海の図書館【5】
第二部 海の上の図書館
~ウミネコの日記~
かつて、この図書館の建設に生涯を捧げた男がいた。
彼がいたからこそ、こうして叡智は災厄から守られている。
人は幾度も書物を失ってきた。
戦禍。思想。そして天災――
そういえば、このところ地震が多いようだ。
5 繋ぐ者
小さな沿岸都市。その高台に建つ高校に、絵里は通っていた。
昼休みになると、彼女は友人たちの賑やかな雑談から抜け出し、ひとり海岸へ向かうのが習慣だった。潮風に吹かれながら読書をする時間――それこそが、絵里にとって最も心地よいひとときだった。
その日も彼女は、堤防のいつもの場所に腰を下ろし、脚を海に向けて投げ出した。陽光を散らす穏やかな波間。長閑に羽を休めるウミネコたち。小さな幸福が、音もなく降り積もる時間が始まる。
手提げ袋からサンドイッチの包みと、図書室から借りている読みかけの本を取り出す。絵里は、学校で一番図書室を利用している生徒として、司書教諭からも一目置かれている。
彼女には、いつか自分も司書になるという夢があった。
――できるなら、憧れの「海の上の図書館」で働きたい――
サンドイッチを片手で口に運びながら、本を開こうとしたその時、空から影が舞い降りた。一羽のウミネコが急降下し、彼女の手からサンドイッチを奪い取ったのだ。悲鳴をあげて、振り払おうとした時には、もう飛び去っていた。
「うそ……でしょう……」
絵里は、遠ざかるウミネコを呆然と見上げた。
このウミネコが、のちに「海の上の図書館」を守るただ一羽の存在になることを、まだ誰も知らなかった。
* * *
海の上の図書館へ向かう定期職員輸送船は、交代要員を載せて、自動航行により洋上を順調に進んでいた。
藤堂は、新館長に就任するため、この船に乗っていた。念願の「海の上の図書館」へ、館長という名誉ある職を得て赴く喜びに、彼の心は晴れ渡っていた。遥かな海洋にある図書館に到着するまでの航海は、人生で最も輝かしい船旅になるはずだった。
穏やかな好天のもと、甲板を散策していた藤堂の前に、灰色の塊が突然落ちてきた。
「なんだ?……鳥か?」
足元にはウミネコがうずくまり、その傍らにパン屑が散らばっている。
「港で人の食べ物を漁ったのだな。こんなもの、鳥が消化できるか。愚かな奴だ」
藤堂はウミネコをつまみ上げ、海に投げ捨てようとした。
「待って!」
いつの間にか、真弓が傍に立っていた。
真弓は司書である。藤堂と同じく、今回の輸送船で初めて海の上の図書館に派遣されることになった。彼女は藤堂の婚約者でもある。
「ちょっと見せて」
真弓は藤堂からウミネコを受け取り、胸に抱いた。
「この子、まだ生きている。羽を傷めているのかもしれない。医務室で診てもらうわ」
「医務室に獣医はいないだろう」藤堂は冷めた視線を送る。
真弓は答えずに、ウミネコを抱いて立ち去った。
その後真弓は、自分の部屋でウミネコの世話を始めた。
藤堂は、真弓の部屋で長椅子に腰かけ寛いでいた。箪笥の上に、以前はなかったものが置いてある。籐の籠に布が敷き詰められ、その中でウミネコが羽を膨らませていた。
「まるで卵を温めているみたいだな」
藤堂が茶化すように言うと、真弓は微笑んだ。
「そうでしょう」
真弓はウミネコに何か食べさせている。
「ウミネコの餌は何?」
「魚のすり身をあげているの」
藤堂は手にした酒を飲み干して言った。
「食べ終わった?」
真弓はウミネコの嘴に差し込んでいた匙を置いて言った。
「ええ、もうお腹いっぱいのようね」
真弓は藤堂の隣に腰かけた。
「私、魚臭くないかしら」
藤堂は真弓を抱き寄せた。
「ここは海の上だ。そんなこと、気にするな」
藤堂は彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。ふと視線を感じると、箪笥の上でウミネコが彼らをじっと見つめていた。
真弓の献身的な世話の甲斐もあり、ウミネコはすっかり快復した。真弓が甲板に連れて行って放つと、躊躇いなく大空に羽ばたいていく。しかし、すぐにまた戻ってきてしまうのだった。
「真弓に懐いたのかな」
藤堂は少し迷惑そうに言う。
「ウミネコは、餌は海から捕れるけれど、水は真水が必要なの。もう陸地が遠いから、飛んでいけないのよ。」
ウミネコは、空を一周して戻ってくると、真弓の腕に掴まって藤堂を見た。鋭い眼光で見据えられて、藤堂は落ち着かない気分になった。
「図書館に着いたら水場もあるし、飛んでいくだろう」
「でも、この子は私のことを忘れないわ。きっとね」
真弓はウミネコの乗った腕を誇らしげに掲げた。見上げた太陽に目を細め、小さなくしゃみをした。
船内で原因不明の発熱が流行り始めたときには、もう手遅れだった。驚異的な感染力と致死率の、未知の病であり、医務室はなす術もなかった。
「真弓――中に入れてくれ」藤堂は、真弓の部屋の前で懇願していた。
「だめよ。あなたはまだ感染していない。来ないで……」
扉の向こうで、真弓は横たわり、閉じた瞼から一筋の涙をこぼした。その光景を、籐の籠の中で身を丸めたウミネコが静かに見守っていた。
海の上の図書館定期職員輸送船は、交代要員を載せて、自動航行により予定通り目的地に到着した。
タラップを降りたのは、一人と一羽――だけであった。
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