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ぢ ぢっと手を見る

「はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る」

石川啄木『一握の砂』のあまりにも有名な歌である。

この歌が百年以上たった今でも妙に生々しいのは、「働いても生活が楽にならない」という部分だけではないように思う。

最後に、手を見る。

ここがいい。

誰かを恨むでもなく、社会を糾弾するでもなく、未来に希望を託すでもない。ただ、自分の手を見る。働くために使ってきたはずの手を見ながら、それに見合うものが自分には残っているのかと確かめる。

現代なら、私たちは何を見るだろう。

おそらく、スマホを見る。

給与明細もスマホで見る。銀行残高もスマホで見る。クレジットカードの請求額もスマホで見る。家賃が引き落とされ、サブスクが引き落とされ、電気代が引き落とされる。働いた結果と生活した結果が、すべて数字になって小さな画面に並ぶ。

「ぢっと手を見る」は、「ぢっとスマホを見る」になった。

ただ、啄木の時代と決定的に違うことがある。

そのスマホには、他人の生活まで映っている。

旅行に行った人。いい店で食事をした人。家を買った人。昇進した人。結婚した人。子どもが生まれた人。投資で儲けた人。副業で月収を増やした人。

自分の残高を確認した直後に、他人の成功まで確認できる。

これはなかなか残酷な装置である。

しかも現代では、「はたらけど」の後に続く選択肢が増えた。

給料が足りないなら転職すればいい。副業をすればいい。資格を取ればいい。投資をすればいい。リスキリングをすればいい。発信すればいい。AIを使えばもっと効率化できる。

どれも間違ってはいない。

だからこそ厄介なのだ。

昔なら「働いても豊かになれない」で終わった話が、今では「では、あなたは豊かになるために何をしたのか」と自分へ返ってくる。

社会の問題と自己責任の境界線が、恐ろしく曖昧になった。

働いているだけでは足りない。

働きながら勉強し、資産形成をし、健康を管理し、人脈を作り、市場価値を高める。休みの日には「自分への投資」をする。

いつの間にか、生活そのものが経営になった。

私たちは自分という会社の社長であり、従業員であり、経理担当であり、広報担当でもある。

だから「はたらけど、はたらけど」は、むしろ現代のほうが終わりがない。

仕事が終わっても、自分を成長させる仕事が残っているからだ。

そんな時代だからこそ、「ぢっと手を見る」という行為が妙に新鮮に思える。

手は、数字を表示しない。

フォロワー数も、年収も、市場価値も出てこない。

ただ、自分が今日まで使ってきた身体の一部がそこにある。

パソコンを打った手。ハンドルを握った手。料理を作った手。子どもの手を握った手。誰かを助けた手。何度も失敗して、それでもまた仕事を始めた手。

そこには、給与明細には載らない労働が残っている。

現代は、あまりにも多くのものを数字で確認できるようになった。

便利になった一方で、数字にならないものを「なかったこと」にしやすくもなった。

再生回数が少なければ見られていない。フォロワーが少なければ影響力がない。給料が上がらなければ成長していない。

だが、本当にそうなのだろうか。

啄木は最後に通帳を見なかった。

手を見た。

もちろん、そこに救いがあったわけではない。むしろ救いがないからこそ、手を見るしかなかったのかもしれない。

それでも百年以上たってこの歌が残っていることを考えると、「手を見る」という最後の一行には、数字では測れない人間の実感が封じ込められているように思える。

働いた。

それでも楽にならない。

では、その時間は全部無駄だったのか。

その答えを検索する前に、たまにはスマホを置いてもいい。

そして、自分の手を、ぢっと見る

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