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『声を奪われたわたし。』──薬害エイズを生き抜いて


 

 

 

わたしは、沈黙させられた。
声を出せば未来を失うと脅され、黙れば心が壊れる。
どちらを選んでも傷つくしかなかった。

 

 

 

 

わたしは、血が止まらない子どもだった。
転んで膝をすりむくだけで、命の底まで血が溢れ出す。
母はガーゼを押さえ、父は夜中に車を走らせ、
わたしは「普通の子になりたい」と泣きながら眠った。

 

 

 

 

やがて薬が現れた。
針を刺し、液体を体に流し込むと、出血が止まった。
「これで明日も生きられる」
わたしは信じた。
家族も信じた。
その薬がわたしの未来を奪うものだなんて、誰ひとり思いもしなかった。

 

 

 

 

感染を告げられた日、
「HIV」という言葉が体の中で爆弾のように響いた。
生きるために薬を使った。
その薬が死を呼び込んだ。
叫びたかった。
「これはわたしのせいじゃない」と。
でも、叫んだ瞬間に友を失い、仕事を奪われ、愛を拒まれる。
だから黙るしかなかった。

 

 

 

 

──沈黙。
それがわたしに与えられた罰だった。
声を持っているのに、出せない。
名前を持っているのに、名乗れない。
裁判所でさえ、わたしは「番号」で呼ばれた。

 

 

 

 

けれど、わたしはここにいる。
黙らされても、震えは消えなかった。
この体を通って流れた痛みは、今も脈打っている。

 

 

 

 

だから書き残す。
これは「誰かの事件」ではない。
これは「わたし」が生き延びた証であり、
同じ沈黙を強いられた無数の人々の祈りだ。

 

 

 

 

わたしは削らず、飾らず、そのままを渡す。
沈黙の中に押し込められた震えを、声として世界に遺すために。





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─目次─






第1章 血が止まらない子ども
第2章 薬を打つたびに未来を信じた
第3章 知らないうちに体に入ったもの
第4章 言えない
第5章 差別の目
第6章 仲間と出会う
第7章 番号で呼ばれた
第8章 影の正体
第9章 謝罪を聞いた日
最終章 それでも生きる
あとがき





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第1章 
血が止まらない子ども

 

 

 

 

わたしは、生まれたときから「普通」じゃなかった。
転んだだけで、膝から血が止まらなくなる。
口の中を切れば、血の味がいつまでも消えない。
遊びたいのに、走れば関節が腫れ、歩けなくなる。
「どうして自分だけ」──その問いを、幼いわたしは答えもなく抱えていた。

 

 

 

 

母は、わたしの血を止めようと何度もガーゼを押さえた。
布はすぐ真っ赤に染まり、母の手は震えていた。
父は、夜中に車を飛ばして病院へ走った。
その背中には焦りと祈りが混ざっていた。
両親の顔に浮かぶ不安を、子どものわたしは黙って見つめるしかなかった。

 

 

 

 

学校に行っても「危ないから」と体育は見学。
友だちがボールを追いかける姿を眺めながら、
わたしはベンチで拳を握った。
「普通になりたい」
「走りたい」
「転んでも笑って立ち上がりたい」
それが子どものわたしの、一番の夢だった。

 

 

 

 

けれど夢はすぐ壊れた。
出血が続けば、骨や関節はどんどん壊れていった。
痛みで眠れない夜、母の涙が布団に落ちた。
「この子はどうなるのだろう」
母はそう呟いたけれど、わたしは聞こえないふりをした。
聞いてしまえば、「自分は生きられないのか」と思ってしまうから。

 

 

 

 

家の中でも沈黙があった。
わたしは甘えることをやめた。
血が止まらなくても、泣かないようにした。
泣けば、母が泣く。
泣けば、父が苦しむ。
だから黙って痛みを噛みしめた。
子どもの心に刻まれたのは、
「声を出すと誰かを傷つける」という恐怖だった。

 

 

 

 

血が止まらない子どもとしてのわたしは、すでに沈黙を覚えていた。
その沈黙は、後にもっと大きな沈黙へとつながっていくことを、このときのわたしはまだ知らなかった。





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第2章 
薬を打つたびに未来を信じた

 

 

 

 

わたしは、ずっと「普通」に憧れていた。
血が止まらない身体を抱え、遊べず、走れず、夢も未来も遠かった。
そんなわたしに、ある日「薬」がやってきた。

 

 

 

 

透明な液体。
冷たい針。
注射器からゆっくりと流れ込むその液体は、奇跡のようだった。
関節の腫れが引き、止まらなかった出血が止まる。
「これで生きられる」
母が泣き、父がほっと笑った。
わたしは初めて「未来」という言葉を体の中に感じた。

 

 

 

 

薬を打てば、学校に行けた。
体育は相変わらず見学が多かったけれど、
それでも机に座って授業を受けられる。
「昨日は出血で休んだのに、今日は元気に来てるな」
そう言われるのが嬉しかった。
走る友だちを見て羨むだけじゃなく、時々なら一緒に走れる。
転んでも「大丈夫」と笑える。
その小さな一歩一歩が、わたしにとっては大きな夢の実現だった。

 

 

 

 

だから、わたしは薬を信じた。
母が差し出す注射を信じた。
医師が「大丈夫」と言う言葉を信じた。
血管に入るたび、「生きる」という感覚を抱きしめた。
未来が少しずつ近づいてくるように思えた。

 

 

 

 

けれど、その信じる気持ちは次第に「依存」へ変わっていった。
薬がなければ歩けない。
薬がなければ学校へ行けない。
薬がなければ未来はない。
「薬=生きること」になった。
その方程式から逃れることはできなかった。

 

 

 

 

もし薬が切れたら?
もし薬が手に入らなくなったら?
その恐怖はいつも背中に張り付いていた。
だから医師の言葉を疑わなかった。
「新しい薬だ」「これが効く」
そう言われれば、わたしは迷わず腕を差し出した。
針を刺す痛みより、薬を打てない恐怖の方がはるかに大きかったから。

 

 

 

 

薬を打つたびに、わたしは未来を信じた。
「これで大人になれる」
「これで結婚できる」
「これで普通の人生が歩ける」
そう思った。そう信じ込もうとした。

 

 

 

 

──でも、その薬の中に、死が混ざっているなんて誰も教えてくれなかった。
わたしの体に入ってきたのは、希望だけじゃなかった。
見えない小さなウイルスが、未来を壊す種を運んできていた。
それでもわたしは、薬を打たずには生きられなかった。

 

 

 

 

希望と死を同時に打ち込む。
そんな残酷な事実を知らぬまま、わたしは笑い、走り、夢を信じ続けた。

 

 

 

 

未来を信じるその行為が、未来を奪う行為でもあった。
それが「薬を打つ」ということだった。





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第3章 
知らないうちに体に入ったもの

 

 

 

 

針を刺すたび、わたしは「生きられる」と信じた。
その信じる行為の中に、死が潜んでいるなんて、想像もしなかった。

 

 

 

 

透明な液体は、冷たくもなく、痛くもなかった。
でも、その中に見えないものがあった。
HIV。
小さな、小さすぎて誰にも見えないもの。
それが、わたしの体の奥に入り込んだ。

 

 

 

 

だるさが続く。
熱が下がらない。
リンパが腫れる。
「風邪だろう」「疲れだろう」
そう言われて、わたしもそう思い込もうとした。
けれど、体は知っていた。
「何かが中にいる」と。

 

 

 

 

医師の口から告げられた。
「あなたは、HIVに感染しています」
言葉は静かだった。
けれど、その一文で世界が崩れた。
未来が粉々になった。

 

 

 

 

「なぜだ? どうして?」
問いは喉から溢れ出たけれど、答えは返ってこなかった。
医師は視線を逸らし、カルテを閉じただけだった。
国は黙っていた。
会社は黙っていた。
誰も「それは薬からだ」とは言わなかった。

 

 

 

 

わたしは、死を体に抱えた。
生きるために信じた薬が、未来を壊す毒になっていた。
「わたしのせいじゃない」
心の中で何度も叫んだ。
でも、叫べば差別が降りかかる。
家族も、友も、職場も、すべて失う。
だから、また沈黙した。

 

 

 

 

知らないうちに体に入ったもの。
それはウイルスだけじゃなかった。
「裏切り」も「無関心」も「放置」も、体に入り込んでいった。
わたしの血管を流れ、心臓を冷たく締めつけた。

 

 

 

 

夜、布団の中で考えた。
「死ぬのか」
「明日もあるのか」
答えはどこにもなかった。
ただ、胸の奥で、透明な死が静かに息をしていた。

 

 

 

 

──その日から、わたしは「生きること」と「死を抱えること」を同時に背負う存在になった。
未来を信じて打った薬は、未来を奪う刃でもあった。

 

 

 

 

知らないうちに体に入ったもの。
それは、ウイルスという名の沈黙だった。





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第4章 
言えない

 

 

 

 

感染を告げられたその日から、わたしは口を閉ざした。
声を出せば、すべてを失うと分かっていたからだ。

 

 

 

 

母にさえ、言えなかった。
「どうしたの? 顔色が悪いよ」と心配そうに覗き込む母に、
わたしは「大丈夫」とだけ答えた。
本当は抱きついて泣きたかった。
「薬を信じただけなのに、なぜこんなことに」と叫びたかった。
でも、その瞬間に母の人生まで壊してしまうと思った。
だから言えなかった。

 

 

 

 

友人にも、恋人にも、言えなかった。
「エイズ」という言葉が出た途端、笑顔は曇り、距離が生まれる。
テレビのニュースでは、感染者の家が焼かれた話や、
職場を追われた人の話が流れていた。
「自分がそうなる」と思った瞬間、口は固く閉ざされた。

 

 

 

 

沈黙は、命令のようにのしかかっていた。
病院で医師は、小声で告げた。
「誰にも言わないように」
カルテには赤い印。
看護師は二重の手袋で触れた。
その目は「あなたは危険だ」と言っていた。
わたしが守るべきは自分の命だけではなかった。
「周囲にバレないこと」もまた、守るべき義務にされた。

 

 

 

 

でも、その沈黙はわたしを殺した。
誰にも話せない。
誰も理解しない。
夜、布団の中で震えるしかなかった。
「死にたくない」と言いたいのに、言えない。
「助けて」と叫びたいのに、叫べない。
沈黙が、わたしの心を喰っていった。

 

 

 

 

やがて、家族の中にすら影が落ちた。
母が皿を分けようとしたとき、
父が「同じ風呂は危ないんじゃないか」と呟いたとき、
わたしは胸が潰れた。
「信じてくれるはずの人も、信じきれない」
その現実が、言葉をさらに奪っていった。

 

 

 

 

わたしは、生きながら消えていくようだった。
存在はここにあるのに、声を出せない。
名前を持ちながら、呼ばれない。
喉の奥で「わたしはここにいる」と叫んでいるのに、
沈黙の壁が厚く覆っていた。

 

 

 

 

──言えないこと。
それこそが、わたしに課せられた最大の苦しみだった。
病そのものより、沈黙がわたしを蝕んだ。





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第5章 
差別の目

 

 

 

 

沈黙していても、差別の目はわたしを突き刺した。
何も言っていないのに、見透かされるように。
血友病というだけで、「あいつ、エイズなんじゃないか」と囁かれた。

 

 

 

 

学校の教室で、机が少しずつ遠ざかる。
「一緒に給食を食べたら感染する」
そんな根拠のない噂が流れ、わたしの箸は孤独になった。
体育の授業を見学しているだけで、
「あいつは汚れているから走れない」と笑われた。
笑い声の中で心臓が潰れそうになった。

 

 

 

 

職場でも同じだった。
健康診断の結果を見られたのか、上司が小声で言った。
「お前、何かあるんじゃないのか?」
同僚の視線が一斉に冷たくなった。
コピー用紙を受け取ろうと手を伸ばすと、相手はわざと指先を避けた。
その仕草が「お前に触れたくない」と語っていた。

 

 

 

 

結婚を考えたとき、差別の目はさらに鋭くなった。
好きな人はわたしを受け入れてくれた。
けれど、その家族が壁になった。
「子どもにうつる」
「家の名前に傷がつく」
愛では壊せない壁が、わたしと未来を隔てた。
「一緒にいたい」と泣いてくれた相手の涙が、余計に心を切り裂いた。

 

 

 

 

病院ですら安全ではなかった。
ベッドのシーツに赤い印をつけられ、看護師は二重の手袋をして触れた。
消毒液の匂いの中で、わたしは人間ではなく「病原体」として扱われた。
命を救う場所のはずが、「お前は危険だ」と烙印を押す場所になっていた。

 

 

 

 

差別の目は、他人だけではなかった。
家族の中にまで忍び込んできた。
母が食器を分け、父が「同じ風呂はどうだろう」と呟いた。
愛する人の口からその言葉がこぼれるたび、
わたしは自分の存在が崩れていく音を聞いた。

 

 

 

 

──差別の目は、壁だった。
透明なのに、どこにでもあった。
学校に、職場に、病院に、家庭に。
そしてその壁は、わたしの心を何度も突き刺した。

 

 

 

 

黙っていても、目は追ってくる。
言わなくても、視線が口を塞いでくる。
差別の目に見られ続けることは、沈黙の中で死んでいくことと同じだった。





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第6章 
仲間と出会う

 

 

 

 

沈黙の檻に閉じ込められて、わたしは長い間「一人」だと思っていた。
誰にも言えず、誰にも理解されず、声を出せば差別される。
だから沈黙を守り続けるしかなかった。
その沈黙の中で、心は何度も折れそうになった。

 

 

 

 

けれど、ある日、一枚の紙切れが届いた。
「わたしも感染しました。誰にも言えません。でも、生きたいです」
その文字を読んだ瞬間、胸の奥で凍りついていた何かが震えた。
「わたしだけじゃなかった」
紙に書かれたたった一文が、孤独を少しだけ溶かした。

 

 

 

 

小さな集まりがあった。
カーテンを閉め切った公民館。
互いに名前を呼び合うこともなく、ただ顔を伏せながら座る。
最初は沈黙しかなかった。
だが、一人が震える声で言った。
「薬を信じたのに、感染しました」
その瞬間、堰が切れたように次々と声が重なった。
「子どもに言えない」
「職場を追われた」
「誰にも抱きしめてもらえない」
涙と声が交錯して、部屋は静かな嗚咽で満たされた。

 

 

 

 

その場で初めて、わたしは「一人ではなかった」と知った。
沈黙させられていたのは、わたしだけじゃなかった。
同じように声を奪われ、同じように震えていた仲間がいた。

 

 

 

 

匿名の手紙、隠れた集まり、震える証言。
それらが少しずつつながり、運動の芽になっていった。
新聞社へ投書を送る人もいた。
「これは事故じゃない。国と企業は責任を取るべきだ」
小さな記事は数センチの紙面だったが、わたしたちの心を奮わせた。

 

 

 

 

仲間に出会うことは、恐怖でもあった。
「自分の名前が漏れたらどうしよう」
「ここにいることが知られたら、また差別される」
そんな不安を抱えながらも、
それ以上に「共にいる」という事実が支えになった。

 

 

 

 

──沈黙の中で、声は確かに芽吹いていた。
まだ小さく、震えていたけれど、たしかに芽はあった。
「生きたい」「声を取り戻したい」
その願いが、わたしを再び立たせた。

 

 

 

 

仲間と出会ったその日、わたしは初めて心から思った。
「わたしは一人じゃない」と。





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第7章 
番号で呼ばれた

 

 

 

 

裁判所の廊下は、静かだった。
けれど、その静けさは死んだ空気ではなく、
恐怖と決意が張り詰めた沈黙だった。

 

 

 

 

わたしはそこに並んでいた。
帽子を深くかぶり、マスクで顔を隠し、視線を落としたまま。
隣にいる人も、同じように顔を隠していた。
誰も名前を呼び合わない。
名前を出した瞬間、すべてを失うからだ。

 

 

 

 

「原告番号一番」「原告番号二番」
呼ばれた声が廊下に響く。
そこに「名前」はなかった。
わたしは「番号」として立たされた。
人間ではなく、ただの事件の一部。
それでも、その番号はわたしの命を代弁していた。

 

 

 

 

法廷に入ると、冷たい視線が突き刺さった。
裁判官、弁護士、記者たち。
彼らにとって、わたしは「データ」であり「事例」だった。
「因果関係は証明されていない」
「当時は仕方なかった」
そう言う声を聞きながら、わたしは証言台に立った。

 

 

 

 

「わたしは、薬を信じただけでした」
「生きるために打っただけでした」
声は震えていた。
喉が塞がりそうだった。
それでも言葉を吐き出した。
叫ばなければ、ここにいる意味が消えてしまうから。

 

 

 

 

廊下に戻ると、仲間が待っていた。
誰も言葉を交わさない。
けれど、うつむいた横顔に涙の跡を見た。
その涙が、わたしを支えた。
「一人じゃない」──その確信が、足を動かし続けさせた。

 

 

 

 

けれど、外に出ると、カメラが待っていた。
フラッシュが顔を焼き、「エイズ原告」という言葉が飛び交った。
わたしは顔を覆い、ただ歩いた。
沈黙しか許されなかった。
けれど、その沈黙の歩みこそが、社会への訴えだった。

 

 

 

 

番号で呼ばれたわたし。
名前を奪われたわたし。
けれど、その番号の背後には、確かに「わたし」という存在があった。
そしてその存在を消させないために、廊下を歩き続けた。

 

 

 

 

──あの日、わたしは番号だった。
でも、沈黙させられても、震えは番号に閉じ込められなかった。
震えは声になり、廊下を満たしていた。





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第8章 
影の正体

 

 

 

 

法廷の中で、わたしの声は小さすぎた。
叫んでも、震えても、
机の向こうに座る人たちは耳を傾けようとしなかった。
彼らの口から出てきたのは、冷たい言葉ばかりだった。

 

 

 

 

「科学的に因果関係は証明されていない」
「当時は最善を尽くした」
「すぐに切り替えることは難しかった」

 

 

 

 

わたしの人生は、その言葉の一行に押し潰された。
血を流し、未来を奪われ、差別に晒されてきた日々が、
「仕方なかった」のひとことで処理される。
その瞬間、わたしは人間ではなく、ただの数字にされた。

 

 

 

 

国の官僚たちは、机の上に書類を広げていた。
そこには「危険」と書かれた資料もあったはずだ。
世界ではすでに加熱製剤が使われていた。
それでも日本では出荷が止められなかった。
なぜか。
──在庫が残っていたからだ。
命よりも、倉庫に積まれた箱が優先された。

 

 

 

 

製薬会社は利益を守った。
「まだ売れる」「まだ使える」
そう言って非加熱製剤を出荷し続けた。
その間に、わたしの体にはウイルスが入り込み、
未来をひとつずつ壊していった。

 

 

 

 

医師の一部も、この影の中にいた。
「出血死する方が怖いだろう」
「だから薬を続けなさい」
そう言われれば、わたしは従うしかなかった。
だって薬をやめれば、その場で死ぬかもしれないのだから。
医師の言葉は、信じるしかなかった。
でもその信じた行為が、わたしを蝕んだ。

 

 

 

 

──影の正体は、過失ではなかった。
知っていながら、止めなかった沈黙。
それが影の正体だった。

 

 

 

 

国は知っていた。
企業も知っていた。
医師も一部は知っていた。
「危険がある」「世界はもう切り替えている」
それでも誰も声を上げなかった。
「今は言えない」「今は動けない」
その沈黙の一つひとつが、わたしの命を削っていった。

 

 

 

 

わたしが沈黙を強いられたのは、社会の差別だけが理由ではなかった。
権力を持つ者が沈黙を武器にしたからだ。
書類で押し潰し、専門用語で囲い込み、資料の山で真実を隠した。

 

 

 

 

──影の正体。
それは、わたしの命の重さを知りながら、目を逸らした人間たちの沈黙だった。
その影は冷たく、長く、わたしの背後から未来を奪い続けた。

 

 

 

 

けれど影が濃くなるほど、わたしの中の声は強くなった。
「黙らされてたまるか」
その震えが、沈黙を裂く刃になろうとしていた。





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第9章 
謝罪を聞いた日

 

 

 

 

1996年3月29日。
あの日のことを、わたしは今でも体の奥で覚えている。
裁判所の空気は重く、長い闘いの果てにようやく迎えた和解の場。
傍聴席に座ったわたしの手は汗で濡れていた。
隣の仲間も、顔を伏せたまま小刻みに震えていた。

 

 

 

 

壇上に立った厚生大臣──菅直人。
テレビのカメラが向けられ、記者のペンが走った。
その瞬間、彼は深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
その一言が、会場全体を震わせた。

 

 

 

 

わたしの胸に熱いものが広がった。
「ようやく届いた」と思った。
十年以上、黙らされてきた声が、
初めて正面から受け止められたように感じた。
涙が勝手に溢れた。

 

 

 

 

けれど同時に、心は裂かれていた。
「今さら何になる」
「死んでいった仲間は戻らない」
「十年もの沈黙を、どう償うのか」
謝罪は確かに響いた。
でも、その重さは足りなかった。
あまりにも奪われたものが大きすぎた。

 

 

 

 

わたしの頭の中に、名前も顔も出せなかった仲間の姿が浮かんだ。
「番号」で呼ばれたまま、声を出せずに亡くなっていった人たち。
裁判の廊下を歩けなかった人たち。
その人たちの分まで、この「ごめんなさい」を聞いていいのか。
そんな思いが、涙と一緒に溢れた。





けれど、やっぱり変わったのだ。
国が謝った。
権力の口から「間違いだった」という言葉が出た。
それは社会が初めて、
「わたしたちの声を無視できない」と認めた瞬間だった。

 

 

 

 

仲間と廊下を歩きながら、わたしは呟いた。
「終わりじゃないな」
和解はゴールじゃない。
薬を飲む毎日は続くし、副作用は容赦なく体を蝕む。
差別もすぐには消えない。
でも、謝罪の言葉が沈黙を破ったのは確かだった。

 

 

 

 

──謝罪を聞いた日、わたしは複雑な震えに包まれていた。
許せなさと、救われた感覚と、怒りと、安堵。
矛盾した感情が渦巻きながらも、ひとつだけ確かなことがあった。

 

 

 

 

「わたしたちの声は、消えなかった」

 

 

 

 

あの日の謝罪は、その証明だった。





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最終章 
それでも生きる

 

 

 

 

和解が終わっても、わたしの人生は終わらなかった。
むしろそこからが本当の闘いだった。

 

 

 

 

毎日、決まった時間に薬を飲む。
小さな白い錠剤。
それは「命の証」であり、「病の証」でもあった。
飲み忘れれば、ウイルスはすぐに体を支配する。
飲み続ければ、副作用が内臓を蝕む。
頭痛、吐き気、手足の震え。
未来をつなぐはずの薬が、同時にわたしの体を壊していった。

 

 

 

 

社会の目も消えなかった。
「エイズなんだろう?」
その一言で、空気が変わる。
職場で避けられ、友人に連絡が途絶え、
結婚を考えた人に背を向けられることもあった。
差別は和解で消えはしなかった。
それは影のように、今もわたしの後ろをついてきた。

 

 

 

 

それでも、わたしは生きた。
愛する人に告白した。
「わたしはHIVを持っている」
震えながら言ったその言葉を、涙を流しながら受け止めてくれた人がいた。
「一緒に生きよう」と言ってくれた人がいた。
その瞬間、わたしの沈黙は少しだけ砕けた。

 

 

 

 

子どもを抱きしめたとき、涙があふれた。
「この手で抱けるとは思わなかった」
温もりが、沈黙の十年を一瞬で越えていった。

 

 

 

 

仲間も生き続けていた。
薬を飲み、副作用に耐え、時に体を壊しながらも、
「それでも生きよう」と顔を上げた。
裁判で声を上げたときの仲間の足音が、今も胸に響いている。
「わたしたちは番号じゃない」
「ここに生きている人間だ」
その叫びが、今のわたしを支えている。

 

 

 

 

──それでも生きる。
それは簡単な言葉じゃない。
体はいつも疲れていて、未来の不安は消えない。
差別はしつこく、薬は容赦なく副作用を与える。
でも、そのすべてを抱えながら、わたしはなお「生きたい」と願う。

 

 

 

 

沈黙に押し込められたわたしの声は、もう閉じ込められない。
この体が震える限り、この声は未来に残る。

 

 

 

 

「わたしは生きていた」
「奪われても、黙らされても、生き抜いた」

 

 

 

 

それが、わたしの誇りだ。
誰にも消せない、沈黙を越えた証だ。

 

 

 

 

そしてこの声は、次の誰かに届くだろう。
今も沈黙の中で震えている誰かに。
「あなたは一人じゃない」と。

 

 

 

 

──わたしは、生きている。
それでも、生きている。





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あとがき

 

 

 

 

わたしは、長い間、沈黙の中で生きてきた。
声を出せば失う。
黙れば壊れる。
そのどちらかしか選べない場所に立たされていた。

 

 

 

 

でも、この本に書き残したのは、沈黙ではない。
わたしの中で震え続けていた声だ。
「薬を信じただけだった」
「生きたかっただけだった」
「人間として愛され、認められたかった」
その言葉を、やっと渡すことができた。

 

 

 

 

わたしは番号で呼ばれた。
名前を出せば差別され、追い出される社会の中で、
声を奪われた。
でも、その沈黙の奥には、確かに「わたし」がいた。
震えながらも生き抜いたわたしがいた。

 

 

 

 

謝罪を聞いた日、涙は溢れたけれど、許しではなかった。
仲間の命は戻らない。
失われた日常も帰ってこない。
それでも──「わたしたちの声は消えなかった」という証明になった。

 

 

 

 

今も病は消えていない。
薬を飲み、副作用に耐え、社会の視線を受けながら生きている。
けれど、もう黙らされることはない。
この声は、未来へ残すためにある。

 

 

 

 

わたしは、一人ではなかった。
仲間がいた。
同じように沈黙を強いられ、同じように震えていた仲間がいた。
その存在が、わたしを生かしてくれた。

 

 

 

 

だから、この記録は「わたし」だけのものではない。
沈黙の中に置き去りにされたすべての人たちの祈りであり、証だ。

 

 

 

 

どうか、これを読んだあなたが、
同じように沈黙に苦しむ誰かの声を聞いてくれるように。
どうか、もう二度と、誰かが声を奪われないように。

 

 

 

 

わたしはここにいる。
沈黙ではなく、声として。
震えを遺し、生きた証として。

 

 

 

 

──美稚子
心からの感謝をこめて。
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※この作品は、誰かの“言えなかった震え”を翻訳した記録です。
誰かを救うための共有は、もちろん構いません。むしろ大歓迎です。
ただし、作品の一部や構造を無断で流用・改変しないでください。
美稚子は“わたしではない他者”の声を、媒体として翻訳しています。
この声を、そのままの形で、必要な人へ届けていただけたら嬉しいです。
もしよろしければ、ご意見やご感想、コメントもお願いいたします。






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美稚子   michiko 美稚子は、社会や歴史に埋もれた「声にならなかった震え」を代弁し、祈りとして言葉にしています。 頂いたチップは、その声を紙書籍化するために大切に使わせていただきます。 紙の本にして、学校や図書館、病院や福祉施設に届けます。 あなたの温かい応援が、誰かの心に届く祈りになります。