神武天皇の東征 吉備高嶋伝承考(笠岡市説)
第 2 回吉備国の郷土史出前講座 サンライフ笠岡 令和 1 年 11 月 19 日
岡山市光南台公民館主催 高島再発見講座 令和 1 年 10 月 26 日報告に補筆
第一章 笠岡市高島の訪問調査報告
1 はじめに
笠岡市高島を調査訪問したのは平成 23 年 7 月と 11 月です。日本先史古代研究会の高島 在住会員、河田浩二氏と薮田徳蔵氏にご案内いただきました。 注目したのは高島おきよ館 の「おきよ」という名前の由来と、河田浩二氏所蔵の青銅剣です。紺谷亮一氏(岡山市立 オリエント美術館)の鑑定では「青銅剣は 3000 年前のイラン製 極めて貴重」です。長さ 75.6cm、重さ 1.2Kg、柄頭に穴のある扇状の突起二つが付いています。実戦用ではなくて 儀礼用と鑑定されています。
安東康宏氏(笠岡市教育委員会)の浅口歴史探訪会秋期歴史 講座『吉備高嶋宮と神武天皇東遷伝説』令和元年 9 月 7 日を補説します。

2 高島興与(おきよ)館の名前の由来
高島興与(おきよ)館は平成16年4月に山本米造氏、河田善治郎氏、河田浩二氏の3人の 世話人によって設立された高島の私設資料館です。島内遺跡からの出土品を集めて展示し ています。高島は神武天皇の東征・吉備高嶋伝承の島です。
2.1 興与と神島神社

元は高島の王泊にあったが現在地に遷座し たとされています。
興与(おきよ)とは神日本磐余彦命(神武天 皇)妃の興世姫命です。神島神社(岡山県笠岡 市神島外浦1706)は、延喜式神名帳に備中小田 郡神島神社とあり式内社です。創建は奈良時 代(726)神亀3年、祭神は神日本磐余彦命
(神武天皇)と興世姫命です。「神武天皇は 日向より東征の砌、吉備高島に8年間駐屯された。その後、海上より熊野に至り大和平定後、橿原(かしはら)の地に第1代践祚の大偉業を成された。妃興世姫命は、部下を率いて当地に駐留され天業を扶翼してこの地に崩御された。近郷住民は命たちの高き尊き御神徳を畏みて一大崇敬産土神と斎き祀っ 1 た。」と。・・・「岡山県神社庁より」
神武天皇の皇后は、『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)」。 『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)、別名、 「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)。神武天皇は、東征以前の日向で吾平津姫を娶り子供も二人いました。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)。神武天皇 の日向在住時に嫁し、手研耳命と岐須美美命を生みました。
興世姫命の記録は神島神社の みです。つまり、笠岡の在地豪族の娘です。在地豪族の娘を妃とすることで、在地豪族を 懐柔していきました。「吉備國の行館(かりみや)の高嶋宮は高島の王泊にあった神島宮 となります。
3 備中古名・黄蕨(きはら)・『陶山系譜』の発見と解析

平成 20 年 8 月 5 日に大井透氏(香川県坂出市)より、『陶山系譜』(瀬戸内海歴史民俗 資料館蔵:香川県高松市亀水町:五色台)の調査を依頼されました。草壁庄の地頭であっ た庄氏は、室町期には備中守護代となり、一族は小田郡北部に大きな力を持ち、南部では 笠岡城によった陶山氏が勢力を有しました。
『陶山(すやま)系譜』は神統譜。元祖は天照国輝彦火明命とあり物部・尾張連等の遠 祖です。神話に登場する神々から始まる系図であり、それに近い事実が伝承されてきたと 考えました。『黄蕨・キハラ』備中古名とのルビが有ります。私にとって『黄蕨・キハ ラ』備中古名は初見です。ご指導を受けている考古学、中世史の先生方に聞きまくりまし た。誰も知りませんでした。大井透氏に一度は調査不可としてお断りしました。しかし、 大井透氏の『黄蕨・キハラ』が一番重要であるという立場に揺らぎがありません。
『古事記・日本書紀』では吉備國に行館(かりみや)高嶋宮を 設置したのは神武天皇としています。
『陶山系譜』に「皇居之名神嶋宮ト侍ル。其後改而神嶋王泊ト 号スハ寄二ル。皇居地名也。」とあります。『先代旧事本紀大成 経七十二巻本』には大歳(おおとし)在とあります。笠岡市の馬 飼・絵師・金浦・飛島に大歳神社があり、近くの浅口市鴨方町本 庄に大歳天神社があります。浅口市鴨方町本庄鎮座の大歳天神社 の最初の鎮座地が兄弟神である宇迦大神の山上です。山上より眺 め最適の地を探したの意です。他の高嶋伝承地の近くには大歳神 社はありません。つまり、「大歳在」とは「大歳」が先回りして お待ちしていたと解すべきであり、大歳神は方位神である太歳(たいさい)神と考察すべきです。つまり、吉備國の行館、高嶋 宮は高島王泊にあった神島宮となります。
4 『先代旧事本紀大成教七十二巻本』の黄蕨

『先代旧事本紀大成経七十二巻本』は、岡山県立図書館と岡山 大学図書館蔵書です。『続神道大系』の 4 冊に分冊され、黄蕨国 は、『先代旧事本紀大成経(一)・続神道体系 論説編』 小笠 原春夫校注 平成 11 年 神道体系編纂会に収録されています。 黄蕨、黄蕨津彦命に注目ください。黄蕨国の初見は、推古30年(622)成立の『先代旧事本紀大成経』です。推古30年(622)成 立ですから『古事記』、『日本書紀』より古い記録です。
備中古名『黄蕨・キハラ』の調査で、「黄薇は黄蕨の字音仮名 遣い」です。倉敷市立真備中学校が黄薇中学と箭田(やた)中学 を統合して昭和45年4月に発足しています。黄薇中学校は倉敷市 真備町岡田に昔ありました。つまり、倉敷市真備町岡田が備中古 名『黄蕨・キハラ』となります
参考文献
『先代旧事本紀大成経(一)続神道体系 論説 編』小笠原春夫 平成 11 年 神道体系編纂会
『謎の根元聖典 先代旧事本紀大成経』 後藤 隆 2004 年 徳間書店
4.1 笠岡十名山神乃峰の蕨

令和元年 9 月 11 日に坂本俊隆氏(笠岡市有田)より笠岡十名山神 乃峰(こうのみね)の蕨の写真が送付されてきました。サワラビの種類 かもと思う蕨が有田八幡神社(笠岡市有田字宮の前・鎌倉時代に陶山藤三義高の勧請により創建)から 20 分ぐらい神乃峰(こうのみね)に登った所に群生してい ます。窪地のは 1.5m 位はあります。と。
第二章 神武天皇聖跡調査の概要・・・岡山説の考察
これまでの調査結果では、吉備國の行館、高嶋宮は笠岡市高島王泊の神島宮となるの に、何故、皇紀2600年記念事業の一環である昭和17年文部省発行の調査報告書『神武天皇 聖蹟調査ノ概況』では児島郡甲浦村字高島(岡山市児島湾の高島)を「神武天皇聖蹟高嶋 宮伝説地」としたのでしょうか。
1 神武天皇聖跡調査の概要・・・高嶋宮伝説地

聖蹟伝説地とは「地点また は地域について江戸時代を降 らない時代に記録せられた口 碑伝説をもち、価値ありと認 められるもの」です。その記 録とは、寛永年間(1624~ 1644)の『備前国絵図』と天 和元年(1681)山田定経撰の『遊高嶋記』に神武東征のと き舟をめぐらせ兵食をたくわ えた地として名が記録されて いることです。戦前の皇国史観(日本の歴史が万世一系の 天皇を中心として展開されてきたと考える歴史観。)では論争に終止符が打たれた形になっています。皇紀とは日本の紀元を日本書紀の神武天皇即位年(西暦紀元前660年)を 元年と起算し、明治5年(1872年)に布告しました。つま り縄文時代の伝説地です。

2 西暦・紀元前 665 年の疑問
報告書は神話伝説としての報告であり、高島遺跡発掘調 査出土物 5 世紀~6 世紀前半頃の物が多いと整合性があり ません。史実としての可能性は無いのでしょうか。 『魏志倭人伝』によれば、「日本には3世紀当時において さえ暦法が無く、いわゆる自然暦を用いていたことが推察 される」と大谷光男氏(二松学舎大学教授)は報告し、 『日本書紀』欽名天皇14年(553)六月の条が暦博士・易博士の初見です。『日本書紀』の暦日は5世紀の半ば頃ま
では儀鳳暦(ぎほうれき)、以後は元嘉暦(げんかれき)によることを明らかにしたのは 小川清彦氏(日本における古天文学の創始者)です。
儀鳳暦(ぎほうれき)は中国暦の一つで、中国・唐の天文学者・李淳風が編纂した太陰 太陽暦の暦法です。唐での名称は麟徳暦(りんとくれき)ですが、日本では儀鳳暦と呼ば れ、飛鳥時代から奈良時代にかけて使用されました。
元嘉暦(げんかれき)は中国暦の一つで、かつて中国や百済、日本で使われていた太陰 太陽暦の暦法です。中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法です。中国 では南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、元嘉22年(445年)から天監8年(509年)までの65年 間用いられました。
つまり、太歳(たいさい)甲寅(きのえ・とら)を西暦年に換算した紀元前665年説は 間違いです。神武天皇即位前記 紀元前665年3月には暦法は伝来していません。
『日本書紀暦日原典』の太歳(たいさい)甲寅(きのえ・とら)を確認し、充恭40年 (451年)・継体2年(508年)と推定します。この年号は備前高島遺跡発掘調査の出土物5世紀~6世紀前半頃と一致します。高島での祭祀時期は5世紀~6世紀の短期間です。
参考文献
『吉備(黄蕨)国・高嶋宮伝承の解析』丸谷憲二 平成 20 年 10 月 28 日
『古代の暦日』大谷光男 昭和 51 年 雄山閣出版
『日本暦日原典』内田正男(日本の暦学者) 1975 年 雄山閣出版
3 「黄蕨之前州」・・・岡山大学池田家文書
岡山大学池田家文書の、正徳 3 年(1713)『黄蕨之前州高島山松林寺略縁起』の「黄蕨之 前州」に注目しました。黄蕨前州とは備前州です。『黄蕨』は吉備の最古の表記です。宝 暦 2 年(1753)の『黄蕨雑録』(岡山県立図書館蔵)にも収録され、享保 6 年(1721)の『備陽記』に読み下しされています。
「吉備と云国名は当島の蕨よりはしまれり、今に至りて大なる蕨の生けるは此ゆへなる べし」と。
吉備国の語源「黄蕨」については、平成 20 年 8 月 24 日の吉備学会第 2 回歴史研究部会 基調報告「吉備とはなんぞや」(岡山県立博物館)で報告しています。
「高嶋遺跡見取図」では、高嶋神社の隣が松林寺跡であり高嶋神社の別当寺(江戸時代以 前に神社を管理するために置かれ寺)でした。




参考文献
『黄蕨之前州高島山松林寺略縁起と吉備国語源考 黄蕨・羈縻政策説と日本人バイカル湖畔起源 説』丸谷憲二 光南台実年大学 平成 30 年 11 月 20 日
4 安仁神社の大歳祭壇跡


平成 20 年 10 月 28 日の『吉備(黄蕨)国・高嶋宮伝承の解析』では、笠岡市神島説を 正しいと考えました。根拠は大歳神社です。『古事記・日本書紀』では吉備國に行館(か りみや)の高嶋宮(たかしまのみや)を設置したのは神武天皇としています。
『陶山系譜』に「皇居之名神嶋(こうのしまの)宮ト侍ル。其後改而神嶋王泊ト号スハ 寄二ル。皇居一地名也。」とあります。
『先代旧事本紀大成経七十二巻本』には大歳在とあります。笠岡市の馬飼・絵師・金 浦・飛島に大歳神社があり、近くの浅口市鴨方町本庄に大歳天神社があります。浅口市鴨 方町本庄鎮座の大歳天神社の最初の鎮座地が兄弟神である宇迦大神の山上です。山上より 眺め最適の地を探したの意です。
他の高嶋伝承地の近くには大歳神社は無く、「大歳在」とは「大歳」が先回りしてお待 ちしていたと解すべきであり、大歳神は方位神である太歳(たいさい)神と考察すべきで あるとしていましたが、安仁神社の近くに大歳祭壇跡がありました。
参考文献
『吉備(黄蕨)国・高嶋宮伝承の解析』丸谷憲二 平成 20 年 10 月 28 日
5 欠史八代と末子相続
欠史八代とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績 (旧辞)が記されない第 2 代綏靖(すいぜい)天皇から第 9 代開化天皇までの 8 人の天皇です。
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世の創作と考えられていますが実在説も あります。神武天皇は実在とされています。古代の天皇達の実在を疑問視する説を初めて 提唱したのは、津田左右吉氏(早稲田大学教授。1873~1961 年)です。津田左右吉説は 第二次大戦後に古代史学の主流になりました。
太田亮氏(立命館大学教授)や白鳥清氏 (東洋史)は、神武天皇から応神天皇までは長子相続でなく末子相続であり、末子相続は兄弟相続よりも古い習俗でありむしろ実在の根拠と説明されます。
5.1 末子相続と日本人バイカル湖畔起源説
末子相続から古代天皇の渡来元が推定できました。平成27年11月8 日に岡山北西ロータリークラブ主催の『第2回高校生による岡山の歴 史・文化研究フォーラム』が山陽新聞さん太ホールで開催され、岡 山学芸館清秀高等部2年生で「地域史探求ゼミ」の古中奈海(な み)・橘瑞貴(みずき)さんが『神武天皇と西大寺のつながり』を 発表しました。

安仁神社祭神の研究発表です。指導は萩原良充先生 です。参考文献が斉穎賢氏の『モンゴル社会における小家族と末子 相続』でした。
黄蕨との表記は東突厥国を意味しています。東突厥国から吉備国への渡来です。これは 日本人バイカル湖畔起源説の補説であり、古代から吉備国への渡来ルートがありました。 アルタイ語民族のほとんど全てに見られる文化的要素が扶余、高句麗を通じ、さらに百 済、新羅など朝鮮半島を経由して、古代日本の形成期に吉備国に伝わりました。しかし、 岡山県の古代史研究は朝鮮半島までで止まっています。
参考文献
『モンゴル社会における小家族と末子相続』斉穎賢氏 専修人間科学論集(社会学篇第 1 号) 『黄蕨之前州高島山松林寺略縁起と吉備国語源考 黄蕨・羈縻政策説と日本人バイカル湖畔起源説』丸谷憲二 光南台実年大学 平成 30 年 11 月 20 日
6 吉備の穴海と日向黄蕨国説
長野正(武蔵工業大学教授 海洋史)氏は、「卑弥呼の時代、瀬戸内海は航路が未開発 であり通行できなかった。瀬戸内海は古代の船にとって航路をつくることが難しかった。 現代の歴史学者は、瀬戸内海は普通に通れると疑問を持たないが、交易は主に日本海側で 行われていた。」と説明されます。
『日本書紀』に「崩 西州之宮 、因葬 日向」吾平山上陵 」、『延喜式』の「日向国二一二一吾平山上陵彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊在 日向国 無 陵戸 」は、鹿児島県鹿屋市吾平町上二 一二 一名にある前方後円墳が御陵墓参考地とされ、宮内庁により神武天皇の父親・天津日高彦波 瀲武鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)の陵に治定されていますが、岡崎春樹氏は「瀬 戸内市に日向国」と説明され、永倉山の峰を「日向吾平山上の陵(みささぎ)に葬る」と されています。
岡崎春樹氏は、『古事記』の禊ぎをした「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たち ばな)の小門(おど)の阿波岐原」を「牛窓伝説の日向橘小門」と説明されます。
つまり、岡崎春樹氏は日向国未成立とし、日向(太陽信仰)と解読されました。


上代には神を祀る社殿は無く、元宮は 近くの山の山上の事例が多く、安仁神社 の元宮は永倉山山頂の亀の形をした磐座 です。亀の形はモンゴル・テレルジ公園 の亀岩に類似しています。
安仁神社本殿の最大の特徴は 16 菊花紋 の多さです。安仁神社近くの山頂で 16 菊 花紋は永倉山山頂岩座のみです。報恩大 師の供養塔は安仁神社の亀の形をした岩座を遙拝しています。岡崎春樹説で神武天皇ファミリーは完成しました。
関裕二氏(歴史作家)は、「『日本書紀』を勝者側の文書、『古事記』を敗者側の文 書」とし、「『先代旧事本紀』は『日本書紀』の記述に似ているようでいて、ポイントポ イントで内容が異なるという興味深い歴史書であり、これが 8 世紀に没落した物部氏の執 念の訴えだった可能性も捨てきれないのである。」と説明されます。黄蕨国の初見史料で ある推古 30 年(622)成立の『先代旧事本紀大成経』の記録は正確であると考えます。
参考文献
『古代史の謎は海路で解ける』長野正(武蔵工業大学教授海洋史)2015PHP 研究所
『吉備に邪馬台国 瀬戸内市の歴史』岡崎春樹 平成 25 年 12 月 p12~13
『安仁神社元宮・亀の形をした岩座と 16 菊の御紋章』丸谷憲二 平成 27 年 11 月 23 日
『日本書紀 塗り替えられた古代史の謎』関裕二 2005 実業之日本社

7 まとめ
7.1 縄文時代の丸木舟
『古事記』や『日本書紀』には、舟の大きさ、人数等は一切記録されておりません。
縄文時代の丸木舟は全国で約160艘発見されています。千葉県市川 市の雷下遺跡から国内最古、約7500年前の丸木舟が出土していま す。ムクノキをくりぬいた丸木舟で全長約7.2m、幅約50cmです。火 で焦がしながら石器を使って丸太をくりぬきました。鳥取県の桂見 遺跡発見の約7000年前の丸木舟です。長さ7.24m、幅74cmです。
約260万年前からの地球環境を研究する日本第四紀学会の三浦英樹 氏は、「約7000年前ごろ、気温が高まり現在より海面が2~3m上昇、 海水が陸地奥深くへ浸入し「縄文海進」が進行した。」と。
参考文献
『最古の丸木舟を発見 縄文人の計り知れない航海力』
7.2 弥生時代の古代船
私は『日本書紀暦日原典』の太歳(たいさい)甲寅(きのえ・とら)を充恭40年(451 年)・継体2年(508年)と推定しました。この年号は備前高島遺跡発掘調査の出土物5世 紀~6世紀前半頃と一致しました。
『日本書紀・古事記』による日本神話は高天原・出雲・日向神話に分かれています。吉 備高嶋は日向の高千穂、大和の橿原(かしはら)と並立すべき日本神話の聖地です。
神武天皇が、黄蕨国の高嶋宮に3年間(古事記:8年間)とどまり東征の軍備を整うとさ れています。
福山市の「御領遺跡」から出土した弥生土器から準構造船の絵が発見され、古代船研究 の第一人者 深澤芳樹氏(前奈良文化財研究所副所長)は、「御領遺跡」から出土した土 器の絵が準構造船と説明されました。
11 参考文献
『弥生時代の船-大航海時代のさきがけ』
7.3 岡山学芸館清秀高等部「地域史探求ゼミ」の発表と「弥生時代の戦いの思考」
「神武天皇は4人兄弟の末子であり、末子相続は遊牧民族の文化であることがわかった。天皇家のルーツはモンゴルに起源を持つのではないかと考えた。注目したのは、天皇 家の祭祀儀礼には「狩猟」に関連するものよりも、新嘗祭のように「農耕」に関するもの が多いという点である。天皇家のルーツが遊牧民族であるならば、当然祭祀儀礼も狩猟に 関するものが多いはずであり、農耕を重要視することは自らのルーツの否定に繋がりかね ないと感じたからだ。」とあります。
「高地性集落と弥生時代の戦いの思考」として、黒崎直氏(大阪府立弥生文化博物館館 長)は、「農耕の開始をきっかけとして戦いが激化することが世界的に確認されていま す。日本列島では、戦いのために武器を用意し、敵の襲撃に備えて防御する戦いの思考が 弥生時代から根付くことになったのです。・・・戦いのの思考は米作りの技術とともに弥 生時代の開始から備わっていたのです。」と。
私も天皇家のルーツが遊牧民族に注目しました。吉備国の語源「黄蕨」を調査してい て、黄蕨国と越前国が強く結びついている事実を発見しました。氣比(けひ)神宮(福井県 敦賀市曙町)と化氣神社(岡山県加賀郡吉備中央町案田)です。越前国一宮 氣比神宮境内 池に遺址として「土公」があり、この「土公」を『敦賀郡神社誌』は「保食神(うけもち のかみ)降臨の地」としています。『岡山県神社誌』に保食神(命)を主祭神・末社とす る神社は、岡山市11社、瀬戸内市8社と集中しています。これが騎馬民族の吉備国内の記 録です。
参考文献
『弥生時代の高地性集落とは』黒崎直 平成31年 大阪府立弥生文化博物館図録66
『氣比神宮と黄蕨(吉備)国 保食神(騎馬民族)の軌跡』丸谷憲二 平成25年8月20日
7.4 岡山の弥生時代 米が作られ始めた頃―揺れる弥生時代観―
弥生時代とは水田稲作を中心とした農耕を行い、食料を生産するようになった時代。
弥生時代の開始時期
従来説は、紀元前5~前4世紀 ⇒ 現在では、起源前10世紀後半。 岡山の弥生時代は、紀元前700~前650年です。
※ 2003年、国立歴史民俗博物館の理化学的手法による実年代の見直し 津島遺跡文化財講座「モノづくりの考古学」第一回令和元年9月28日 岡山県古代吉備文化財センター 團 奈歩氏より
縄文時代と弥生時代の区分はいつ頃ですか。
教科書では弥生時代を、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの 600 年間とし ています。その一方で、この記述に注釈をつけて、弥生時代のはじまりを紀元前 10 世紀とする新しい研究成果も紹介しています。
これまで通説となっていた、「弥生時代のはじまり=紀元前 300 年」は、1960 年 代に、土器編年(土器を各地域ごと、各型式ごとに前後関係に分類・整理し、年代順 に配列すること)や遺跡から出土した中国の青銅器をもとに割りだされた年代に、弥 生前期のコメや貝を炭素 14 年代法(遺物の中の炭素の放射性同位体である炭素 14 の 量から年代を推定する方法)で測定したデータ結果を加味して出された説でした。
2002 年、弥生時代のはじまりを紀元前 10 世紀ごろであると発表したのは、国立歴 史民俗博物館(以下、歴博)です。歴博は最新の AMS−炭素 14 年代法などによって測 定した結果、九州北部の弥生時代遺跡から出土した、土器に付着する炭化物(コメの おこげ)や木杭は、紀元前 900~800 年のものであり、紀元前 10 世紀後半に九州北部 で本格的にはじまった水田稲作が、約 800 年かかって日本列島を東漸したとの説を展 開しました。
水田稲作が九州北部から各地に広がるのに要した年月は、例えば瀬戸内海西部地域 までで約 200 年、摂津・河内までで 300 年、奈良盆地までで 400 年、中部地方には 500 年、南関東には 600~700 年、東北北部には 500 年であると推定されますが、水 田稲作が、きわめてゆっくりと各地に広がっていったことが、ここから分かります。 こうしてみますと、従来のように「弥生時代のはじまり=紀元前 300 年」などと、 ある一点で区分すること自体、無理があると思われますが、教科書本文では、通説に 従った紀元前 300 年と記述し、注釈で紀元前 10 世紀という説を示しました。
これは現時点では様々な議論があり、また地域によって差があることを踏まえた記 述であることを、ご理解いただきたいと考えております。
帝国書院 小中学校指導者専用サイト https://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/history/
7.5 高島の早蕨(さわらび)のその後・・・宮浦地内へ移植成功報告
天保 13 年(1842)の『東備郡村志』に、『大成経』に追記して「今も、此島蕨甚だ多 く、又其甚だ早く、春雪を破て出づ。高島の早蕨とて佳産とす。味ひ亦他所のものに勝て 尤も佳なり。季春長じて其茎七八尺(約 2.1 m~約 2.4 m)に至る。一丈計なるも稀には 有べし。上古には一丈(1 丈は約 3m)余なるも生ぜしか巫(ぶ)べからず。」とありま す。
昭和 15 年の水原岩太郎氏の『児島参修高島考写』にも、「此の島の蕨は古来高島の早蕨と称して其の風味の佳良なるを人口に膾炙して居る事である。彼の備前国内の名物を列記せる備前往来なる書にも高島の早蕨。」と報告されています。しかし、この蕨は JA 農協のスーパーで販売されていません。石原訓志前館長より「高島の同和ホールディングス所有地に自生し、同和興産が管理しているようですが、3 年前から絶滅の危機状態にあり ます。」とのことでした。
昨年の私の講演(平成 30 年 11 月 20 日)を受けて、石原訓志前館長より光南台公民館周 囲へ移植しましたとの報告を受けました。高島へは石原訓志前館長以下 5 人で訪問し黄蕨を 採取し宮浦地内に移植しました。
講演当日(令和 1 年 10 月 26 日)、森川博志氏(宮浦地内在住)から移植成功との報告を 受け移植した黄蕨の写真をいただきました。「ロープで移植場所が保護されています。果 たして、どこまで大きくなるのかの経過観察が必要です。矢吹憲策館長から「私も現地を 見に行かせていただきました。猪のよく出没する獣道沿いの斜面でした。経年観察してみ たいと思います。」とのメールを 10 月 28 日にいただきました。


第三章 イラン製青銅剣の渡来
1 3000年前のイラン製青銅剣の発見場所
河田浩二氏は自宅改築時に青銅剣を押入れから発見されたが入手経路は不明です。2001 年(平成13)11月1日の山陽新聞「岡山・オリエント美術館の青銅剣・柄の芯に鉄」の記事 を見て、形状がそっくりだとして岡山市立オリエント美術館へ鑑定を依頼されました。 紺谷亮一氏は「古代イランの青銅剣は1960~1970 年代に日本で多く出回った」と報告し ています。土着民の盗掘による骨董市場への流失を意味しています。しかし、河田浩二氏 の父親や祖父が骨董市場で青銅剣を購入し押入れに秘匿していたとは考えられません。そ の理由は購入・秘匿する理由が無いからです。
2 製造推定地 イランの紀元前1000年頃
カスピ海西岸のイラン北西部で製造と鑑定されています。
イランの歴史上、紀元前1000年頃の特記事項は「預言者ゾロアスターがゾロアスター教 (拝火教)を広める」です。ゾロアスター教で秦氏の弓月(クンユエ)国と繋がります。 (クンユエは突厥語で火焔) 青銅剣は秦氏の渡来物と推定可能です。
3 製造推定地 タリシュ地方
紺谷亮一氏は北西イラン製のタリシュ地方で製造と鑑定しています。当時のタリシュ地方は豊富な鉱物資源を生かした冶金術などが発達していました。岡山市立オリエント美術館蔵の耳形柄頭長剣も主にタリシュ地方で発見されています。タリシュ地方はイラン高原の主要な文化として「タリシュ ド
ルメン文化」と区分されています。
4 ドルメンと巨石文化
ドルメンとは巨大な石(岩)を利用して築造した巨石記念物の一つで地上や地下に屍を埋 める石室を作り、上に大石で覆いだ先史時代の墓です。ドルメンはメンヒル、列石、環状 列石、石棺墓といっしょに巨石文化の一種です。日本では支石墓(しせきぼ)と呼ばれ、 数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓です。縄文時代晩期の九州北西 地域に出現し、当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強 い影響があったものと考えられています。
5 まとめ
「タリシュのドルメン文化」に注目する理由は、カスピ海沿いのイラン西北部からカフ カズの東南部にわたるタリシュ地方に、大きな塊石で作られ、上に大きな平石を天井板と して乗せたドルメン形式の円形や矩形の墳墓が多数群在し、それらにはストーンサークル が伴い、そこから青銅や鉄の利器類他が出土しているからです。ゾロアスター教とストー ンサークルに注目しています。吉備国のストーンサークルは「楯築遺跡」です。
6 参考文献
1『吉備国の語源・黄蕨について』『吉備(黄蕨)国・高嶋宮伝承の解析』丸谷憲二 平成20年10月28日 http://www.hasukura.com/site/4marutani.pdf
2『笠岡市高島 河田浩二氏所蔵 耳形柄頭長剣 調査報告書』丸谷憲二 平成24年1月9日 http://www.hasukura.com/site/5marutani.pdf
3 『秦王国の所在地と秦氏の祖・弓月君の故郷 弓月国の考察』丸谷憲二
平成27年6月25日 http://kiwarabi.html.xdomain.jp/hataoukoku.pdf
4 『黄蕨之前州高島山松林寺略縁起と吉備国語源考』
『黄蕨・羈縻政策説と日本人バイカル湖畔起源説』丸谷憲二 平成30年11月20日 http://kiwarabi.html.xdomain.jp/new_page_7.htm
5 『神秘と感動の絶景を探し歩いて』・・・私のレポートが紹介されていました。 http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-641.html
