人間関係はコンセントではない
「発達障害がある子への支援は難しい」と言われ続けているのは、なぜだろう?
それは、発達障害の特性は、性格(人柄、人格)に見えてしまうからだ。
車イスに乗っている子がいる。
目が見えない子がいる。
その子が「歩けない」「目が見えない」という理由で、周りの子(大人)たちがイラッとすることはない。
なぜなら歩けないこと、目が見えないことは、性格と分けて考えやすいからだ(障害が二次的に、性格に影響を及ぼすことはある)。
しかし発達障害があって「空気が読めず、場にそぐわぬ発言をする」「衝動性がまさり、静かにすべき場面で騒いでしまう」という子の場合、周りの子(大人)たちはイラッとする。
特性と性格を分けるのが難しく、「無神経」「ワガママ」と思われてしまうからだ。
よくある質問で、「発達障害がある子の場合、どこまでが特性で、どこからがワガママですか?」というものがある。
申し訳ないが、くだらない。
もし特性だったら周りの子たちは我慢し、ワガママだったら配慮しないのだろうか?
そんな単純な線は存在しない。
「特性か、ワガママか」なんて、周りの子たちは一人ひとり、見え方が異なる。
発達障害がある子のひとつの言動によって、ある子はイラッとし、別の子は全然平気。
「どちらが正しい」なんてない。
イラッとする子はその理由を伝えたり(これも必要なこと)、距離を置いたりすれば良い。
平気な子は仲良くすれば良い。
ただ「この子は悪気なく、こういう言動をしてしまうんだ」という理解が広がれば、イラッとする子が「じゃあ、教えてあげるしかねーわな」と変わる可能性もある。
「この場でこういう言動は、ワガママに見られてしまうんだよ」ということを教え合う。
発達障害がある子も、この学びは必要。
誰かが一方的に我慢し続けることではない(多少の我慢は存在するが)。
だから特性理解は大事。
その関係の中で、「ワガママだ」と思えば指摘し合えば良い。
これは障害の有無は関係ない。
「特性だ」と思う場合、「じゃあ、しゃーないわな」と思える関係であれば、大目に見れば良い。
人間関係は無数にあり、寛容度も千差万別。
それを「ひとつの線引きがあるハズだ」と思うから、うまく行かない。
全ての人間関係がひとつの線引きで動く社会は、気持ち悪い。
人はなぜ、基準を求めるのか。
基準があったほうが楽だからだ。
それ自体は悪いことではない。
基準があるから、全ての家庭で電化製品が使える。
家庭ごと、電化製品ごとにコンセントが異なったら、非常に不便だ。
しかし、人間関係はコンセントではない。
様々な形があり、変化し続ける。
だから安易に基準を設けず、考え続ける必要がある。
今日も、明日からも。
