づ 『ず』と『づ』同じに見えて違う過去について
『づ』から始まるいい言葉がなく、それならどうして『ず』に統一しないのだろうと思った。
「ず」と「づ」は、現代の標準的な日本語ではほとんど同じように発音される。
耳だけを頼りにすれば、二つを区別することは難しい。
それなのに「三日月」は「みかずき」ではなく「みかづき」と書く。「気付く」も「きずく」ではなく「きづく」である。
なぜ、同じ音に二つの文字があるのか。
もともとは違う音だったからだ。
かつて「ず」と「づ」には発音上の区別があった。それが長い時間をかけて接近し、多くの地域で同じように発音されるようになった。
音は同じ場所にたどり着いた。
しかし、出発地点が違う。
だから文字は二つ残った。
「三日月」の「づ」は、そこに「月」があったことを覚えている。「気付く」の「づ」は、「付く」とつながっていることを覚えている。
同じに聞こえるものにも、違う過去がある。
これは、言葉以外にも当てはまる。
たとえば会社に同じ役職の二人がいる。
名刺だけ見れば同じ「部長」かもしれない。
一人は新卒から二十年かけてそこまで上がってきた。もう一人は別の会社で経験を積み、中途採用で入ってきたのかもしれない。一度会社を辞めて戻ってきた人かもしれないし、望んでいた仕事とは違う場所を転々として、偶然そこへたどり着いた人かもしれない。
現在地だけを見れば、同じである。
しかし、そこまでの道はまったく違う。
成功者についてもそうだ。
同じ「売れた芸人」という場所にいても、賞レースで一夜にして知られた人と、何年もテレビの端に映り続けて徐々に居場所を作った人では、売れることへの感覚が違う。
同じ一千万円を持っていても、生まれたときから裕福だった人と、ゼロから稼いだ人では、その一千万円の意味は違う。
同じ独身でも、結婚を望んでいる人と、あえて結婚しない人では違う。
状態は、その人を説明しない。
私たちは人を見るとき、どうしても現在地を見てしまう。
肩書、年収、年齢、既婚か未婚か、フォロワー数、学歴。
どれも現在のその人を簡単に分類してくれる。
SNSはそれをさらに加速させた。
プロフィール欄には、その人が「いま何者なのか」は書ける。
しかし、「どうやってそこまで来たのか」を数行で書くことは難しい。
結果として私たちは、他人の人生を完成した商品のように見る。
成功している人は、ずっと成功してきたように見える。
話の上手い人は、昔から話すのが得意だったように見える。
幸せそうな家庭を持つ人は、迷わずそこへたどり着いたように見える。
けれど、人間にも「づ」がある。
今の姿だけからは分からない、以前の形が残っている。
妙に失敗を恐れる人には、大きく失敗した過去があるのかもしれない。
異常なほど準備する人には、準備不足で恥をかいた日があるのかもしれない。
人に優しい人は、最初から優しかったのではなく、自分が優しくされなかったことを覚えているのかもしれない。
現在の性格は、現在だけでできているわけではない。
「三日月」の「づ」が「月」の痕跡を残しているように、人間にも、それまで通ってきた道の痕跡が残っている。
だから、同じ場所にいる二人が同じ行動をしないのは当然なのだ。
ここで「づ」という文字が面白くなる。
効率だけなら「ず」に統一してしまっても、発音上は大きく困らない。
それでも書き分ける。
なぜなら文字は、現在の音を伝えるだけでなく、その音がどこから来たのかまで背負うことができるからだ。
人間を見るときも、本当は同じなのかもしれない。
「今、何をしている人なのか」だけではなく、「どうしてその人になったのか」。
結果だけではなく経路を見る。
それは、その人を肯定することとも、過去を理由にすべてを許すこととも違う。
ただ、現在だけで人間を判断しないということだ。
現代は、結果を並べることが得意になった。
ランキング、偏差値、年収、再生回数、フォロワー数。
横一列に並べれば比較できる。
しかし、比較できるようになった瞬間に切り落とされるものがある。
そこへ来るまでの時間である。
「ず」と「づ」は同じように聞こえる。
でも、同じではない。
違う場所から出発し、違う歴史を通り、たまたま現在、同じ音になった。
人間も案外そうなのだと思う。
現在地が同じだからといって、同じ人生を歩いてきたわけではない。
そして現在地が違うからといって、歩いてきた距離まで違うとは限らない。
「づ」という小さな文字は、そのことを忘れない。
同じに聞こえるものにも、違う過去がある。
そして、違って見えるものにも、同じくらい長い過去がある。
