からメッセージが来た。
明日は?
ぼくはすぐには返さなかった。
明日会うのか。
会わないのか。
まだ決めたくなかった。
でも、返事をしないまま眠るのも違う気がした。
明日、決める。
送る。
既読はすぐについた。
そういう正しさ。
ぼくは画面を見て、少しだけ笑った。
すぐに次のメッセージが来る。
今日は要る。
ぼくは返事をしなかった。
そのかわり、スマホを伏せた。
電気を消す前に、机の上を見た。
箱は半分だけ開いている。
コピーは裏返しのまま。
レシートは表向きで、一名、と書かれている。
でも今日は、その一名の紙も、昨日ほど鋭くはなかった。
会わなかったからかもしれない。
会わないことを、ひとりだけの不在にしなかったからかもしれない。
君もどこかで、今日を会わない日として持っている。
たぶん。
そう思うと、少しだけ眠れそうだった。
布団に入る。
部屋は暗い。
スマホはもう震えない。
今日は君に会わなかった。
声も聞かなかった。
手も見なかった。
何かを受け取らなかった。
何かを渡さなかった。
それなのに、一日が空白ではなかった。
会わないことを、二人で間に置いたから。
たぶん。
外で車が通る音がした。
それが少しだけ、遠いメトロノームみたいに聞こえた。
休符も、数えなければ曲から落ちる。
ぼくは目を閉じた。
何も鳴らない一拍を、
今日はひとりではなく、
どこかで君も数えている気がした。
