見出し画像

親ガチャに外れた私の話を聞いてくれ!

 親ガチャに見事に外れた私の話を聞いてくれ。

 あ、その前に一つだけ言わせて!子供を愛せない親は、施設に預けてください。お願いします。(ハァト)

 とある年の、空も高くなり始める九月中旬に私はおぎゃっと産まれた。その時すでに母は離婚してシングルマザーだ。祝福された誕生ではなかったであろう。

 残念ながら天才ではないので、赤ちゃんの頃の記憶は勿論ないが、気付いた時には親戚中をたらい回しにされて生きている子供になっていた。親に愛されていない、親族からも邪険にされている可哀想な子供の定番だ。

 親ガチャに外れた可哀想な子供は、当たり前のように母の愛を渇望するようになる。
 一緒に暮らしていなくても、愛されなくても、母親を求めて愛してしまうのだ。
 本当、残念な仕組みだよね。育ててもらえない時点で綺麗さっぱり忘れられたらいいのに。

 もうどの親戚も見てくれなくなって、ようやく母と一緒に住めるようになった。その時小学三年生後半。ちなみに三つ上の姉も一緒だ。

 初めてちゃんと一緒に住む母との生活に浮かれていた。嬉しいのに恥ずかしくて、とても緊張していた。
 けど、日々の暮らしの記憶はほとんどない。望んだ愛のある暮らしではなかったとだけ言っておこう……

 四年生になった頃、母が交通事故にあったと聞かされた。だから私達の事はもう育てられないと言われた。
 もう地元の親戚は見てくれない。母も育てられない。そうなったらどうなる?新しいステージに突入だ。私と姉は他県に住んでいる父の元へ行かされる事になった。

 父の元へ旅立つ日、見送りに来てくれた母の首には白いコルセットがハマっていた。子供心に大層心配したのを覚えている。お母さんと離れて悲しいけど、大好きなお母さんの身体が一番大事だ。と。

 そうして父の元へ送られた私と姉。到着した父が迎え入れてくれたのは、3LDKの平屋だった。そして、そこには父の他にも父の妊娠中の彼女がいた。

「え~」である。聞かされてなかったよ……
 妊娠中の彼女からしても「え~」だろう。突然血の繋がりもない子供二人と一緒に住むなんて、かなりのストレスに決まっている。

 それで、どうなったかと言うと……
 一週間も経たないうちに父の彼女が嫌がって、父も彼女も家に帰ってこなくなった。
 映画で見たような、完全なるネグレクト。子供達だけでの生活の始まりである。

 いや、もうあり得ないよね。施設に預けてくれたら良かったのになんで放置するのさ。

 最初は行っていた小学校もある時から行かなくなった。だって行かなくても怒る人は誰もいないんだもん。
 寂しさからか、四年生にもなって夜尿症になった。お風呂もたまにしか入らなくなった。学校同様怒る人がいないんだもの。
 おねしょプラス風呂キャンで、私の身体は臭い爆弾みたいになっていたはず。

 そして夜になると一人で散歩に出かけた。確かいつも二十二時から二十四時ごろだったと思う。
 近所の住宅街を徘徊し、家の裏にあったお墓に座り空を眺めた。

 今思うととても罰当たりだし、怖いもの知らず過ぎる。そして星空を眺め、月に祈っていた。

「お母さんが早く元気になって、また一緒に暮らせますように」と。

 でも、今思うとその時の私はもう精神状態がおかしくなっていたと思う。

 押し入れは地獄と繋がっていて、死神がずっと押入れから自分を見つめているという妄想に駆られていたから。
 絵を描く事が好きだった私は、スケッチブックを取り出しては絵を描いた。押入れから繋がる地獄の絵を、私を見つめる死神の絵を。沢山、たくさん描いた。

 地獄なのは押入れの中ではなく、自分がいる現実なのにね。
   地獄と死神の絵を描き続け、夜中に散歩に行く小学四年生女子。

 私やばすぎる。

 その頃姉はどうしていたかと言うと、中学一年の多感な頃で、寂しくてわんわん泣き、ワガママを言う私をバシバシ叩いていた。
 姉はその事を何も言わないので覚えていないのか、あえて言わないのか分からないけど。

 私自身も強烈に心に残っている事は覚えているけど、脳みそがシャットアウトしているのか日々の暮らしはほぼ覚えていなかった。

 調味料もなかったので小麦粉を水で溶いて焼いただけのやつや、道端の草を食べた記憶があるけどね……不味すぎて記憶に残ってます。笑

 姉に聞いたら私よりしっかり覚えていて、たまに家に置いていかれる缶詰を食べて生きていたらしい。ペットか!そして稀にご飯が置いてあったらしい。うん、やっぱりペットだ。

 そんな暮らしが一年以上続いた。よく死ななかったなぁと自分でも思う。そんな生活に終止符を打ったのは、叔母からの電話だった。

「元気にしてる?」と何気ない普通の電話。

 なんて答えたのか全く記憶にないが、子供達だけで生きていると伝えたのだろう。そこで初めて、私と姉が子供達だけで暮らしていると親戚が知ったのです。

 何があったかは分からないけど、きっと母は親戚中から怒られたのだろう。急に母が私達を引き取る事になった。

 でも、交通事故に遭って働けないから育てられない。と言っていた母は、なんと私達が居ない間に再婚していたのです。

 まー、本当だったのかも分からない交通事故は言い訳で、本音は再婚するのに私達が邪魔だったのだろう。早く良くなるようにと祈っていた子供心は十分に傷つきました。

 そんな歓迎されない状況で母の元へ。しかし、新しい父はアルコール依存症で、毎晩酒を飲んでは暴れる人だった。

 ええ、まさかの『地獄からグレードアップした地獄へようこそ』である。

 毎晩繰り広げられる暴力。破壊音、怒鳴り声。暴力に震え、泣きながら布団に潜る日々。正直こんな生活なら姉と二人暮らしをしていた方が良かったと思うほど。

 義父から逃げた事もあるが結局戻り、DVの繰り返し。母は義父を庇い、義父の為に生きていたと思う。
 私はまともな食事も与えられなかった。夜ご飯はインスタントラーメンかパン。義父には酒のつまみの食事が作られる。
   そう、一緒に暮らしていても私は全く愛されなかった。毎晩暴れ、暴力を振るう義父に子供を愛さない母親。私の居場所はどこにもなかった。

 しかし、中学二年生になった私は不良っぽい子達と仲良くするようになった。

 夏休み前に教師が『中学二年は反抗期だから』と言ったのを聞いて『そうか、中学二年生になったら反抗していいんだ』と思ったのがきっかけだ。

 自分で言うのもなんだが、本を読むのが大好きで根が真面目だった私は、とてもとても純粋だった。

 それに、ちょうど母が大嫌いな義父の子供を妊娠した時期で、私の心は複雑に荒れ狂っていた。
 美術の授業で真っ赤な血の羊水に浮かぶ真っ黒な胎児の絵を描き殴り、先生をドン引きせたのもこの頃だ。

 反抗期を知った私はまず、義父のお財布からお金を抜き取り遊びに行った。そして、バレて義父からも母からも死ぬ程殴られた。なんてわかりやすいオチ。

 不良っぽい友達の家の離れにはプレハブ小屋があり、そこが私の避難所になった。 
   家から逃げる為にその不良っぽいグループと仲良くしていたが、ぽいと言うだけあって特に悪い事はしていなかった。夜家に帰らないくらいだ。

 だが中学三年の後半くらいに、隣の中学のガチヤンキー集団と合流する事になってしまった。
    私は正直、悪い事をしたくなかった。義父のお財布からお金を盗んだが、それは仕返しと反抗のような物で悪い事をしたかったわけではない。

 シンナーもタバコも吸いたくなかった。
 でも、私の避難所がある一番仲の良かった不良ぽい子はどんどん悪くなっていき、隣の中学の子に混ざってとうとうシンナーを吸い始めた。

 私は胸がバクバク。シンナーの入った袋を渡されたが、吸うなんてとんでもない!そう思っていた。でも、このグループから抜けたらまた地獄のような家に毎晩帰らないといけなくなる。私は悩んだ末、吸っている『フリ』をした。タバコもシンナーも、吸っているフリだ。

 でも、ある日『フリ』をしているのが隣の中学のガチヤンキーのお姉さんにバレてしまった……!
 「いつも吸ってないよねぇ?」と。私みたいなチキン野郎の事はほっといてくれたらいいのに。なんで気付くんだよ!
   内心焦ったが、友達を、居場所を失うわけにはいかなかった。
 姉は私より大人だったから上手く耐え、実父に援助をお願いし、高校生で既に家を出ていた。

 そんな状況で友達がいなくなったらどうなる?
   私は一人、地獄の家で義父に殴られ、母に心を壊され死んでしまう。……帰りたくない。
 そんな思いからとうとう『フリ』をやめた。

 本当に嫌だったから、一番最初にちゃんとシンナーを吸った時の事をハッキリと覚えている。吸いたくない。こんな事本当はしたくない。けど、家に帰りたくないから悪いことをする。

「神様ごめんなさい」

 って心の中で何度も謝りながら、シンナーを吸い込んだ。それが純粋だった最後の私。

 美化するつもりはない。私はヤンキーというより、シンナー中毒になった。
   悪い事?自分の身体になら悪い事していいんだよ。完全なる現実逃避。
 ご飯を食べた記憶もない。ガリガリに痩せておにぎり一個も食べきれなくなった。いつ死んでもいいと本気で思っていた。

 でも今でも思う。あの時、不良になる以外に、あの家から逃げて生きる術はあったのか?居場所はあったのか?と。
   タイムマシーンが完成したら過去に戻りたい?みたいな質問がたまにあるよね。私は勿論過去に戻って人生をやり直したい。
   学びたかった事が沢山ある。でもいつの時代に戻ったら安心して普通に学校に通える人生があるのかと真剣に悩んだ。
   今みたいに児相がー、ネグレクトがーって時代じゃなかったから。残念ながら、未だにその答えは出ていないんだ。

 私は中学を卒業してすぐ姉の家に転がり込んだ。しかし隣の中学出身の子達が押しかけ溜まり場へと退化させてしまった。
 更に家にあったヒーターを売り飛ばし姉と喧嘩になり、子供達だけで暮らしていた時に沢山叩かれた仕返しだー!と思い一発殴った。そして当たり前のように追い出された……

 ほんと、なんてやつだ!バカすぎないか私!笑
 行き場がなくなった私は野宿したり友達の家に泊まっていたが、ある日街で知り合った三歳年上のイケメン男性の家に転がり込んだ。

 その子は家が不動産屋でお金持ち。十八歳だったけど、一人でアパートに住んでお小遣いで生きていた。 
 そこに転がり込んで、安心できる居場所ができた。が、お察しの通り男もワルである。いつも現実逃避していました。残念。

 十六歳になったある日、久しぶりに中学の頃にいつも家に泊めてくれた友達から連絡があった。それが私の運命を劇的に変える事となる。
 予想外の事故が起こってしまったのだ。
 私は見ていただけだったが、友達は怪我をして救急車で運ばれ、無傷だった私は警察署で保護された。夜だったし、未成年なので保護者が来ないと帰れない。

 仕方ない。迎えが来て外に出たらすぐ彼の家に帰ればいい。
 そう思って待っていた。だが、と言うか、当たり前のように一晩経っても母は迎えに来なかった。

 その時警察官に言われた事を鮮明に覚えている。

「こんな事を本人に言ったらダメなんだけど……おじさんは長年少年課にいるけど、どんなワルでも、あなたよりずっとずっと悪いことをしている子の親でも、必ず迎えに来て頭を下げて連れて帰るんだよ。でもあなたの親は迎えに来るのを拒否したんだ。そのまま少年院に送ってくれと言われた。罪を犯して連れて来たわけじゃないから少年院には入れられないと伝えたら、じゃあそのままどっか施設にでも送ってくれと言われたよ。あなたと話したら分かるけど、本当は素直な良い子だっただろうに。非行に走った理由が分かる気がするよ。ダメな親に当たっちゃったな……」

 そう言って『今お母さんを説得してるから、もうちょっと此処にいてもらう事になるよ……おじさんの愛妻弁当たべな』と、お弁当を差し出してくれた。
 涙を拭きながら愛妻弁当を食べ『やっぱり私のお母さんは普通じゃないんだな』とぼんやり思った。

 結局、説得されたはずの母は来ず、迎えに来たのは親戚だった。彼の所に帰る事は許されず飛行機で一時間はかかる、遠く離れた土地に住む親戚が私を引き取る事になった。

 付き合っている友達や彼氏と引き離せば良いと警察にアドバイスを貰ったらしい。
 その親戚は引き取り手のなかった私を可哀想に思い、受け入れてくれたのだ。
 その親戚は姉との完全ネグレクト生活に終止符を打ってくれた、面倒見の良い叔母さんの家族だった。

 十六歳の私はそのまま親戚の家に飛ばされ、叔父さん、叔母さん、子供達二人との生活が始まった。
 でも私は友達にも彼氏にもお別れが言えなかった事で酷く落ち込み塞ぎ込んでいた。

 最初の三日くらいは軟禁状態だったが、叔母が彼氏と友達にお別れの電話をして良いよと言ってくれた。

 そこで張り詰めていた私の心が綻んだ。すぐに電話をして、友達の無事を確認して、彼氏にも説明してお別れを言えた。
 めちゃくちゃ泣いたけど、悪い仲間から引き離したら更生する。は正しかったのです。

 特に私の場合、不良になった理由が自分の居場所の為、安心して過ごせる場所が欲しかったから。だったので、そりゃぁもう速攻で更生しました。語る事もないほど秒よ!

 全く記憶にないんだけど、叔母さんが手作りの晩ご飯を出した時、私は大号泣したそうな。

「こんなちゃんとした温かい手作りのご飯は初めて食べる」

 と。十六歳が言うセリフか?母さんよぉ……

 叔母さんのパート先で働き始め、ちゃんとしたご飯が食べられる毎日。小学生の子供達二人と夢中になってアニメを見て、全員で食卓を囲む。
 温かいご飯を食べ、叩かれる事も、怒鳴られる事もない。孤独を感じる事もない。押入れから死神が見ているなんて妄想に駆られる事もない。

 安心出来る居場所を得てようやく、私も『普通』の生活ができるようになったのです。

 叔母さんに勧められて、初めての給料で母へのプレゼントを送った。警察にも同情されるほど私を拒否する母へ、それでも愛を渇望し自分から歩みよったのだ。

 完全に更生していた私は、十八歳でひとり立ち。地元に帰っても、悪い仲間と連絡を取る事はなかった。

 しかし、私は自分でも気づかない、ネグレクトされて育ったゆえの後遺症が発症していたのです。
 それは、好きな人から捨てられる前に逃げたくなる衝動。好きであれば好きであるほど逃げたくなると言う。そう、愛着障害。

 もう、どうしようもねぇ!

 彼氏と一緒に暮らしていたんだけど、ある日彼氏がホストで働き始めちゃったんですよ。ホストってあのホストクラブです。可愛いおねぇさんが来るとこ。

 私には絶対お店に来ないように。と言っていたけど、そりゃーもう気になるから一回行ってしまった。

 めちゃくちゃ可愛い女の子が彼氏を指名していて、不安しか無くなった私は……捨てられる前に逃げた。二十歳の時だ。

 荷物全部持って、違う県まで逃げた。 
 家に帰ってきて、荷物がない事に気付いた彼氏はポカーンだっただろう。

 私はその人の事が好きすぎたのです。地元に戻っては復活し、でもやっぱり怖くて逃げ出すのをなんと三十歳まで繰り返した。 

 三十歳で別れる時、さすがにもう二度と連絡しないと誓ってお別れをした。 
 もう少し早く愛着障害という言葉を知っていれば、まだ対処法があったかもしれないのに。
 そうして私は人生で一番好きだった人を手放したのだ。

 なんてこった……!

 二十歳から三十歳までの彼と別れている間、彼以外の人とも数人お付き合いをした。
  逃げはしないけと、わざと嫌われるような事をしてしまう。愛される自信がないから、自分から関係を壊しに行く「試し行動」を繰り返した。我ながらめんどくさいやつだ。

 そして、後遺症は友人関係や職場でも牙を剥いた。
 付き合いが深くなると、『本当の自分がバレたら嫌われるのではないか』と不安が出てくる。合わせて、踏み込んで欲しくない境界線に踏み込んでこようとする友達を拒絶した。

 仕事も辞めて、スマホの番号も変えて、借金してまで引越しする。リセット症候群発症だ。友人も彼氏も綺麗さっぱりさようなら。

 こうやって冷静に見ると愛着障害といい、リセット症候群といい、後遺症って行動力だけはめちゃあるよね……!

 それと、これも後遺症だと思うんだけど、私は心が育つのが皆より十歳以上遅れていると思う。

 自分以外の人が、それぞれの人生がある人間だと気づいたのは二十二歳の時だ。小学生でも分かるだろうに……

 いつしか私は自分の事しか信用できない人間になった。
 自分の事を好きだと言って寄ってくる人を気持ち悪く感じるようになった。そして、自分の事に興味がない、自分の事を本気で好きじゃない遊び人を好きになった。

 破滅的思想まっしぐら。

 他人と上手く付き合えない。愛されるのが気持ち悪い。
 そんな私だと、夫どころか子供を愛せる自信もなかった。
 このままじゃ母と同じ事をしてしまうかもしれない。そんな恐怖もあった。
 だから、子供は産まないと決めた。

 そんな感じで生きているけど、意外と思うかもしれないが、性格は明るい方だと思う。
 母の事も大人になっても愛を求めてはいたが、恨んではいなかった。
 おかげで昔非行に走っていただの、暗い過去があるだの、絶対そんな風にはみられない。 

 外を歩けば鳥のフンが落ちてくるような人生だったのに、強運で育ちが良さそう。と言われたりする。

 まあ、ある意味強運だったのよ。

 義父は酒が祟ったのか、比較的若くして命を落とした。母は義父との子供がいたが、父親がいたからか、私と姉の時と違いちゃんと育てた。

 歳の離れた義妹の事は可愛いと思うし、一発殴った姉とは和解して、地獄のような日々を一緒に生き抜いた固い絆がある。

 母とはいい関係の時もあったが、やはりダメだった。大人になっても愛を求めていた私。

 私だけ他県に住んでいるからか、自分だけ感じる疎外感があった。母が体調が悪く入院していた事を、私だけに教えてくれていなかった。
 もしそのまま命を落としていたとしたら、私だけ死んだ後に聞かされるのだ。納得できるはずもない。

「私も家族なのにどうして教えてくれないの!?(中略)私なんてもう家族じゃない!」

 と、泣き叫んだ。それが母の気に障ったらしい。

 完全にシャットアウト。その後、姉から子供の時の写真全てを渡された。母の家にあった私の写真。母がもういらないものとして、姉の手から私に渡されたのだ。

 普通、もう大人になったとは言え、自分の子供が『どうして私には病気である事を伝えてくれないのか?』と言う理由で気持ちが高ぶり『もう家族じゃない』と言ったら、『ごめんね、今度からちゃんと言うね』で終わりじゃないだろうか?

 でも母は違う。家族じゃない?じゃぁ他人ね。って事だ。

 大人になっても、捨てられたと思った。思い出を全て捨てた行為は完全なる拒絶だと解釈した。
 アルバムが入った袋は開ける気にもならず押入れに押し込んだ。
 そのアルバムが引き金となり、初めて母への恨みが堰を切ったように溢れ出した。

 今、孤独なのは母のせいだ。人を信用出来ないのも、上手く人を愛せないのも、子供を諦めたのも全て母のせいだ。
 初めて生まれた母への恨みは、止まる事はない。恨みを書いて送りつけて死んでやろうと本気で思った。

 子供の頃から求め続けていた愛情が大きかった分、母への恨みは消える事がない。自分が負の感情に蝕まれていくようだった。
 そんな日が数日続いた。たった数日なんだけど、誰かを心から恨むのってキツイ。

そんな時ふと目についた、有名な縁切り神社。

 ちょっと突然スピリチュアルな方向に行ってしまったぞ!やばいぞ!と思うかもしれませんが、その縁切り神社の名前をやたらと見るようになったのです。
 スピリチュアルが苦手な人には申し訳ないけど、本当に不思議だった。

 もちろん自分しか信用してない私。でも、なんとなく気休め程度に行ってみようかな?くらいの感覚になり、家からそう遠くないとても有名な縁切り神社に行ったのです。

 母との縁を切って。ではなく、母への恨み、執着との縁を切って下さいとお願いした。

 するとどうでしょう、嘘みたいに、私の中からスッカリ母への恨みが消えたのです!なんと言ったらいいか……存在そのものとは違うんだけど、母は完全に他人であり、関係のない人物。遠い存在。まぁ言わば宇宙人みたいな感じになった。

 脳みその処理、アップデートの為か、神社に行った日と翌日は鬼のように眠たかったけど効き目はばっちり。人間の脳みそって本当に凄いよ!

 恨みって何?状態だ。 
 私が中学の時と変わらず、純粋な心の持ち主だからかもしれませんが!笑

 それでなんだけど、ようやく自分と向き合えるようになったのかな。 
   自分の生きづらさがネグレクトの後遺症だと客観的に理解できてからは、リセット症候群も試し行動も改善された。全てを乗り越え、今では信用出来る居心地の良い友人もいて楽しい毎日を過ごしている。

   正直私は自分の生い立ちや半生を、人に知られるのは嫌だった。特に今の私を知っている人達には絶対知られたくない。
 だから、自分の事を書くつもりなんてなかった。でも母への想いが吹っ切れた今、人とはちょっと違う人生を歩んだし、虐待されて死んでしまった子供のニュースを見る度に心が痛んでいたので……せっかくだから書き残してみようと思い、こうやって書いている。

 ネグレクトで命を落とす子供もいる。実の親や義理の親に殺される子供もいる。
   生きている私は運が良かった。もしくは、言うほど大した事はなかったのかも。
 それでも、ネグレクトと義父のDVと言う地獄を生き抜いた私だからこそ、言える事がある。

 ネグレクトされていたり、DV家庭だったり、居場所を求めて家出をしている。そんな子達がいたら然るべきところに勇気を出して相談してほしい。

 多分、私みたいにやりたくないのに悪い事をしてる子もいると思う。助けてあげたいけど、私には何の力もなくて助けてあげられないから。昔と違って今は相談できるところがあるから、相談してみて。安心出来る居場所があるって凄いよ!

 あと、子供を愛せない親も然るべきところに相談してください。冒頭でも言ったけど、その辺に捨てたり放置しないで子供を祖母に預けるとか、施設に入れてあげて下さい。

 私は何回思ったか分からない。
 小学生の時、施設に預けてくれていたら。もう少し人を信じて、普通に生きていけたんじゃないかと。施設には施設なりの悩みや苦労があると思う。
  でも、少なくとも死神を常に近くに感じたり、無理矢理シンナーを吸った私はいなかったと思う。

 施設は捨てる場所じゃなくて、生かす場所だもんね。

    最後に試し行動やリセット症候群で悩んでる人へ。私の場合、自分の性格じゃなくて虐待されて出来た心の傷から生まれた障害だったんだ。って理解したら不思議とフッと軽くなった。
   私達の脳味噌は優秀で、自分がまた傷つかないように、警戒してとにかく悪い方に考えて心構えをしちゃう。
   私も軽くなったとは言え、ネガティブな考えに支配されそうになる時もある。
    そんな時は「優しい脳みそちゃんありがとう。そんなに警戒しなくても私はもう大丈夫だよー」って心の中で脳みそに声を掛けています。よかったら試してみて下さい。

   そんなこんなで、自分の半生と思うところを書いてみたけど、少しでも私みたいな子が減ると良いな。愛着障害になっちゃった人も軽くなりますように。そんな想いで書いています。

 親ガチャに外れた私の話を長々と読んでくれてありがとう。最後まで読んでくれた皆んが身近な人、そして家族を愛して、素敵な家庭を作って幸せでありますように!

#創作大賞2026 #エッセイ部門 #ネグレクト #虐待サバイバー #アダルトチルドレン


いいなと思ったら応援しよう!