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千郷の歴史 いろはかるた「た」

~田峯より迎えし若君 定則公~

だみねより むかえしわかぎみ さだよりこう

ここ、千郷の地に長らく続いた富永氏の繁栄は、応仁の乱とともに菅沼氏・奥平氏らの勢力に押され領地も縮小の一途をたどり、1505年、後目を継いだ幼き千若丸が自刃すると、富永氏一族からの後目相続が難しくなりました。そこで、家臣の今泉四良兵衛は、田峯の菅沼家から三男「竹千代」をもらい受けるべく単身で田峯城に向かい、田峯城主・菅沼定忠から許容をうけ、竹千代を連れて野田に向かいました。
途中山村(中田)まできて、野田の様子を覗ったところ、まだ談議がまとまらず若君を迎えるどころではなかった。
そこで、「中島市兵衛」の屋敷に新邸を作り時を待つこととなりました。

田峯城から、野田城までの距離はおおよそ30km~40km
早朝、籠に乗った竹千代が野田城を見下ろす山村に着いたのはおそらく日も傾きかけるころであろうと推察・・・。

「若君、お疲れであったろうと思いまする」
「ここが、今日からの若のお住まいでござりまする」

こんな言葉が浮かんできます。

まだ、長篠城は有りませんでした

時に1505年、11月。
付き添ってきたのは、城所助之丞、塩瀬甚兵衛、菅沼権之丞の三人、城所助之丞は南に700m、塩瀬甚兵衛は東に700mの場所に屋敷を構え、竹千代の守りとしました。
竹千代の仮住まいには新しく井戸が掘られました。
(いろはかるた「わ」で紹介しています)

またまた推測します。
今泉四良兵衛達は、野田城受け入れの話し合いが長期化すると思ったのではないかと・・・。
急いで井戸を掘る
15~20mぐらいは掘ったのだろうと思います。
付き添ってきた家臣たちが、働き手(人足)を募る。
おそらく、この辺り一帯大騒ぎであったろうと思われます。

年内に話がまとまることが無く、年が明け、元旦の儀式も仮住まいでおこなわれたようです(村史)

竹千代が野田に入ったのは、2月。
たった3カ月の仮屋敷は、この後「殿垣内」と呼ばれ、後のち江戸時代まで、若水を汲む神聖な井戸のある館として大切にされてきました。

竹千代は、野田館に入り、二年後元服、
「菅沼新八郎定則」と名のり、奥平氏の娘を娶り「織部正」と号した(村史)

以後、定村・定盈と代々続く野田管沼氏の初代城主となりました。

家臣団は、
今泉四郎兵衛を筆頭に、今泉小十郎、菅沼権之丞、城所助之丞、塩瀬甚兵衛、半田藤十郎など。彼らは一丸となって菅沼の若君を盛り立てていったのです。
竹千代がすんなりと野田館に入っていたら、殿垣内に井戸もなく、周囲に屋敷もたっていなかったのではないかと思うと、感慨深いものがあります。

参考:
菅沼の若君が田峯から野田に入ったころ、この一帯は今川領でした。
1505年を機に、今橋(豊橋)に城が出来、田峯の菅沼定忠の長男・菅沼定継が大谷城を構え、他の地域にもポコポコお城が出来ました。


そして、現在の新城城は、これよりも少し後に築城されます。

歩いて、見て、言葉にする
千郷の歴史を いろはかるたに(制作中)
次回は、「れ」です。

参考文献:千郷村史