あるいは、対立のメカニクス
「ひょうきん族見た?」いや俺はドリフ派なんで
昔はテレビが話題の中心にあった。ニュースは皆同じものをやっていたし、広告は全国一律に流れる。同じバラエティで笑い、流行歌を皆が知っていた。情報というのは巨大な水槽のように貯められていて、誰もが同じ水を飲んでいた。
今は違う。よっぽど狭い話の範囲でない限り、同じものを既に見ていたりはしない。リアタイ視聴は信者の儀式であるし、スマホには自分だけに向けられた広告が出てくる。SNSを覗けば、自分が同調できる良い意見が流れてくる。パーソナライズが進みすぎて、人々は自分の見たいものしか見なくなった。見れなくなった、かもしれないけれど。
「界隈」は楽園だ。推しの最新情報が絶え間なく流れ、自分が共感できる意見だけが目に入り、好きな考察を深掘りできる空間は、まるで温かい毛布の中にいるようだ。敵もおらず、戦う必要もない。ただ、気持ちよく頷くだけでいい。だが、そんな心地よさに浸り続けていると、ある時ふと気がつく。
界隈は敵を作り出し、自らの正しさを確認する。まるで、SNSが巨大な戦場になったかのように、煽り合い、晒し合い、いがみ合い、やがて誰もが「正しさ」の亡者になっていく。自分の不快なものに触れられなくなると、不快な人たちの言ってることがわからない。理解できないからなお不快だ。対立は決定的な分断になり二度と交わるチャンスはない。推しが違うだけだったのに。
「対立」の構造を持つエンタメ
ゲームには、構造的に「対立」がある。プレイヤーと敵。チームとチーム。ストーリー上の葛藤。温かい毛布の中で味わう、ちょっとした仮想の刺激。エンタメが持つこの構造は自分の殻の外側を否応なく学ぶことになる。
『Spec Ops: The Line』では、プレイヤーは当初「正義の側」に立って戦うが、進行するにつれ、その行為の是非を問い直さざるを得なくなる。また、『Call of Duty: Modern Warfare』シリーズでは、ミッションによって異なる国家や組織の兵士として戦い、視点が変わることで単純な勧善懲悪ではない戦争の多面性が描かれている。
また、ゲーム以外でも『進撃の巨人』では、物語の途中で視点が変わり、それまでの敵とされていた存在にも立場や理由があることが明らかになる。このように、対立する両者の視点をプレイヤーや読者に提示することで、単純な正義と悪の構図を超えた深い体験が生まれる。
エンタメとしてのディベート
ディベートは、異なる立場を理解し合うための手段だ。ゲームにおいても、プレイヤー同士が異なる意見を持ち、それを戦わせながら結論を導く形式のものがある。
代表的な例として『Among Us』や『人狼ゲーム』が挙げられる。これらのゲームでは、プレイヤーは真実を語るか嘘をつくかを選びながら、自分の立場を守る必要がある。単に相手を騙すのではなく、推理と議論を通じて他者を説得し、状況を有利に運ぶのが目的だ。時には、自分の信じている正義を疑うことすら求められる。
こうしたゲームは、ただ勝ち負けを決めるだけでなく、プレイヤーが相手の考えや視点を知るきっかけにもなる。対話を通じて相手の思考を読み、意見を交わしながらゲームを進めることで、結果的にディベートのような体験が生まれるのだ。
または、MMOで対話しながらルールを決めていくのも良い経験だ。「資源の配分をどうするか」「国境をどう扱うか」――こうした問題を、ただ戦うだけでなく議論を通じて解決する。単に対立するのではなく、思想のキャッチボールを生むゲームでの仮想政治体験。
エンタメに様々なイデオロギーを見る
たとえば、『銀河英雄伝説』や『ロマンシングサ・ガ2』のように対立する立場の視点に立てる作品。どちらの選択肢もそれぞれに正しさと問題点がある。いや、問題点など相対的には常に生まれうるものなのだ…。そして選択がストーリーを大きく変える。「どちらを選んでも正解ではない」という構造のエンタメを通じて多様な視点の存在に触れる機会を得る。これこそリテラシー教育ではないのか。
『ドラゴンボールZ KAKAROT』でナメック星編に入った時、さっきまで地球で殺し合っていた邪悪な敵、ベジータを操作できることに衝撃を受ける未履修者は多い。同僚だったナッパを殺し、キュイという名の汚え花火を咲かせる自分はプレイヤーの意思でナメック星の村を襲わない限りゲームが進まない。バンナムのディレクターは気にしないかもしれないが、良心の呵責が生まれて戸惑うのは当然だろう。また、フリーザの立場をプレイできたらどう感じるのだろう、とも夢想する。戦闘力に価値のすべてがある地上げ屋で宇宙の帝王の生き方を体験できたとき、初めて見えるものがあるのではないか。破壊神の存在意義とか。
ゲームが本来持つ「共感訓練器」としての特性が活きる
オールドメディアがまさに偏向によって自滅し、パーソナライズされたコンテンツで埋め尽くされていく現代において、ゲームはただの娯楽ではなく、「共感訓練器」として機能しうる。正邪は立場の違いに依る相対的なものにすぎず、相互理解のないまま和平は築けない。相手を理解するのには訓練が必要だ。識ることに「逆効果」などないのだ。
相手を理解するための訓練の必要性、そして識ることの重要性はますます高まっている。その役目は受動的メディアでは果たしづらいと言える。
レコメンドという「価値感の牢獄」の中では、多様な価値観を持つキャラクターを通じてプレイヤー自身の考えが揺さぶられるような、そうした経験が、より広い視野の重要性に気づくことができる唯一残された手段、「不快な他者の視点」を提供する最後の砦、になる。
もしかすると「このゲーム、マジで胸糞だったわ!」というレビューが最高の誉め言葉になる時代が来るのかもしれない。
