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【楽曲解説】アルバム「アイリッシュ・エアvol.1 金属弦ハープのささやき

2025年10月10日、寺本圭佑『アイリッシュ・エア vol.1 金属弦ハープのささやき』のリリースを開始します。

秋の夜長にしっとり聴いてもらいたい、ハープのエア集です。

Apple Music, Spotify, Amazon Music 等ストリーミングサービスにてお聞きください。サブスクをされていない方は iTunes 等からもダウンロードできます。

古よりアイルランドに伝わる素朴で美しい旋律を、27弦のメープル製金属弦アイリッシュ・ハープ「オールドシナモン(op.347)」1本で演奏したアルバムです。録音はマイク1本で行い、EQやコンプレッサーなどの音処理は一切せず、ハープ本来の響きをそのままお楽しみいただけます。

アイルランドの古いハープ音楽から伝統的なスローエア、シャンノース、ラブソング、日本でもよく知られている「夏の終わりのバラ(庭の千草)」「ダニー・ボーイ」「春の日の花と輝く」など全15曲を収録。

アイルランドのエアは静かに語りかけるような音楽で、決して押しつけがましいものではないのに、なぜか心が惹かれる魅力を持っています。

演奏・録音・編曲・楽器製作を一人で手がけ、ハープの豊かな音色を最大限に引き出した作品です。

収録曲

1. ハープのしらべ The Melody of the Harp, Ceolta Cruit
19世紀の民俗音楽収集家ピートリの手稿譜を作曲家スタンフォードが編纂した曲集  (1902-5) の第1066番に収録の単旋律。同じく、ピートリの1855年の曲集にも収録されており、コークの弁護士のピゴット John Edward Pigot (1822-1871) から得られたと記されている。ピゴットはゴールウェイの歴史家ハーディマン James Hardiman (1782-1855) が所有していた手稿譜から得た。ピートリは非常に古い旋律だとしており、この曲に付けられた歌詞がわからない点を悔やんでいる。

2. あの晩を覚えている? Do you remember that night?
18世紀のアイルランド南部、マンスター地方の美しい旋律。婚礼の後、親族を舟に乗せてシャノン川を渡っていた時に新郎が溺れ死んでしまったという悲しい歌。

歴史家 P. W. ジョイスがコークとリムリックの州境クールフリー Coolfree の農夫マイケル・ディニーン Michael Dinneen の歌から採譜し1872年に発表。ジョイスは歌詞を掲載していないが、ピートリの曲集 (1855) にユージーン・オカリーから得られたアイルランド語と英語の歌詞が掲載されている。だが、ここにはジョイスとは異なる旋律が収録されている。後に、オサリヴァンのSongs of the Irish (1960) で、オカリーの歌詞とジョイスの旋律が組み合わされたヴァージョンが掲載されている。

あの晩を覚えていますか
あなたが窓辺にいたあの時を
帽子も手袋もなく
上着も着ずに寒さをしのぐこともせず
私は手を差し伸べて
あなたは情熱的にその手を握ってくれた
そして私はあなたのそばにいた
ヒバリがさえずりはじめるその時まで

あの晩を覚えていますか
あなたと私が一緒にいた
ナナカマドの木の根元で
凍えるような夜に
あなたは私の胸に頭を預け
やさしく笛を吹いていた
あの夜、私は少しも思いませんでした
私たちの愛の絆がほどけてしまうなんて!

ああ、わが心の奥底から愛しいひとよ
いつか夜に、できるだけ早く来てください
家の者たちが皆寝静まったころに
ふたりきりで語り合えるように
この両腕であなたを抱きしめて
私は自分の物語を語りましょう
あなたの優しく、穏やかで、柔らかなことばが
私から神の国の景色さえ奪ってしまったのです!

炉の火はまだくすぶっていて
明かりは消えていません
鍵は戸の下に置いてあります
そっと引き抜いてください
母は眠っていて
私はすっかり目覚めています
運命は私の手の中にあり
私はあなたと一緒に行く覚悟ができています!

3. 優しい乙女~そっと去っていった白き乙女 The Gentle Maiden, Mo Ghradh Ban a'm Threigan, My Fair Love Leaving Me
1曲目はバンティング Edward Bunting (1773-1843) が1839年にダブリンの Miss Murphy から採譜し1840年の曲集で出版。Very ancient, author and date unknown と書かれている。アイルランド語の歌だったと思われるが歌詞は残されていない。手稿譜には "I am a long time here", "The Bare-Headed Poor Old Man" といったタイトルも散見される。Journal of the Irish Folk Song Society, Vol. X には "It is my deep sorrow",  "Owen Coir" というタイトルでヴァージョン違いが収録されている。
また、リムリックのフィドル奏者ロシュの曲集第3巻 (1927) にはThe Gentle Maiden, or Men of the West というタイトルでも記録されている。

2曲目はアイルランド南部マンスターの歴史家、民俗音楽収集家ジョイス Patrick Weston Joyce (1827-1914) の曲集 (1872) から。リムリックの Lewis O'Brien から採譜された。おそらく歌だったのだろうが、歌詞は残されておらず、アイルランド語と英語のタイトル Mo Ghradh Ban a'm Threigan, My Fair Love Leaving Me とSlow and with feeling という指示だけが書かれている。タイトルは「私を見捨て去っていった美しい恋人」と訳せるのだが、Ban は白いとも訳せます。この物悲しく美しい旋律が、今はいない白く美しい猫、シナモンの記憶と重なり、このような訳にした。

4. 愛しい人よ、わが腕のなかで眠れ~優しいローズ Love, Be near me, Caoin Róis
1曲目の「愛しい人よ、わが腕のなかで眠れ」Love, Be near me, A ghradh luighe lamh liom [A ghrá, luigh lámh liom] は、盲目のハープ奏者パトリック・クイン Patrick Quinn (c.1745-aft. 1810) のレパートリーでバンティングが採譜し、1809年に出版した。

2曲目の「優しいローズ」Caoin Róis, Gentle Rose はアルスターの盲目の詩人マカルタ Séamus Dall Mac Cuarta (c.1650-1733) の詩に、ハープ奏者リンデン Pádraig Mac Giolla Fhiondáin, Patrick Linden (1666-1733) が曲をつけたとされる実に美しいエア。彼らは共にカロランの親友だった。リンデンの母 Siubhán Mac Ardghail は詩人の家系に生まれたハープ奏者で作曲も行っていた。彼の息子も同姓同名のハープ奏者(P. クインの師)で、盲目のアーサー・オニールとも親交があった。彼は1792年のベルファスト・ハープ・フェスティヴァルにリンデンを誘ったが、彼は自分が見すぼらしい身なりであることを理由に断った。オニールは持参していた服を彼に与え、現地で落ち合う約束をして別れた。しかし、約束は破られてしまい、オニールは大変落胆したという。

ニアラハン Pádraigín Ní Uallacháin の A Hidden Ulster にこの曲の歌詞と解説が詳しく書かれている。この詩で歌われているローシュ・ニラリー(ローズ・オライリー)Róis Ní Raghailligh/Rose O’Reilly は市場で靴下を売っていた若い娘で、盲目のマカルタが市場に向かう途中川に落っこちて、びしょ濡れになり、笑いものとされたが、彼女はマカルタを憐れみ、家に連れて行き着替えを用意させたという。この優しいローズのためにマカルタは詩を書いたのである。

バンティングの助手イリアン・パイプス奏者ジェームズ・コーディー James Cody が単旋律で書きとったが、出版されなかった曲。

わが優しきローズは 九つの黄金の巻き髪を持ち、
やわらかに波打ち、草の上にしなやかに垂れている。
ひと房ひと房に 琥珀のような色つやがあり、
それらはつねにきらめき、撚り糸のようにくるくると巻いている。

彼女は 若者の心を打つ魅力を持っており、
太陽の下で最も美しい三つの宝石を身につけている。
彼女こそいちばんの美しさを持つひと、首は百合のように白く、
その胸にはまるく整ったふたつの乳房がある。

礼儀正しきローズよ、ラリー家の血をひくお方、
その美しさは たしかに顔立ちにあらわれており、
夜空に輝く星さえも 彼女のふたつの瞳の輝きにはかなわない。

処女の乳房、雪のように白い首すじ、
それらは アイルランド人もイングランド人も打ち負かすだろう。
だが、あなたは哀れな私に 憐れみをかけてくれるだろうか?
盲い、すり減り、深い苦しみに沈む私は、あなたのために死にゆくのです――。

5. ブラック・ファントム The Black Phantom
ピートリ/スタンフォードの曲集 (1902-5) の第579番に収録された美しい単旋律。From the Revd Father Walsh との但し書きがある。それ以外の情報がないのでタイトルの意味が分からないが、おそらく歌であったのだろう。ウォルシュ神父はケリー Iveragh の主任司祭でピートリの情報提供者の一人。

6. 澄みわたる空のひばり The lark in the clear air
アイルランドの詩人ファーガソン Samuel Ferguson (1810-1886) が古い民俗音楽に歌詞を付けたラブソング。ピートリ (1855) の Sligo Air が原曲。

やさしい想いが胸にあふれ
心はうっとりと空へ舞いあがる
澄みわたる空に
ヒバリの歌が響くたびに

あのひとのやわらかな微笑みが
わたしの希望に光をくれた
明日にはきっと伝えられるだろう
わたしのすべての想いを

すべての愛を伝えよう
心の底からのあこがれを
きっとあのひとは耳を傾け
拒まずにいてくれる気がする

そう思うだけで
わたしの魂は歓びに満たされる
澄みわたる空に
ヒバリの歌が響くたびに

7. 夏の終わりのバラ~若者の夢~ダニーボーイ The Last Rose of Summer, The Youngman's Dream, Danny Boy
1曲目はアイルランドの詩人トマス・ムーア Thomas Moore (1779-1852) がホールデンの曲集第1巻 (c.1805) の 「ブラーニーの木立 The Groves of Blarney」に歌詞を付けた作品。原資料には “ad lib.: Ullogaun” というパッセージが追記されている。これは嘆きの意味で、この曲がラメントだったことを示している。

日本に渡り「庭の千草」(1883 年、原題は菊)として知られるようになった。The Groves of Blarney の元になった曲は、老ハープ奏者ヘンプソン Denis Hempson (1695-1807) が継承していた The Youngman's dream とされ、他方は Derry Air や Danny Boy  に枝分かれしていった。

2曲目は112歳まで生きた盲目のハープ奏者ヘンプソン  Denis Hempson, O’Hampsey (1695-1807) からバンティングが採譜し1796年に出版した作品。私自身、長年弾いているレパートリーで即興的に演奏しているため、ほとんど原型をとどめていない。この曲からデリー・エア、ダニーボーイ、ブラーニーの木立、夏の終わりのバラといった曲が派生していった。

ダニー・ボーイの原曲である「(ロンドン)デリーの歌」は元々デリー州リマヴァディ Limavady のジェーン・ロス Miss Jane Ross (1810-1879)  が収集していたタイトル不明の楽曲だった。民俗音楽収集家 ピートリ George Petrie (1789-1866)  がロスから楽譜を受け取り、1855年に発表した。ロス(ロスの兄弟だったかもしれない)はリマヴァディの老人が演奏したフィドルからこの曲を学び、老人の父はあるハープ奏者からこの曲を学んだという。リマヴァディはヘンプソンが住んでいた町の近くなので、あるハープ奏者とはヘンプソンだった可能性も考えられる。ちなみに Londonderry という名前は英国が嫌がらせで付けたもので、現地の人は本来の呼称である Derry と呼ぶ。私も「ロンドンデリーの歌」の呼称を避けており、この曲を演奏するときは「ダニー・ボーイ」(1910年に英国の Frederic Weatherly が詩をつけた) の名称を使用する。

ああ、ダニー・ボーイ、バグパイプが呼んでいる
谷から谷へ、山の斜面を伝って
夏は過ぎ、バラはみな散りゆく
行かねばならぬのは君、私はここに残される

けれど戻っておいで、夏が野に満ちる頃に
あるいは谷が静まり、雪に包まれる冬の日に
陽の下でも影の中でも、私はここで待っている
ああ、ダニー・ボーイ、ダニー・ボーイ、君をこんなにも愛している

けれど、君が戻る頃には、花々がすべて枯れ
もし私がすでに死んでいたなら——それもありうる話
そのときは、私の眠る場所を訪れて
そっと跪き、“アヴェ”の祈りを捧げておくれ

君の足音がいかに静かでも、私はきっとそれを聴く
そして私の墓は、あたたかく、甘く包まれるだろう
君が身をかがめて「愛している」と囁いてくれたなら
私は安らかに眠ろう、再び君が来てくれるその日まで

この曲は讃美歌にもなっており、讃美歌第二編157番「この世のなみかぜさわぎ」229番「たのしき学びの園より(卒業式)」として収録されている。

8. 6ペンス The Sixpence
ホールデン Smollet Holden の曲集第 2 巻 (c.1805) に収録されたエア。詩人トマス・ムーア Thomas Moore (1779-1852) が “It is not the tear” という詩を付けた。

その涙は、今この瞬間に流されるものではない
冷たい土が彼を覆ったばかりの時に
その涙は、去りし友がどれほど愛されていたか
我らの胸にどれほど深く悼まれているかを語るものではない

それは、幾日も幾年も流される涙
彼の不在により影を落とす人生の中で
それは、軽き悲しみが消えた後にも
なお大切に抱かれる、ただひとつの想い出

その記憶は、聖なる灯火のように
我らの胸の奥で燃え続ける
そして死に至れば、我らの魂は結ばれよう
もはや悲しむことのないその心とともに

ホールデンは英国の軍楽作曲家で、フリーメーソンだった。彼の息子フランシスと娘たちも民謡収集家で、ホールデン家の人々は真の収集家だったのだが、手稿譜が現存しておらず、情報提供者やどこでこれらの音楽を得たのかという情報が不明である。アイルランドの画家、民俗音楽収集家のピートリ George Petrie (1789-1866) とも親交があった。

9. ジェミー、千の宝 Jemmy, My Thousand Treasures, Jimmy Mo Mhile Stor
マンスターの歴史家、民俗音楽収集家ジョイス Patrick Weston Joyce (1827-1914) の曲集 (1872) から。アイルランド南部で広く知られていた物悲しい歌。海を渡って去っていった恋人ジェミーを嘆く女性の歌。これはフランスに亡命したジェームズ2世の暗喩であり、ジャコバイトによって歌われたのだと思われる。

ジョイスはDrahareen-O-Machree. Little brother of my heart というタイトルで次のような歌詞の歌を掲載している。

乙女たちよ、どうかこの嘆きを憐れんで
私はまだ若い娘、最愛の人のために嘆き悲しんでいます
愛する人がそばにいないことが
あまりにもつらく、胸を痛めています
そして毎日、私は泣いています
「ジェミー、モ・ヴィーラ・ストール(わが千の宝、愛しい人)」のために

また次のような歌詞でも歌われていたとして一節を紹介している。

俺は田舎の遊びが大好きな若者さ
アイルランドの市や祭りには、いつも顔を出していた
バッカス(酒の神)の真の息子たち――
つまり陽気な酒飲みたちが、いつも俺の仲間だった
だけど今は、あの「ドラハリーン・オ・マ・クリー(愛しい人)」を
奪われてしまったんだ…

10. クロウタドリ The Blackbird
1803年にメーヨー州のハープ奏者ドミニク・オドネル Dominic O’Donnell から採譜、1840年にバンティングが出版。ジャコバイト(ジェームズ2世を支持するカトリック教徒)によって好んで歌われた作品。Blackbird(クロウタドリ)はボニー・チャーリー Charles Edward Stuart (1720-1788) のことを指している。「小僭王」とも呼ばれる彼はジェームズ2世の孫で、1745年にスコットランドで反乱を試み失敗した。バンティング手稿譜にはアーサー・オニールがオドネルを Good player と評していたことが記されている。オニールは辛口な人物で、ほとんどのハープ奏者を「まあまあの tol-lol」腕前と言っていた。

11. 丘のネッド Eamonn a' Chnuic, Ned of the hill
アイルランドの有名なバラッドで実に様々なヴァージョンが存在する。ロシュの曲集第3巻 (1927) 3番に収録のもの (タイトルの横に nós na Ronneと書かれているが意味は不明 )と、第1巻(1911) 3番に収録のヴァージョン(3rd setting と書かれている)を組み合わせている。カロランと同時代に生きた貴族で義賊(ラパリー)として英国軍と戦ったジャコバイトのエイモン・オリアン Éamonn Ó Riain (1670-1724) をテーマにした歌。エイモンは貧しい女性から牛を奪おうとした執行官を撃ち殺してしまったために、お尋ね者となった。1724年雨の夜、 親族の Tomás Bán Ó Dubhuir の元を訪れた。トマスは300ポンドの賞金欲しさに眠っているエイモンの首を斧で切り落とした。

「外にいるのは誰か、激情の声で、 しっかり閂をかけた私の戸を叩くのは?」
「私は丘のエドマンド。 山や谷を長く歩き回り、ずぶ濡れで、凍え切っているのだ。」
「わが最愛の人、わが宝よ、 私にできることは、 あなたをこの衣の裾で覆うことくらい。 黒い火薬が 私たちに雨のように撃ちかけられるでしょう、 けれども、私たちは共に死ぬのです!」

「私は長く外をさまよい、 雪や霜にさらされ、 誰にも近づくことができない。 私の畑は播かれず、 馬もつなぎ解かれ、 すっかり失われてしまった!
友は一人もいない(それを嘆くばかり) 早朝も夜も私を匿ってくれる者はなく、 だから私は海を越えて東へ行かねばならない、 そこには親族が一人もいないからだ!」

12. 栗色の髪の娘 Cailin na Gruaige Doinne, The Brown Haired Girl
デリー州出身のイリアン・パイプス奏者オカナン Tomás Ó Canainn (1930-2013) の曲集 (1995) に収録された美しい旋律。

スロイルの野に、あの娘を残してきた
その母親は間違いなく怒っていた
道なき放浪者のような男に
愛を捧げたことに腹を立てて。
金貨の山を持つでもなく
頼りのない男である私に
それでも彼女は人生の花を咲かせてくれた
彼女は疑いもなく、まだ幼い娘だった。
そして私は、なんと誇らしげに見えただろう、
あの栗色の髪の娘とともに。

私は皆に物語を語る
どれほど敗れ、弱り、愚かになったかを
ただ彼女の帰りを待ち、
夜ごと、日曜の朝ごとに想い続けていると。

わが心の中心が
激しく深い愛に奪われてしまった
それは、栗色の髪の娘への愛。

魚たちでさえ、彼女の声を聞いて水から跳ねる
彼女の美しさはあまりにまばゆくて
私の心は決して満たされることはないだろう、
あの栗色の髪の娘なしでは。

13. 書物の歌 Cuan Bhéil Inse, Amhrán na Leabhar
T. オカナンの曲集 (1995) から。Amhrán na Leabharは「本の歌」の意。イリアン・パイプスでゆっくりと演奏される曲。ケリー州の詩人、音楽家 Tomás Rua Ó Súilleabháin (1785-1848) の作品。オスーラボーンが学校教師だった時に、別の専任教師が任命されたため、別の学校に移ることになった。膨大な量の本を所有していた彼は、本だけをボートで送り、自身は陸路を使った。本を載せたボートが座礁して失われてしまったという内容。

14. ダーモットの猫 Cat Dhiarmaid na Bearnan, Dermot of Barna's Cat
第6音を用いない6音音階で作られている。Journal of the Irish Folk Song Society, vol.xx (1923), p.13に収録されているアイルランド語の歌(単旋律)。1902年のオイラハタスでアイルランド語の歌(言葉のみ)の収集で優勝したシャン・オクイル Seán Ó Cuill (1882-1958) から得られた。

コーク州バリーヴァーニー Ballyvourney の仕立て屋、 ジアマド・オクルーロイヒ (ダーモット・クローリー)  Diarmaid O Cruadhlaoich (Crowley) の作曲。彼の2人の息子 Tadhg, Padraig も詩人だったという。

ダーモットが盗まれた猫取り戻すためにアイルランド南西部、全行程336kmにも及ぶ大冒険をする。無事に猫は見つかり、領主からバーナの土地ももらえたというお話。地元の地名や実在の人物の名前がたくさん現れる。

疲れ果て、弱り果て、心乱れ、惨めな私、
しばらく前から気力も尽きていた。
というのも、「バーナのダーモットの嘆き」を聞いて以来、
彼の物語を語らねばならぬのが、何とも辛いのだ。

わが英雄がウッドン・ブリッジに来たとき、
彼はいつものように居酒屋へ寄った。
クォート(約1.1リットル)を注文し、みなに一杯ずつ振る舞い、
酒神バッカスに劣らぬ陽気な飲ん兵衛だった。

気前がよくて陽気な人物だったと、地元の噂でも聞く。
しばらくそこに滞在していたが、
そこへ、ふてぶてしい悪党か、通りの掃き掃除人かが現れ、
彼(ダーモット)の袋を塀の向こうへ投げ捨てた。

袋の中には色々入っていて、すべてを語る気はないが、
中でも一匹の白い顔の美しい猫がいたという。
その猫は、干し草小屋にいるネズミも、建物の中のネズミも
決して見逃さぬ名ハンターだった。

こんな猫を失ったのは、この地方全体にとって大きな損失だった。

彼が私のもとに嘆きに来たとき、私はその勇敢な男に言った――
「必ず取り戻さねばならぬ」と。
すぐさま兄弟のスティーブンを呼び、
彼はすぐさま飛び出していった。

バンドンとバリニーンの間を駆け抜け、
キンセールの良港へ走り、さらにマラへ引き返し、
オーリグの森では苦しみもがき、
カバの浅瀬では溺れかけたほどだった。

イヴラリーの山々と暗い丘を探し回り、
西の果て、キーマネーまで至った。
その両脇にはドゥーヒルとシーヒーの山、
ケアルキルではエールを一杯飲み干した。

その後、ブリーニーズの地を丹念に探し、
ミーラ川を越えてさらに西へ向かい、
あらゆる茂みと洞窟、そしてクノク・ナ・レイムを巡り、
グレンガリフでは夕食をとった。

そのままキャッスルタウンベアへ向かい、
カメトリンゲーンに至るまで止まらなかった。
エスク・ナ・ケールハンを抜け、
ボナーン経由でケンメアへ。

キルガーヴァンとキルファッデモアを訪ね、
エスク・アン・チャパルにある隠れ家も見逃さず、
キャップ・アン・リャワーンやクロハンの森を抜け、
朝にはデリー・ボナーンに姿を見せた。

だが、今のところ何の手がかりも見つからず、
彼はエスク・カイルを渡り、
ロッホ・ナ・ヴレーンやロッホ・クム・アン・デーシェ、
そしてクム・ナ・ガパルの両側を探した。

ロッホ・レインやムリェン・レーシにも至り、
司教の館もくまなく調べた。
すると、アギー・イーガーという予言者が彼に同情し、
猫は家の方向、彼の後ろにいると告げたのだった。

彼は跳ねるようにミニッシュを駆け抜け、
グレンフレスクも見逃さなかった。
川を越えてフォイラダウン、
帰り道にはインチにも立ち寄った。

もちろんクライダ川やラクロアの丘も渡り、
ア・フォル・アン・ガウア川を越えた。
そして日曜の朝、ビリー・チャウントの家で――
ベッドの下から、みゃーという猫の鳴き声が聞こえてきたのだった。

彼はすぐさま巡査のもとへ駆けつけ、
ビリー・チャウントはあっけなく逮捕された。
ドクター・ボールドウィンの前へ連行され、
すぐに国外追放の令状が出された。

アードラムを通っていく途中、彼はサー・ジョージに出会い、
「門の屋敷」の紳士に挨拶した。
するとサー・ジョージは、バーナの農場の完全所有権を与えたのだった――
ビリー・チャウントを妻子のもとに帰すことを条件として。

15. 春の日の花と輝く Believe me, if all those endearing young charms
トマス・ムーアが古い伝統音楽 「我が宿は冷たい地面の上 My Lodging is on the Cold Ground」 に新しく歌詞をつけた。わが国では堀内敬三の訳による「春の日の花と輝く」というタイトルでよく知られている。

小泉八雲 Lafcadio Hearn (1850-1904) の『怪談』(1904) 中のエッセイ「ひまわり」で、幼少期に放浪の下品なハープ弾きによるこの曲の演奏を聴いて心をかき乱されるエピソードが紹介されている。

この曲はハーバード大学の校歌 Fair Harvard や讃美歌467番「おもえば昔イエスきみ」などでもよく知られている。

元々の「我が宿は冷たい地面の上」は17世紀イングランドの詩人ダヴェナント William Davenant (1606-1668) によるもので、マシュー・ロックMatthew Locke (1621-1677) が音楽をつけた。その旋律は現在知られている「春の日の」とは全く異なる。おそらく18世紀のスコットランドで旋律が入れ替わったものと思われる。


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