見出し画像

第23回「人妻と駆け落ちしたカロランの息子」演奏:ディレイニー博士、ささやきのハープ オニール編

「ささやきのハープ オニール編」第23回です。

前回は、ハープ音楽の保存に尽力したバンティング、そして当時ハープ奏者たちに好まれていたイングランドの作曲家、チャールズ・ディブディンの作品についてお話しました。

今回は、オニールが記した「カロランの息子」についての記録をご紹介します。


オニールによると、カロランが亡くなったとき、彼には一人の息子と三人の娘がいました(*ウォーカーは、息子一人と娘六人と記しています)。

ラウス州に、著名な首席司祭ディレイニー博士という人物が住んでおり、カロランを深く敬愛していました。博士は、カロランの息子を支援し、父の音楽を復興・保存するために寄付金を募ります。

しかしオニールは、息子についてかなり辛辣です。
「演奏はまずまずだが作曲の才はない」と。

それでも寄付は集まり、最終的には約1,600ポンドという莫大な金額に達しました。

ところが――息子はお人よしのディレイニー博士をだまして、その後、ロングフォード州バリーマホンで人妻と駆け落ちし、ロンドンへ渡り、横領した予約購読金を使い果たして世を去った、とオニールは記しています。

ウォーカーによれば、その際に父のハープも持ち出したといいます。


このディレイニー博士 Patrick Delany (c.1685-1768) は、神学者としても名高く、作家のジョナサン・スウィフト Jonathan Swift (1667-1745) とも親交のあった人物でした。

そして音楽学者シャーン・ドネリーは、1743年2月4日付の新聞 Pue's Occurences に、次のような広告を発見しています。
 
「王国各地の多くの淑女紳士が、故テレンス・カロラン氏の名高い音楽作品が時の経過によって失われ、あるいは改変されることを憂い、同氏の作品を正しく集成したものを望んでいる。ゆえに、その一人息子ジョン・カロランは、この公共の期待に応えるべく、作品集の編纂に着手することを提案し、その事業に対する支援を願うものである」
 
つまり、曲集出版の準備は1743年にはすでに始まっていたのです。
ここで重要なのは、息子の名が「ジョン」であること、そして彼が楽譜の読み書きができる人物だったことがわかる点です。

18世紀ウェールズでは、盲目のジョン・パリーやエドワード・ジョーンズといったハープ奏者が出版を行っていました。しかしアイルランドでは、ハープ奏者自身が楽譜を出版した例はありません。その意味で、ジョンの曲集は非常に貴重な資料なのです。


では、ジョンはいつ生まれたのでしょうか。
カロランは1720年にメアリ・マグワイアと結婚しています。
その後の誕生と考えるのが自然ですが、1729年10月10日付の、歴史家チャールズ・オコナーの日記にはこうあります。

「私はカロランの息子から『ブリジット・クルース』という曲を学んだ」

もしジョンが1720年生まれなら、このときまだ9歳。
さすがにそれは考えにくい。
少なくとも1729年には、他人にハープを教えられる年齢だったはずです。
仮に18歳前後とすれば、1711年頃の生まれと推定できます。


さて、1,600ポンドとはどれほどの金額だったのでしょう。
1730年代アイルランドの年間支出は、ひとり4〜5ポンドほど。
ダブリンの建築労働者の日給は1シリング(20シリングで1ポンド)でした。
仮に月20日働いても、1,600ポンドを得るには約134年かかる計算になります。
ちなみに、ヘンデルのメサイア、ダブリン初演の収益は400ポンドでした。
そう考えると、ジョンが集めた額がいかに桁違いだったかがわかります。


このジョン・カロランの曲集については、次回詳しくお話しします。
本日は、カロランが献呈した《ディレイニー博士》を、24弦の金属弦ハープ op.362 で演奏いたします。

 
 


いいなと思ったら応援しよう!