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「ざいご」の家族史と文化資本 その1

新潟では「ど田舎」のことを「ざいご」と言います。

私は「ざいご」の出身だと思っているのですが、「ざいご」を名乗っていいのは最寄りのJR駅にICタッチで入れないSuica圏外から、という説もあります。

実家は新津丘陵のふもと、つまり大昔に石油が出たあたりです。父方の祖父は帝国石油の技術者で、帝石が栄えていた頃は、けして「ざいご」ではなかったらしい。

母は旧津川町の出身で、とんでもないざいごに嫁にきてしまった、と思ったらしいです。外から見ると、なんなら津川の方が山奥な分「ざいごレベル」高い感じしますが。

母によると、かつて津川には町場文化があり、みんな普通に謡を習ったり能楽を楽しんだりしていた。しかし、嫁ぎ先は「帝石が終わって取り残された半農村地帯」であり、誰とも話が通じなかったと。

ここでいう「ざいご」は、単に山奥という意味ではありません。文化の中心から切り離されている、と誰かが感じる場所のことです。

おなじ田舎でも、商店街があるところは「街」であり、そこからほんの5キロほど離れた場所でも「ざいご」となりうるのです。

私の父親は高校の教師で、最初の赴任先の津川高校で母に出会いました。山岳部の顧問と部員の間柄だったそうです。

当時の母は、数学の授業中にこっそりボーヴォワールとか読んでいるタイプだったらしい。そりゃ昭和30年代当時の津川でも「話が通じる人」は少なかったでしょうよ。

母は高校を卒業後に東京で就職しましたが、成人したら父が新潟からプロポーズに来たそうです。

世界文学全集買ってあげるから結婚して!!という言葉に絆されて新潟にUターン嫁入りしたら、そこはざいごだった…世界文学全集は買ってもらったけど、読んでいると姑に嫌味を言われる生活。

ざいご出身の父親は、昭和9年生まれ。大学を出て数学の教師になったのですが、もともとは中学を出たら働く予定だったようです。

帝石の技術者だった祖父は、戦時中は徴用で南洋に行き、戦後間もなく亡くなりました。ざいご農家出身の祖母は特に子供の教育に関心はなく、息子は中学を出たら農家の手伝いすればよい、と思っていたらしい。

しかし父は学校の勉強がよくできたようで、中学のときに担任の教師が「息子さんを高校にいかせてやってくれ」と祖母を説得にきたそうです。

父が定時制高校の商業科に通うようになると、今度は高校の先生が「息子さんを大学に行かせてやってくれ、彼には算盤より物理をやらせるべき」と祖母に進言。

そんな経緯で父は東京学芸大学を卒業して教師になり、新潟に戻り赴任先で母に出会ったと。

そう考えると、今の私が存在しているのは、父を進学させるよう説得したざいごの学校の先生たちのおかげです。

東京の大学を出て、ボーヴォワールを読むような嫁を迎えたざいごの長男は、ざいごの権化のような母親と長姉に、嫁の選択が気にいらんと責められたらしいですが、徹底的に嫁を守る方針だったそうです。

しかし長男が同居嫁の味方をすればするほど、嫁は影でいじめられるんですよね。母は色々思うところがあったようで、私に対しては、こんなざいごに留まっていてはいけないと、進学も留学も大賛成でした。

実際、中学生になり母の世界文学全集を読むようになった頃から、「まわりと話が通じない感」は私の中でもかなり大きくなっていました。

新潟大学を卒業してから2度の留学を経て、ざいご実家から10000キロほどはなれた場所に落ち着くことになったのですが、実はそこも「ざいご」だったのです。

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