【小説】ドギャギャ・ガール
笑い声のすごい女の子がいる。それがこの物語の全てだ。
「ドギャギャギャギャギャ」と彼女は笑う。
教室南側の窓から差し込むやわらかい陽光が、彼女の髪に反射し繊細な光の波となる。吹き込んだ風がカーテンを舞い上がらせ、光の波を遮る。彼女は、肩まで伸びた髪が広がるのをさりげなく手で押さえ、はにかんだような顔を見せていた。
笑い方は不思議だけど、いい笑顔なんだよな、と横目で彼女を眺めながら思う。
彼女は、中学生かなと思うくらいの、少し低めの身長だ。しかし真面目な表情をしている時はどこか愁いを帯びているというか、その茶色がかった瞳の底が知れないというか、何となく大人びた雰囲気を持っている。そんな風に思えた。その真顔と笑顔のギャップが、僕を不思議な気持ちにさせる。
進級でのクラス替えを経て、彼女と同じクラスになったのはつい先日のことだし、僕はただ彼女の雰囲気に惹かれつつ笑い声が気になっているだけで、その内面のことなどまだ何も知らない。
不思議なのは、このクラスの誰一人として彼女の笑い方を気にする様子がないことだった。いや、もちろん僕だって気にしている様子など見せない。笑い方などというのは人それぞれなのだ。
体格や顔つき、性格や生まれ育った場所、今いるクラス、好きになる人、そして運命。
僕らは自分自身のことさえ、何一つとして完璧にコントロールなんてできない。もちろんコントロールしようとすることはできるけれど、上手くいかないことのほうが多いのが実際だ。
それは笑い方だって一緒で、だから彼女が笑うその声について、いちいち気にしたり顔をしかめたりする人がいないこの教室の空気は、ささいなことに見えて本当はとても素晴ら「ドギャギャギャギャギャギャギャ!」ってまた笑ってるじゃんかよ何なんだよもー。いったい何の話をしてるんだってちょっと聞き耳を立ててみると、しょうもない、背後にこっそりきゅうりを置かれた猫が振り向きざまにびっくりしてカメラの視界から消えるほどのジャンプをした、という動画を見せられていたらしい。おそらく猫は、きゅうりを本能的に蛇か何かと勘違いしたのだろう。彼女は、パン、パンと手を叩いて笑っている。もう一度再生してドギャギャギャギャギャ! その動画は僕も見たことがあるけれど、そんなに面白いか? 猫がかわいそうだからやめろよなそういう悪戯。っていうか彼女の周りで一緒に笑ってるお前ら、なんでそんな平然と朗らかにニコニコしてんだよドギャギャギャだぞ? なんで誰もツッコまないの? ドギャギャギャって笑う奴なんて他にいる? 漫画の中で車がかっこよくドリフトする効果音以外で見たことある?
ドギャギャ、とまた彼女は笑う。今度は自分で言った他愛もない冗談が面白くなってしまったらしい。その笑顔と声がどうしても噛み合わない。というよりこの笑い声と噛み合う人間など存在するのだろうか。真顔と笑顔のギャップ? 我ながら寝ぼけたことを言ったものだ。そんなもの、彼女の笑顔と笑い声のギャップに比べれば誤差の範囲内でしかない。
あまりに頻繁な僕の視線に彼女も気づいているらしく、時折目が合ってしまう。偶然を装ってさりげなく、しかし慌てて目を逸らす。
彼女の名前は、春野穂花という。本当に、春の花と例えるのがふさわしいほどの素敵な表情を見せるのだ。ドギャギャ。そうして彼女がかわいらしく笑うたび、僕の心は千々に乱れる。
*
その悶々とした日々は、しかし長くは続かなかった。ほどなくして僕は、彼女と初めて言葉を交わす機会を得る。それはある日の放課後のことだった。
*
チャイムが鳴り、授業が終わる。教室の空気がたちまち変わる。閉ざされた箱の中で止まっていた時間がようやく動き出したような解放感。クラスメイトたちが吐き出す吐息と会話をすり抜け、僕は教室を出る。生徒たちの間を縫って廊下を進んでゆく僕の視界に、唐突に割り込んでくる人影があった。
「うわっ」僕は思わず声を上げる。
「えーと、いきなりごめん。どうしても気になっちゃって。ごめんね」
春野穂花が、目の前に立ちはだかっている。僕はこっそり、彼女をドギャギャ・ガールと名付けていた。突然の出現にうろたえるけれど、もちろん顔には出さない。どうしても気になるって何が? まさかとうとう、僕の視線に耐えかねたのか。
「気になることって、何?」僕は、とぼけながら尋ねた。
「猫神くんてさ、やっぱり猫と会話できたりするの?」
彼女の問いは、予想の斜め上空を軽やかに飛翔していった。
僕の名前は猫神零二だ。確かに珍しい苗字だとは思うけれど、猫と会話したことなど一度もない。ひょっとして誰かの他愛もない冗談を真に受けたのか。それともこれが冗談で、彼女は僕をからかっているのか。
「いや、無理だけど?」と僕は平静を装いつつ、首を傾げてみせた。「苗字が猫神だからって、猫の神様ってわけじゃないんだよね」
困ったように苦笑してみせると、彼女は口を開きかけ、黙る。用意していた言葉がどれも使えないとでも言いたげだ。その表情は、明らかに僕よりも困惑していた。
「え、何その反応……」と彼女は言う。「じゃあなんで猫の顔なの?」
へ? 何それどういう意味?
*
彼女は僕の顔を「白い毛並みの、両目の周りだけ黒い猫」だと主張した。全く意味が分からない。その上、自分の笑い声は正常だと言い張っている。
「何ドギャギャって。どうやったらそんな風に聞こえるの? 私、猿でも大きい鳥でもないんだけど! 猫の神様みたいな顔して、ふざけてるの?」
声を荒らげる春野に、僕も攻撃的に応じざるを得ない。
「苗字や見た目で人をからかうなんて、失礼だな。僕の顔が猫? いつもドギャギャ、ドギャギャ笑ってる春野さんこそふざけてるでしょ。こっちは毎日気になって仕方なかったのに」
「猫神くん、声の聞こえ方も普通の人と違うの? 脳の問題かな」
「まず自分を疑ったほうがいいよ。そうやって何でもかんでも他人を疑うのって、良くないと思う」
「ドギャギャ、賛成。だから猫神くん、まず自分を疑って」
「あっほら今! 今ドギャギャって言った!」
「言ってないったら! 猫の脳ってどうなってるの?」
「春野さんの脳こそどうなってるの? 狂ってるんじゃないの?」
「猫のコスプレで通学してる狂人のくせに、人のこと狂ってるとか言うわけ?」
泥仕合、完膚なきまでの泥仕合だった。放課後の屋上は、よく晴れた空を大きく広げていた。ここには僕ら以外に誰も来ないことを祈っていたけれど、向こうの隅に生徒が二人いるのが既に見えている。それでも僕らは言い合いを続けている。
*
十分ほど前に遡る。
生徒たちが行き交う廊下で彼女は、「顔が猫で苗字が猫神なんだから、猫の神様かもって思わないほうが変でしょ」などと言い出した。春野穂花、思ったよりもヤバい奴か。だから僕は「詳しい話を聞かせてほしい」と彼女を連れて屋上へ向かった。
彼女は僕の着るグレーのブレザーはちゃんと認識しているし、傷だらけの黒いG-SHOCKも認識している。なのに僕の頭だけが、「耳をすませば」に出てくるバロンのように猫の頭部だと言って譲らない。目の周りだけが黒いというのは、僕がかけている黒縁眼鏡をバカにしているのだろうか。
戸惑いと苛立ちの中で僕は、何とか落ち着いた口調を保とうとしていた。
「からかうのはやめてくれないかな。僕がときどき春野さんを見てたことに腹を立ててるなら謝るよ。もう見ないようにするから」
「そんなことはどうでもいいの。猫神くん、本当にそれが人間の顔だと思ってるの?」
体内を巡る血液が一気に頭へと集まってくるようだった。これが人間の顔だ、悪いか。どんな顔で生まれてくるかなんて誰にも選べない。生まれ持った特徴を挙げて貶めるなんて幼稚だ。さもなければ邪悪だ。
「へえ。じゃあドギャギャギャっていうのは、人間の笑い声なの?」
なのに僕もつい言ってしまう。これでは同罪だ。笑い方だって自分で選べるものじゃないのに。
しかし彼女は唖然としたような、それでいて怪訝そうな顔で僕を見ていた。
「今なんて言ったの? ドギャギャ? 何それ」
謝らなきゃと思っていたけれど、この場合、謝る必要はあるのか。
「え、もしかして自覚ないの? 春野さんの笑い方だよ、ドギャギャギャギャって」
*
そして今に至る。
「猫の顔だなんて言われたこと、これまで一回もないんだけど」
「私だって、笑い方がおかしいなんて言われたことないんだから!」
「それは、誰も言わなかっただけでしょ。声とか笑い方とか、そういうのをからかうのは未熟な奴のすることだし」
「じゃあ今あんたが私に言ってることは何なの!」
彼女は唐突に掴みかかってきた。僕の頭や鼻、頬に無遠慮に触れ、しかもかなり乱暴につねってくる。
「ほら、こんなちゃんとした毛並み。うわ、ヒゲまでちゃんと! どうなってんのよこれ、完全にリアルなネコチャンじゃん! ドギャギャ、すごい。どうやって外すのこれ」
「ちょっ、待っ、いきなり何を」僕は咄嗟に後ずさり、無遠慮な彼女の腕を振り払った。「春野さん、ホントに大丈夫? カウンセリングとか受けたほうがよくない?」
屋上の対角に佇む二人が、僕らの剣幕に驚いたようにこちらを見ているのが視界の隅に映った。
そして僕は気付いた。この泥仕合を終わらせる方法が一つある。
「何よ、もうちょっとだったのに」
春野は恨みがましく言うけれど、何がもうちょっとなのか。彼女は背後を振り返り、向こうにいる彼らを一瞥する。再び僕に視線を戻して言った。
「そこまで言うなら、あそこにいる二人に訊いてみる?」
望むところだ。
「僕も同じことを考えてたよ」
ここに至って、僕と春野の意見は初めて一致を見た。一際強い風が、僕らの間を吹き抜けてゆく。彼女の目には明らかな敵意があった。僕だって同じだ。
*
導かれた結論に、驚くべき点はなかった。僕は人間。彼女はドギャギャ・ガール。
「猫の顔とか、笑い声がおかしいとか……何言ってるの?」
短髪の女子生徒が、困惑したように首筋を搔いている。胸元の名札には、西とある。
「で? 君らはお互い、相手が猫の顔に見えるとか、ドギャギャって笑い声は変だとか、そんな言い争いをしてたってわけかい? 二人とも、よく分からないね」
長身の男子生徒――名札には東と書かれている――も、呆れたような顔をして僕らを見下ろしている。
いや、驚くべき点は本当にないのか。
「ちょっと待って」違和感を覚えて、僕は問う。「二人にとって、普通の笑い声ってどんな感じですか」
当然でしょ、とでも言いたげな顔で西は答える。
「アハハとか、ワハハとか」
異論はない。
「つまりドギャギャって普通じゃないですよね」
僕は畳みかけるように言う。しかし西は怪訝そうな表情を浮かべた。東が眉を顰めて問いかけてくる。
「というか君は、なんでそんな細かいところにこだわっているんだ? ハハハでもアハハでもドギャギャでもワハハでも、大差ないじゃないか。彼女の笑い方の、何がそんなにおかしいんだい」
ええ? 僕は言葉を失う。こんな冗談があるだろうか。彼らは理解に苦しむという顔で、不思議そうに僕を見ていた。
思わず、春野の方へ顔を向ける。彼女は、青い顔をしていた。
「ねえ、私、ホントにドギャギャって笑ってるの……? ホントに……?」
僕は無言で、何度も細かく頷いた。
西と東は、僕らを不可解なものを見る表情で見ている。
彼らは春野の笑い声は自然だと言っている。ひょっとするとクラスの皆も同じで、だから誰も何も言わなかったのか。
しかし当の春野自身は、ドギャギャという笑い声は普通じゃないと感じ、なのに自らがそんなふうに笑っているとは認めていない。
僕らの間で、何かが決定的にずれている。しかし何をどうずらしたら、こんなことになるんだ?
にわかに恐ろしくなってくる。僕は春野だけがおかしな奴なのだと思っていた。しかし本当に『おかしな奴』は誰なのか?
「彼らは、南でも北でもなかったね。少し期待したんだけどな」
「別の場所を探したほうがいいかも」
東と西は、僕らにはよく分からないことを言い合っていた。きっと僕らとは関係のない世界の話だ。興味もない。
その日を境に、春野は声を上げて笑うことをしなくなった。
*
数日後、僕は早川に「春野さんてさ、なんか最近静かじゃないか? よくドギャギャって笑ってたのに」と小声で訊いてみる。
早川は「そうか?」と不思議そうな顔をした。春野の笑い声のことなど気にしたこともないという様子だ。
彼女のことをもう見ない、と約束したはずなのに、気づけば盗み見ている。しかし目が合うことはもうなかった。
あのドギャギャギャギャという声がもう響かない。良いことだ。彼女が黙っている限り、僕の心が乱されることはないのだから。
なのに何故か気になってしまう。友人たちの輪の中で、彼女は談笑に耳を傾け笑みを浮かべている。今度は何やらシャワーを好む猫の動画を皆で見ているようだった。僕も見たことがある。猫というのは総じて水に濡れるのを嫌うものなのに、驚いたことにシャワーやお風呂を好む猫というのも実際に存在するのだ。
春野は静かに微笑んでいる。手を叩いて笑ったりはしない。教室の窓から吹き込んだ風がいつものように髪をなびかせ、無数の細い光の筋を描いている。
何だよ、と僕は思う。
何なんだよ。
楽しいなら遠慮なく、いつもみたいに声を上げて笑えばいいじゃないか。
*
父と母と兄は新興宗教にのめり込み、僕だけを残して消えた。彼らの思想は絶対に間違っていた。なのにそれでも、考えてしまう。
ひょっとしたら、彼らのほうが正しかったのかもしれない。
この世界は小説の中に綴られた文字列である。
人間はすべからく、それぞれを主人公として綴られた無数の小説の中の一冊なのだと彼らは信じていた。人々は皆、この世界の外側からそれらを読む『神々』の頭の中で再現された存在に過ぎないのだと。
それが『聖説会』の教えだった。
宗教には聖典や経典と呼ばれるものが付き物だけれど、聖説会の聖典は、誰にも読むことはできない。彼らの聖典は、この現実の外側に存在するからだ。聖説会の信者は、本来ただの小説に過ぎない自らの人生を、聖典の中へ組み込むことを至上目的とする。滑稽なことに、彼らはそれを『受賞』と呼んでいた。自分という小説が『受賞作』となれば『神々』から特別視され、何度でも繰り返し読んでもらえる――つまり無限の生を得られる、という教えらしい。
受賞しなかった者は死後『書棚』へと戻され、再び『神々』の誰かが手に取るのを待つのだという。
穴だらけの教えだと笑いたいけれど、笑えない。だって僕の家族は、それを本気で信じてしまったのだから。そして、そんな陳腐な思想を実現しようとした。
結果、何が起こったか。
今でも、思い出すだけで泣きたくなる。
とにかく。
どんな思考回路を持っていれば、あんなふうに馬鹿げた世界観を受け入れられるのか、これまではさっぱり理解できなかった。
なのに今は分かる気がしてしまう。
ドギャギャギャと笑う春野も、それが自然だと言う周りの皆も、春野からは猫の顔に見えるという僕自身も、全ては文字列に過ぎず、別々に書かれた物語として別々の誰かから読まれているのだとしたら。
そう考えれば、この不可解な状況も理解できるような気がするのだ。それぞれが異なる小説である以上、ジャンルも設定も見える世界も違って当然なのだから。
こんな考え方は、僕らの身に起きていることを実際は何一つとして説明しない。それでも、説明らしき何かにはなる。だから納得できる気がするのだろう。それがどれだけ荒唐無稽な話だろうと。
*
彼女が笑わなくなって、既に数日経過している。
僕はいったいどうすればいいのかが分からない。
「あのさ、春野さん」
放課後。教室を出た彼女を追って、声をかける。
春野は一瞬立ち止まり、しかし僕だと分かったのか、すぐに歩き出した。
「その……、この前のことは謝るよ。ごめん、笑い方のこと、悪く言ったりして……」
今さら、こんな謝罪に意味はない。それでも謝るべきだと思った。僕のせいで春野が笑うのをやめた。その罪悪感に耐えられなかったのだ。彼女が屈託なくドギャギャギャと笑い、僕は教室の隅で眉を顰めながらそれを聞く。そのほうが、今よりもずっとマシな気分だった。
さらに謝罪を連ねようとしていた僕に、前を向いたままの春野が言う。
「私はもう笑いたくないの。だからあんたも、これ以上私に関わるのをやめて。猫をかぶるのは見た目だけにしてよ」
ゾッとするほど冷たい声。それは、僕を許すつもりはないという宣言に思えた。
しかし。猫をかぶるのは見た目だけにしてよ、だと?
上手いことでも言ったつもりかもしれないけれど、こんなにも悪意に満ちた言葉があるだろうか。彼女は僕の内面と容姿を同時に貶めたのだ。謝罪した僕が、何故こんなことを言われなければならないのだろう。
しかし今は気にするべきじゃない。何かないだろうか、彼女の心を癒す方法は。再び彼女が、遠慮なく笑えるようになる方法は――。
「最初に話しかけてきたのは春野さんでしょ。僕の顔が猫だなんて言わなければ、こんなことにはならなかったじゃないか。なのに何だよ、僕が悪いの? 僕は謝ってるのに」
あれ? 違う。こんなことが言いたいんじゃない。僕はただ、罪悪感を拭いさる方法が欲しいだけなのだ。そのためにはきちんと謝らなければならない。なのに、
「春野さんが自分の笑い声を受け入れられないのも僕のせいなの? 自分のことを勝手に嫌がって、笑わないって決めて、それも人のせいにするのかよ。勘弁してほしいな」
自分の口から放たれる言葉を、止めることができなかった。
春野は立ち止まって、振り向きかける。目の端がわずかに光っているように見えた瞬間、彼女は咄嗟に目を伏せる。周囲から音が消えた気がした。
「化けの皮が剥がれたね。猫神くん」
彼女は抑えた声で言って、再び歩き出す。
周囲に喧噪が戻る。僕は動けない。廊下の隅に突っ立っているだけだ。
*
楽しいから笑うのか、笑うから楽しいのか。
それは二者択一ではなく、どちらも正解だというのは今や常識だ。穏やかに微笑むだけとなった春野は、やがて孤立していった。彼女が自ら友人たちから距離を取ったのか、友人たちのほうが彼女から離れたのか、僕には分からない。
僕と春野の間に断絶が生まれてから、既に一ヶ月が過ぎていた。
休憩時間。彼女は誰と口を利くわけでもなく、静かに読書に耽っている。
日差しは初夏の色合いを帯び、窓の外でゆっくりと風に揺られる桜の枝々は、緑に覆われ始めている。
クラスメイトたちはこれまで通り普通に会話しているし、騒いでいるし、笑っている。なのにドギャギャギャという笑いが聞こえないだけで、こうも静かに感じるものだろうか。僕はまだ、その静けさに慣れることができずにいる。
どうすればいいのか、分からないままだ。
この一ヶ月間僕はずっと、何か劇的な出来事が起きるのではないかと期待していた。例えば僕の顔が猫に見えると言い出す奴が他にも現れるとか、南や北と名乗る人物たちが現れておかしなことを言うとか、僕らの認識にもっと大きな異変が起きるとか、何でも良かった。とにかく、僕と春野の言い争いを有耶無耶にしてくれるような、結果として春野の心を癒してしまうような、そんな都合のいい出来事を期待していた。
でも現実はどうだ。何も起こりはしない。春野は友人たちの輪を離れ、僕は何事もなかったかのように授業を受けている。春野がドギャギャギャと笑うことも、彼女には僕の顔が猫に見えることも、もはや何の影響も及ぼさない。わけの分からない世界は、当たり前の現実に戻ってしまった。
兄が得意げに語った聖説会の教えが、何度も脳裏に浮かんでいた。
「俺たちは、人とは違う人生を歩まなくちゃならないんだ」
『受賞』するにはインパクトが大事なのだと、聖説会は説く。読者たる『神々』には、驚きと感動こそが必要なのだと。
それは、波風を避けた平穏な生活や、凡人と称される人間を否定するかのような、あまりに陳腐な思想だと僕は思う。僕らの人生は文学賞じゃない。受賞も落選もあってたまるか。彼らの教義は一人一人の人生に対する冒涜でしかない。だから僕は兄に反対し、父に反抗し、母に反発した。
そして皆、僕を置いていなくなった。残された僕は、何かが起きるのをただ待っていた。
「零二。待っているだけじゃ、物語は動いてくれないんだよ」
記憶の中の兄は、ありきたりなことを言って、したり顔で笑う。
認めるしかないようだ。彼らの言うことにも一理くらいはあるのだと。
そんなことばかり考えるうちに、きっと僕は何かを見失っていた。
僕は、自らなることに決める。
春野が僕に言った、『猫のコスプレで通学してる狂人』に。
*
Amazonで買った白い猫の顔のラバーマスク。僕は眼鏡の上からそれを被って登校する。
化けの皮が剥がれたというのなら、再び猫をかぶればいい。
理屈も何もなく、そんな思いだけがあった。こんなふうに何かを履き違えた真似をして、いったい何が起きると期待したのだろうか。
何も起きなかった。
誰一人として、僕のこの奇妙な出で立ちを指摘しなかった。
通学中はおろか、正門を抜け、下駄箱から上履きを出し、廊下を歩いて教室に至るまで、何人もの生徒とすれ違った。なのに全てがいつも通り。怪訝な顔を向ける者すらいない。鏡に映るのはどう見ても、猫のコスプレで通学してきた狂人なのに。
教室に入ってくる春野の姿を目で追う。彼女はいつも通り、こちらを見向きもせずに自分の席へと向かっていった。
虚しい。
昼休み。空いた隣の机へ、弁当を手にやってきた早川に問う。
「僕を見て、何か気づくことない?」
彼は一瞬不思議そうな顔をし、そして笑いだす。
「いきなりどうした? 前髪かどっか切ったのか? もしかして眼鏡変えた?」
やっぱりなのか。予想していたけれど、彼らにはこの猫のマスクが、僕の顔にしか見えないのだ。眼鏡までちゃんと見えているらしい。だとしたら、『僕の顔』とは何なのか。
「分からないならいいんだ」
僕にも何が何だか分からないし、もういい。このままではお昼ごはんが食べられないからラバーマスクを外す。朝からずっと被っていたせいで、中が蒸れて気持ち悪い。
その途端。
「おわっ!」
早川が悲鳴を上げて、腰かけたばかりの席からひっくり返った。クラスメイトたちが何事かとこちらに視線を向け、騒然とする。あちこちから混乱や驚きの声が上がる。
「何だよ猫神、どうやったんだ? その顔、CGとか、VRとかか?」
床から身を起こしながら、早川が問うてきた。
「どうなってるって……」
僕は思わず自分の頬に触れ、愕然とする。
「なんだこれ」
指先と手のひらに伝わる滑らかな毛並み。突き出した鼻の周りにツンツンと生えたヒゲ。後頭部にまで手のひらを滑らせてゆくも、側頭部に耳がない。頭までなぞってゆくとあった。薄くとんがった耳。その中にもたくさん毛が生えていた。眼鏡は消えてしまっている。
僕は黙って、しばらく自分の顔に触れ続け、そして絶叫した。
「なんだこれ!」
これではまるで僕が――。
クラスの皆が僕を見ている。笑う者、困惑する者、どちらとも決めかねている者。そこかしこから「猫神」という僕の名ではなく、「猫」という単語が聞こえてくる。こちらに向けてかざされるいくつものスマホ。
「猫神って……猫の神様だったのか……?」
「違う!」
即答するも、触れば触るほど猫の顔としか思えない。毛並みのすぐ下に皮膚と骨がある。筋肉もあるし神経が通っている。ヒゲから伝わる空気の流れ。猫の顔としての感触が、実感が、余りにリアルだ。こんなリアルがあってたまるか。思わず辺りに視線を投げる。
すると春野だけが、僕ではなく周囲を見回していることに気づく。皆が口々に僕を指しスマホを向け、猫の顔だと言っていることに驚いているようだった。そして彼女と目が合う。
自らの顔を撫で回しながらうろたえる僕を見て、彼女は何故か悲しむような、憐れむような顔を見せた。は? 何だよその表情。僕は怒りを覚える。何故そんな顔をするんだ、これが、春野が見ていた世界なんだろ。
「まあその……。バレちゃあしょうがない。実は僕、猫の神様なのさ」
顔を上げて胸を反らして、わざとらしく言った。今僕は猫を脱いだのか、猫をかぶったのか。知らない。開き直るしかない。
早川が間髪入れず言い返す。
「猫の神様? 嘘つけ! 誰が信じるかよそんなの!」
その返答に仰天し、僕は言い返す。
「はあ? 早川がそう言ったんだろ!」
「いいからさっさと種明かししろよ」
「いや、僕だってどうなってるのか分からないんだよ……。頼む早川、何とかして」
「何だそりゃ? 俺に頼むのかよ」
「さっき、CGとかVRとか言ったよね。詳しいんでしょ、そういうの」
「知らねえよ!」
僕らの不毛な押し問答に、クラスメイトたちが徐々に笑い始める。そりゃあそうだ。こんな状況、笑う以外に何ができるのだろうか。
そして聞こえた。
「ドギャギャ」
思わず春野を見る。笑っている。聞いたかみんな、ドギャギャ・ガールだ。ドギャギャ・ガールが復活した!
しかし誰も彼女のほうを見向きもしない。奇妙な漫才を続ける僕と早川だけを見ている。
皆にとっては、未だにドギャギャはありふれた笑い方らしい。不条理だ。
「ドギャギャギャ、いい気味」
嫌味たっぷりの言い方だった。その割に、ずいぶんと清々しい表情をしている。
「笑ったね」僕も笑う。「嬉しいよ」
でも僕は今、いったいどんな顔で笑ったのだろうか。
「ちょっと、顔洗ってくる。猫というのは、よく顔を洗うものだからね」
何気ない口調で言って、ゆっくりとした足取りで堂々と教室を後にする。猫がよくやる前足での顔の毛繕いを『顔を洗う』と表現するのは正しいのだろうか。とにかくどけどけ道を開けろ、僕は猫の神様なんだぞ。胸を張りつつ、右手には白猫のラバーマスクもしっかり握っている。とりあえずこれさえ被っておけば、皆には僕が人間に見えるらしいから。
*
少し日差しが強いせいか、昼休みなのに屋上には誰もいなかった。僕は手すりにもたれ、項垂れている。スマホ画面に映してみた顔はまさしく、目の周りだけが黒い白猫だった。
あちこちで囀る鳥の声や、どこかから響く生徒たちの遠い笑い声、通りを走る車やトラックの音が聞こえている。握りしめた猫のマスクが風を受けている。
「猫神くん」
背後から呼ばれる。振り向いた先に、彼女が立っていた。
「春野さん。笑いに来たの? 面白いでしょ」
「うん。面白い。ようやくみんなにも、猫神くんの顔がちゃんと見えたんだなって」
潔い返答だ。
「じゃあさ、春野さん」僕は問う。「僕が猫の顔になった時、何でちょっと悲しそうな顔してたの?」
春野は視線を逸らし、コンクリートの床をゆっくりと踏みしめて歩く。
「そりゃあ……猫神くんは自分が猫の顔だなんて思ってなかったはずなのに、いきなりみんなからそう言われ出したんだから、かわいそうな気持ちにもなっちゃうよ。まあ、ざまあみろとも思ったけどさ」
「……なるほど」
そういうものかもしれない。もしクラスメイトの皆が突然、春野の笑声に奇異の眼差しを向け始めたら、きっと僕だって同じ気持ちを抱いたに違いないと思う。
彼女だって、至って普通の感性の持ち主なのだ。
「ところでさ、聖説会って知ってる? あの、新興宗教の」
青空に視線を向けながら、僕は尋ねる。
「……聞いたことはあるよ。なんか信者の人たちって、やたら周りに優しいんだって誰かが言ってた。立派な人ばっかりで怖いって」彼女は付け加える。「それがどうしたの?」
「立派な人ばっかりか……。そうかもね」
こんなことを春野に話したってまるで意味なんかないのに、でも春野じゃなければ誰に話すんだという気持ちにもなっている。
「僕の家族はね、聖説会に入って、それで、死んじゃった。父さんも母さんも兄さんも、それはもうね、本当に、無駄な死に方だったんだ」
少しだけ、声が震えてしまう。
「父さんは、駅のホームから線路に落ちた子どもを助けて、一人で電車に撥ねられた。母さんは、誰とも知らない人を助けようとして、燃え盛る家に飛び込んだ。兄さんは、酔っ払いが小さな男の子に絡んでいるのを止めようとして、刺されて死んだ」
彼らは皆、死のうと思って死んだのか。違う。死ぬかどうかなど関係なく、彼らはいつだってそんなことばかりしていたのだ。こんな僕にもちゃんと優しかった。
「それに比べて、僕は、春野さんの笑い声がおかしいとか、人のせいにするなとか、小さいことばかり言って、許してもらいたいのに話しかけることもできなかった。なのに今は、春野さんに話を聞いてもらってる。このザマは何なんだろうなって、悔しいし、惨めだし、情けないったらないよ」
生まれ持った特徴を悪く言うのは邪悪だと考えていたはずの僕自身が、春野の笑い方に眉を顰め、貶めた。『化けの皮が剥がれた』という彼女の指摘は正しかった。もっとちゃんと、猫をかぶっておくべきだったのだ。
「悪かったと思ってるんだ。ごめんね」
僕の話をじっと聞いていた春野はしばらく沈黙し、「なんでよ」とつぶやいて僕から目を逸らしてしまう。「困るんだけど……」
やはりダメだ。身の上話で同情を買い、どさくさに紛れて謝ったってずるいだけだ。僕は天を仰いで、溜め息をつく。
青空。うららかな日差しの中を、気まずい時間が流れゆく。僕はこれからどうすればいいのか。
「……あのさ、猫神くん。ちょっと聞いて?」
不意に、春野の声が届く。そして、
「ドギャギャギャギャギャギャギャギャッ!」
遠慮のない、笑い声とは思えない笑い声。改めて聞くとすごかった。彼女は言う。
「どう? あいかわらずドギャギャって聞こえる?」
僕は大きく頷いた。
「あっそ。でも私は絶対謝らないからね。猫神くんの話なんか、全部笑い飛ばすんだから」
視界の真ん中で、彼女は小憎らしく不敵な表情を浮かべている。晴天を反射するように輝く瞳でこちらをじっと見ていた。きっと何かが吹っ切れたのだろう。
何故だか、思わず僕も笑ってしまう。
「いいよ別に。ここのところずっと、教室がずいぶん静かでさ、物足りなかったんだ」
「あれ? 怒らないの? また猫かぶってるの?」
「春野さん、人の見た目をからかう奴は最低だよ」
「何よ、今のは猫神くんがそう言わせたんでしょ?」
「否定はしないけど」
「ドギャギャギャ」
やっぱりすごい笑い方だ。でもそんなことはもう二度と口にしない。彼女の言う通り、僕はもう猫をかぶっているのだ。いや全然意味が分からないし、何もかもバカバカしい。でも仕方がない。開き直るしかない。これが僕の現実で、人生なのだ。
それから僕は猫の神様というキャラで、ちょっと変わった人生を切り拓いてゆくことになる。やがて東や西とも再会する。その時彼らは南、北という人物たちと合流していて、僕らは今よりもさらにおかしな体験をする羽目になるのだけれど、その話はここではしない。
笑い声のすごい女の子がいる。それがこの物語の全てだからだ。
