手のひらのイリュージョン(ミステリ小説第3話 舞い降りた鶴)
時刻はもう午前4時になっている。
「本当に不思議な事件ですね」
一緒にいる涼香も、この事態をどう考えて良いかわからぬようだ。
「ともかく今度は、鶴喰詩葉に会ってみよう」
綿引は、そう口にした。2人はエレベーターで1階に降りる。
エレベーターのカゴ内は最初は綺麗に清掃されていたようだが、警察関係者が捜査のために大勢乗り降りしたため、たくさんの足跡が残っていた。
無論その前に、撮影や指紋の調査は終わっている。1階に用意された部屋で、綿引は涼香と一緒に鶴喰詩葉と対面した。
名は必ずしも体を表すわけではないが、詩葉が室内に登場すると、1羽の鶴が舞い降りたような気がする。
そんな凛とした美貌の持ち主だった。
「係長、ヨダレ」
ナノサイズのひそやかな声で、涼香が綿引に近づいて囁いた。
「たらしてねーよ」
詩葉に聞こえないような小声で返答する。
「尊師は、殺されたのでしょうか?」
向かい側のソファーに座った詩葉が泣きはらした目で見ながら、質問してきた。
「まだわかりません。仮にそうだとして、殺した人物に心あたりはありませんか?」
「尊師のような偉大な方を、殺すような人間などおりません。いるとしたら、犬畜生です!」
詩葉は、声を荒げた。尊敬する人間が死んで悲しい気持ちはわかるが、ずいぶん時代がかった物言いだなと、びっくりする。
「では、人の皮をかぶった犬畜生に覚えはないですか?」
詩葉は、しばらく黙っていた。が、やがて、意を決したように唇を開いたのである。
「覚えが、なくもないです」
「その方は、誰でしょう?」
「弓削田(ゆげた)です。不遜にも、尊師の後釜を狙おうとしていた男です」
「蓬莱さんに万一の時があった場合、後継者は誰にしようと教団は考えていたのですか?」
「明確な決定事項はありませんでした。ですが今8歳になる尊師のお坊ちゃんが成長したら、後を継がせたいと尊師は私におっしゃってました。でも、こんなに早く亡くなってしまうと、まだ若いご子息には難しいと思われます。弓削田は教団の幹部です。有能ですが、粗暴な男でもあります」
「ちなみに他に、思い当たる人物はいませんか?」
「真実はわかりませんが、尊師が亡くなって1番得をするのは弓削田です」
「鶴喰さんは昨夜23時から今日の午前2時頃まで、一体何をされてましたか?」
美しい眉が吊り上がり、潤んだ目が、綿引をにらみつける。
「私を疑っておいでですか?」
その口調もナイフのように鋭かった。
「失礼ですが関係者全員に、同じ質問をしています。頭から疑ってはいません。気分を害したのでしたら、申し訳ありません」
横から口をはさんだのは、涼香である。
「仕方ないですよね。刑事さんも、お仕事ですから」
「因果な商売です。殺人だの犯罪だのがある所には、ついてまわる商売ですから」
綿引は述べた。
「しかし、真犯人を逮捕するには必要な過程です」
「綿引さんは、どうして刑事になったんです?」
突然の詩葉からの質問に、警部補は思わず笑ってしまう。
「唐突な問いかけですね」
「尋問ばかりされてるから、たまにはあたしも聴いてみたいと感じたの」
花びらのような詩葉の唇がほころんだ。
「子供の頃大学教授だった僕の父が、何者かに殺されたんです。犯人はわからずじまいでした。温厚な性格で、望遠鏡で星を観るのが好きな父でした。尊敬してました。いつか父のようになりたいと願ってました」
「ごめんなさい。あたし、嫌な事を思い出させてしまって」
詩葉はうろたえた口調になる。
「お気になさらず。それ以来僕は、犯罪を憎むようになりましてね。微力ながらこんな僕でも、治安維持に貢献しようと考えたんです」
「素敵な志です。あなたのような方がいらっしゃるから、東京の治安が保たれてるんですね。でもなんで東京って名前なのかしら? 前から不思議だったんだけど」
「どうしてですかね? 僕は深く、考えた事がなかったもんで。歴史にも興味がありませんし」
綿引は、頭をかいた。
「ちなみに先程の質問ですが、私は1人で寝室で寝てました。だから、アリバイはありません」
「ここのみなさんは共同生活をされてるようですが、鶴喰さんには、個室があるわけですね?」
「その通りです。ここには1階で寝泊まりしている屈強な若い男性だけで構成された21人の親衛隊がおりますが、彼らには個室がありません。21人と言っても当番制ですから、昨夜は7人がいただけで、他の14人は自宅に帰っていましたが」
詩葉がそう説明した。
