実存的な不安
「なぜ生きるのか」
「なぜ人は死ぬのに生きるのか」
これは私が子供の頃から考えていたことだ。
随分可愛げがないが、元からそういう性質だったらしい。
しかし今まで何度も壁にぶち当たってきた。
「このままでいいのか」
「こんな生き方で私は赦されるのか」
ということから、
「私は生きるべきではないのではないか」まで。
なんとなくいつも、 「生きていてはいけないのでは」というキリストで言う原罪(生まれながらにして人は罪を持っている)を抱えて生きていた。
もちろん、とても苦しかった。
しかし最近はそれが
「どう生きるべきか」という内容、
「どうあるべきか、ありたいか」に変わってきている。
私は人と違っているらしい。
何事も深く考えるらしい。
倫理観が強くて疑問を持ちやすいらしい。
認知や価値観が違う人たちと衝突してしまう。
ならば、私はどう生きるべきか?という点に焦点が移っている。
しかし、困ったことはこの移行期がとても苦しいということだ。
「世界が正解」とずっと思っていた私は、「世界が正解ではない」ことをいろんな経験をして目の当たりにした。
その都度、音を立てて既存の価値観や今までの人への関わり方はバラバラに崩れていった。
「これは違う」
「これもうまくいかない」と、何十通りも試行錯誤をした。
否定されたり、誤解されたり何度もした。
何度も一人で泣いたし、激怒した。
そして、「自分が絶対的な正解」でもないことも学んだ。
人には人の価値観がある、正義もある。それは私には口出しができない。
だから、分かり合えない人とはずっと分かり合えない、と。
それでも私に残るものはなんでしょう、と問うと 「私はこんなもんじゃない」
という苛立ちがやってきた。
どうして、こんなこと(病気の治療)に時間を全力で割いてきたんだ。
もっと世界と関わりたい。
もっと新しいことを知りたい、学びたい。
と思ったとき、大きな混乱が私を襲った。
突然、
「死ぬのではないか」という根拠のない大きな不安が頭を占領した。
これには筋が通っていなくて、そんなことはない、むしろおかしい、と頭で分かっているのに気持ちが暴走するのだ。
生存的には、生きている。
死ぬこともない。
しかし、今までのやり方が意味をなさなくなったとき、私はなぜか「死ぬかもしれない」という不安に襲われるようになった。
調べると、「積極的分離」というものがあるらしいことがわかった。
世界への意識の前提が変わった。
信じていたものはなんだったんだ、とか、どうして今までこんなことばかりしてきたのか、などの後悔や怒り。
これからどうすればいいのかわからないという焦りや不安。
他にも色々と理由はあるらしいが、まだ詳しくはわからないままだ。
進化している、しかし同時に後退している気がする、この同時進行がとても苦しいということ。
パニックにもなる。
しかし、なんにも意味がないと思っていたことが、意味を帯びているように感じ始める。
たとえば、目的なしに散歩することや、運動すること、掃除すること。
これにも自分なりに「意味がある」という充足感を得てきた。
この大きな不安の理由はまだ突き止められないが、 「生きることを考えがちな私らしい現象」ということは言えそうだ。
「私らしくありたい」という気持ちは、強まっていくだろう。
