最後の子育てに熱くなれ ♯56
うちの子は、発達グレーさんだった ―― 気づけなかった母親の記録
でも、そう気づくまでに、とても時間がかかった。
それは「気づかなかった」というより、「気づかないようにしていた」に近い。
この記事は、その失敗した自分の経験を、できるだけ正直に振り返る記録になる
1. なぜ認めたくなかったのか ―― 確証バイアスという罠
私は保育士だった。たくさんの子どもを見てきたという経験があった。
その経験は、本来なら子どもを理解する助けになるはずだった。でも実際には、逆に働いた。「どんな子でも大体わかる」という自信が、いつのまにか「うちの子が発達障害なわけがない」という思い込みにすり替わっていたのだ。
これは心理学でいう確証バイアスに近い。
人は一度「うちの子は違う」と信じると、その後は無意識のうちに、信念を裏づける情報だけを拾い、反する情報を見過ごすようになる。「お勉強がよくできる」「理解力がある」という事実を、私は「発達障害ではない証拠」として都合よく解釈していた。本当は、得意と不得意の凸凹こそが特性のサインだったのに。
さらにその奥には、もっと個人的な感情があった。
発達障害と言われるのが嫌だった。
この本音にたどり着いたとき、初めて気づいた。
私はどこかで、発達障害を見下していたのではないか。だから、我が子に当てはめることを拒んでいた。
理解しようとしていなかったのだから、あの子のことがわかるはずがなかった。
原因は子どもではなく、私の側の認知の歪みにあった。
2. 診断がつかない、というもう一つの苦しさ
実際に発達の診断を受けたこともある。
でも、どの診断もつかなかった。
「頭が良い」「理解力がある」——そう言われるだけだった。
その後も発達受けたいと思ったこともあるが、受ける前に特に問題になることがないから必要ないと言われた。
これは、いわゆるグレーゾーン特有の難しさだと思う。診断名がつけば、少なくとも「これが理由だったんだ」という説明がつく。
でもグレーゾーンは、その説明すら与えてくれない。困りごとは確かにあるのに、名前がつかない。
だから周囲にも伝わりにくいし、本人も親も「これは甘えなのか、特性なのか」を自分で判断し続けなければならない。
診断名という拠りどころがないぶん、私は余計に「困った行動をする、理解力のある子」という矛盾した見え方に振り回されていたのだと思う。
名前がつかないことは、楽になることではなく、答え合わせのできないまま手探りを続けることだった。
そしてこの「理解力がある」という評価は、後述するように、私自身にとって別の意味も持っていた。
3. 手のかかる子、という一面的な見方
話しても聞かない。
注意しても入らない。
スキンシップを嫌がる。
どこに行っても突然泣く。
お洋服のタグが嫌、
生地が嫌なものやお気に入りのものがよくて、洗濯したばかりの濡れたシャツをそのまま着てくる。
トイレに行くのも、お風呂に入るのも出るのも、そして眠りにつくのも、すべてに時間がかかった。
一方で、勉強はよくできた。
理解力があり、1回で覚えてきちんとやる。
言葉の奥行きを感じ取れる子で、小学生になると全体像を把握する力もあった。
この「できる部分」と「困る部分」のギャップが、当時の私を混乱させた。頭も理解力もあるのに、なぜ困るようなことをするのか。答えが見つからないまま、私は都合のいい結論に飛びついた。
「わざと困らせているんだ」
「私のことが嫌いなんだ」
これは、行動の原因を相手の意図や性格に求めてしまう、根本的な帰属の誤りと呼ばれる思考のクセ。
子どもの行動の背景に感覚過敏や特性があるとは考えず、「本人の意思」の問題として処理してしまう。
その方が、親にとっては理解しやすく、同時に苦しい結論でもあった。
幼稚園バスが嫌、
制服を着たくないから嫌と
泣きじゃくる子どもを見送って、1人で泣いた日もある。
「何かが辛いんだろうな」とは思いながらも、その辛さの正体を探ろうとはせず、「うまく理解してあげられない自分」への苛立ちだけが募っていった。
そしてその時看護学校への入学と重なり、慣れない学生生活と子育てで、私自身にも余裕がなくなっていた。
4. 理解の速度差が生んだ、静かなあきらめ
子どもが小学校の高学年になると、その理解力の高さがより際立つようになった。
話は論理的で、一度説明すれば理解する。
むしろ、そのスピードに追いつけなかったのは私の方だった。
私は回転が遅く、理解するまでに時間がかかる。
子どもの話を、その場ですぐには飲み込めないことが多かった。
今思うと、子どもはそれを敏感に感じ取っていたのではないかと思う。
「どうせお母さんに話しても、わからない」——
そう思うようになっていったのではないか。
これは、単なる「話さない子」の話ではない。
会話には、話す側と受け取る側、両方の処理速度が噛み合ってはじめて成立する部分がある。
子どもの側の理解力が高いほど、そのギャップは埋まらず、逆に「説明する労力に見合わない」という判断につながりやすいのではないか。
子どもは、私を見限ったわけではなく、何度も試みた末に、伝えることをそっとやめたのだと思う。
これは、以前の章で触れた「甘えられないことを覚えてしまった」子どもの姿と、根っこでつながっている。
優しさから黙ったのと、理解されない疲れから黙ったのと、両方が同時に起きていたのだろう。
5. 理想の子育てを追いかけて、現実を見失った
私には、自分なりの「こうあるべき子育て」の理想像があった。手のかからない、素直で、聞き分けのいい子。
そういう子育てができている自分でいたかった。
だから、目の前の子どもが理想からずれるたびに、私は無意識に「困った行動」として処理していた。
子どもをありのままに見るのではなく、理想との差分としてしか見ていなかったのだ。
これは、理想化・投影の一種なのか…と思う。
子どもという一人の人間ではなく、自分が「こうであってほしい」という像を通して見てしまう。
その像が強いほど、現実の子どものサインは、ノイズとして処理されてしまったのではないか。
だから、子どもが助けを求めていても、私にはそれが見えなかった。
見ようとしていなかったのではなく、理想というフィルターが、最初から視界を狭めていたのだと思う。
そして、この「理想像」がどこから来ていたのか。
それをたどっていくと、私自身の子ども時代に行き着く。
6. 「忙しさ」に隠れて、逃げた ―― 回避という対処
看護学校が忙しいことは事実だった。
何教科も同時に出されるレポート、教科書をつかったりテキストを見て調べ学習、色んな近隣病院への実習、試験、卒業臨床試験、ケーススタディ発表会(文献を用いて調べ全校生徒の前と職員の前で発表)そして他県の会場まで国試を受けに行き——目まぐるしく終わる日々が本当に忙しかった。
でも、「忙しい」は同時に、都合のいい言い訳でもあった。向き合うことへの不安や恐れを、私は「時間がないから」という現実的な理由にすり替えていた。
これは今思うと回避行動の典型だったと思う。
困難な感情や現実に直面するより、目の前のタスクに没頭する方が、一時的には楽になる。
ただしその代償は、子どもとの関係という形で、あとから返ってきた。
早くお迎えに行けた日は、子どもは笑顔で走ってきた。好きな公園に行ったり、2人で出かけたりした。
その笑顔が答えだったのに、私はそこに気づかなかった。
小学校に入ると、もともと無口だった子がさらに無口になった。話しかけても無愛想。私はそれを「やっぱり、嫌われている」証拠として受け取った。
……でも「やっぱり」とは何だったのか。
根拠のない結論に、自分で自分を納得させていただけだった。
向き合いたくなかったから、見ないふりをした。
7. 小学6年生の涙で知った、子どもの本当の気持ち
ある日、子どもがお腹が痛くて自宅に帰りたかったことがあった。携帯に連絡が来ていたが、電話に出られなかった。子どもは家に帰れなかった。
「なんで、帰って来てくれなかったの?」
そう言って、普段泣かない子どもが泣いていた。
その涙を見て、はっとした。
担任の先生にすぐ連絡した。
その話で、決定的な言葉を聞いた。
「お子さん、お母さんのこと大好きなんですね。だってねお母さんが忙しいから、困らせたくないから何も言いたくない心配させたくないって話してましたよ。本当にお母さんのことを大切にしてるんだなぁと思って」
泣けた。
電話を切ってしばらく泣いた。
ずっと嫌われていると思っていた。
子どものことを理解できない親は、子どもに嫌われて当然だと決めつけていた。でも違った。いつも嫌そうな態度だったのは、思春期の照れ隠しであり、忙しく余裕のない私を気遣っていたからだった。子どもの側が、私を守ろうとしていた。
これは、愛着形成の観点から見ると重い意味を持つと思う。
子どもは本来、困ったときに安心して助けを求められる相手(安全基地)を必要とする。でもこの子は、助けを求めることが親の負担になると学習し、自分の気持ちを抑え込む方を選んでいた。
甘えられないことを、覚えてしまっていた。
それは「手がかからない子」に見えて、実は「手をかけてもらうことを諦めた子」だったのかもしれない。
私はそれに気づかず、何度もその心を傷つけてしまっていた。
8. 子どものせいにしていた自分に気づく ―― 帰属の誤り
幼い頃、手がかかったのは事実だ。
でも、お誕生日、お山登りや大好きな海へのお出かけ、大好きな図書館で10冊かりて、自転車での外出——子どもはいつもどんな場所も喜んでくれていた。
その事実を、「育てにくい」「忙しい」という言葉で覆い隠し、私は逃げていた。
子どもは不器用な愛で、まだうまく言葉にできない思いで、ずっと遠くから私を見ていてくれた。
親なのにわかってあげられなかった。
それは自分の課題だったのに、「子どもが嫌っている」という物語にすり替えて、責任を子どもの側に押しつけていた。振り返れば、これも先述の帰属の誤りの延長線上にある。
自分の余裕のなさや理解不足を、子どもの性格や感情の問題として説明し直していたということだったと思う
9. 発達障害を見下していたのは、私自身だった
発達障害と言われるのが嫌だった、ということは、裏を返せば、発達障害を差別する目で見ていたということだ。その事実に向き合うのは、正直つらかった。
でも今は、違う見方をしている。
発達障害は、特別な力だと思う。
他人と違う感性、思考、行動——それは「みんなと違う」から生まれる個性であり、その個性自体はとても素晴らしいものだと私は思う。
大切なのは、それを潰さずに、環境を整え、その子の特別な魅力とし活かしていくことだと思う。
10. 子育て論が崩れる恐怖 ―― 世代間で受け継がれるもの
もう一つ、向き合うのが怖かったことがある。
それは、自分がしてきた子育てのやり方そのものが崩れることへの恐怖だった。
私は、自分が子どもの頃にされた子育てをもとに、我が子に接していた。それが「いい」と思っていたというより、正確には、それしか選択肢を持っていなかったのだと思う。他のやり方を知らなかったし、疑ったこともなかった。
自分が受けてきた育て方を否定することは、育ててくれた親を否定することにもつながる気がして、無意識に避けていた。だから、目の前の子どもが自分の育て方に合わないサインを出しても、「やり方を変える」のではなく、「子どもの方が難しい」と捉える方に流れていった。
これは、世代間で子育てのスタイルが受け継がれる、いわゆる世代間伝達と呼ばれる現象に近いと思う。
悪意があってそうなるのではない。
ただ、他の選択肢を知らないまま、知っているやり方をなぞってしまう。そして、そのやり方を疑うことは、自分の育った過程や、自分を育てた親との関係そのものを揺るがしかねないから、無意識に守ろうとしてしまう。
でも、私の場合、崩れるのが怖かったのは「やり方」だけではなかった。その奥には、もっと個人的な、埋まらない何かがあった。
11. 「頭がいいね」が、私の唯一の自慢だった ―― 子どもを通して埋めようとした欠落
私は子どもの頃、「頭が悪い」「理解力が悪い」と言われて育った。
それがどれだけ自分の中に根を張っていたか、当時は自覚していなかった。でも今振り返ると、そう言われ続けたことは、私にとって消えない欠落として残っていたのだと思う。
だから、我が子が「頭がいいね」「理解力があるね」と言われると、それは私にとって特別な意味を持った。
それは、子ども自身への称賛であると同時に、自分がかつて得られなかったものを、子どもを通してようやく手に入れたような感覚だった。
子どもが褒められることが、いつのまにか私にとって「唯一できる自慢」になっていた。
ここで気づくのは、私は子どもを、子ども自身として見ていなかったかもしれない、ということだと思う。
子どもを、自分の過去の埋まらない何かを埋めるための存在として、扱ってしまっていたのではないか。
親が満たされなかった願望や理想を、子どもに託して実現しようとする代理達成という考え方や、子どもを自分の一部・自分の価値を映す鏡(自己対象)として無意識に扱ってしまう視点があるのではないかと思う。
子どもが「頭がいい」ことは、子ども自身の誇りである以前に、私自身の傷を静かに癒すための材料になっていたのかもしれない。
そう考えると、これまで書いてきたすべてのことに、説明がつく気がする。
理想の子育て像に固執したのも、理解できない部分を「困った子」として処理したのも、根底には「自分の欠落を埋めてくれる子」であってほしいという、私自身の願望があったからではないか。
子どもの困りごとや助けを求めるサインは、その願望にとって都合の悪い情報だった。
だから、見えなかったのではなく、見たくなかったのかもしれない。
子どもは、私の欠けたものを埋めるために生まれてきたのではない。当たり前のことなのに、私はそれを、ずっとどこかで忘れていた。
12. 行動に変えたこと
気づいてから、私は考えた。
そして、ちょうどそのタイミングで動き始めた。
放課後児童クラブでボランティアを始め、シッターの仕事も始めた。
いろんなお母さんの力になりたい。
子どもたちのいいところを見つけて、本人そして保護者
にも伝えたい。
「あなたのいいところはここだよ。それは、とっても素敵なところだよ」
そう言葉にして届けることが、かつての自分にできなかったことへの、せめてもの償いであり、次への一歩だと思っている。
13. 最後の子育てに、熱くなりたい ―― 修復できる愛着
過ぎ去った過去は戻らない。
そして今、子どもは反抗期と不登校が重なっている。
これを「もう手遅れだ」とは思わない。
愛着は、幼少期に一度型が決まってそれで終わり、というものではない。大人になってからでも、安心できる関わりを積み重ねることで、少しずつ結び直すことができるとされている。
反抗も、不登校も、見方を変えれば、これまで飲み込んできた本音がようやく表に出てきている過程なのかもしれない。
だから、逃げないでいたい。
そっと隣に寄り添い、励ましたい。
子どもが助けを求めていいのだと、少しずつでも伝え直したい。
そして何より、子どもを、私の欠落を埋める存在としてではなく、子ども自身を大切な1人の存在として見ることから、もう一度始めたい。
だからもう2度とない
最後の子育てに、熱くなりたい。
そしてもう一つ、伝えたいことがある。
ここに書いた確証バイアスも、帰属の誤りも、回避行動も、理想化も、世代間で受け継がれる子育て観も、そして子どもに自分の欠落を埋めさせようとしてしまったことも——特別に鈍い親だけがはまる罠ではないと思ってる。
親自身の子ども時代の傷は、多くの場合、無意識のまま次の子育てに持ち越される。
診断名がつかないグレーゾーンの子育ては、その答え合わせのないまま手探りを続けるということでもあり、そのなかで親が迷い、間違え、時に子どもを見誤ってしまうのは、決して珍しいことではないと思う。
でも自分を責めすぎなくていい。
ただ、気づいた瞬間から、関わり方は変えられる。
そこからがスタート
子どもと本心で向き合い
あなたの子は、とっても素敵だよ。と伝えてあげたい
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