熊山遺跡研究報告-3 吉備国の古代製鉄と熊山遺跡出土の陶製筒型容器 (2013年)
平成 25 年 5 月 22 日 先史古代研究会 発足記念の基調講演です。
平成 23 年2月 19 日に大井透氏から、古代朝鮮の原始的製鉄法を教示されました。この製鉄法は、あまりにも簡単です。そして現在、赤泥を原料に使用して古代製鉄の再現実験に挑戦しています。
1 はじめに
『古事記』に、応神天皇の御代に百済(くだら)より「手人(てひと)韓鍛(からかぬち)、 名は卓素(たくそ)・・・貢上(たてまつ)りき」とあり、「鍛冶技術者で名は卓素を献上し た。」とあります。
鍛冶技術は渡来人による技術との記録です。
明治初期の「キュポラと熊山遺跡出土陶製筒型容器は同一形状です。
陶製筒型容器の 原型は古墳時代の鋳物溶融炉ではないか。」との大井透氏説を検証します。大井透氏説は、諏訪の百瀬高子氏(古代史研究家)説を基礎としています。百瀬高子著『御柱祭 火と鉄と神と- 縄文時代を科学する』を検証します。
2 キュポラ(鋳物炉)と陶製筒型容器
明治初期のキュポラ(鋳物溶融炉)と陶製筒型容器の形状を比較すると同一です。「陶 製筒型容器の原型は古墳時代の鋳物溶融炉ではないか。」との大井透氏説は正しいと考えます。



2.1 熊山遺跡出土 陶製筒型容器 古代鋳物炉 説
「陶製筒型容器の原型は古墳時代のキュポラ(鋳物溶融炉)ではないか。」との説が大井透 氏より平成 23 年 1 月 17 日によせられました。
「褐鉄鉱を陶製筒型容器の中で熱し、焼結(粉体 を加圧成形し、融点以下の温度で熱したとき、粉体粒子の間に結合がおこって固体になる 現象。)を行い鉄を造った。陶製筒型容器の原型は古墳時代の鋳物溶融炉である」との説です。
キュポラ(Cupola furnace)とは、コークスの燃焼熱を利用し鉄を溶かし鋳物の溶湯 を得るためのシャフト型溶解炉に分類される溶解炉です。
3 6 世紀頃の鉄鉱石原料
我国の製鉄技術は 6 世紀頃に画期(過去と新しい時代とを分ける)を迎えています。弥生製 鉄法は、小型の炉を用い少量の還元鉄を得て、主に鍛冶(金属をきたえて、いろいろの器具 を作ること。)で錬鉄(パドル法により製造された炭素の含有量が少ない鉄)に鍛えるもの です。
この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされました。官制 製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の 一時期盛行させました。この画期(過去と新しい時代とを分ける)とは何かが明確に説明されて いません。
使用した鉄鉱石の種類です。
鉄鉱石には 5 種類あります。赤鉄鉱(酸化第二鉄 Fe2O3)、褐鉄鉱(酸化第二鉄・水和物 Fe2O3・ nH2O)、磁鉄鉱・砂鉄(四三酸化鉄 Fe3O4⇒FeO・Fe2O3)、菱鉄鉱(炭酸第一鉄 FeCO3)、黄鉄鉱(二 硫化鉄 FeS2)です。
4 吉備国最古の製鉄遺跡
吉備国最古の製鉄遺跡とされる千引カナクロ谷遺跡(岡山県総社市)をはじめ初期の製鉄 炉は鉄鉱石を原料としていました。吉備国の初期段階の製鉄炉は 6 世紀後半頃とされています。 古墳~奈良時代にかけて、鉄鉱石を用いた製鉄遺跡は中国山地の山陽側、近畿地方・滋賀県で発見されています。
日立金属社は 5 世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当 と説明しています。
4.1 3 世紀の製鉄炉発見 「広島・小丸遺跡」
広島県三原市八幡町の小丸遺跡から三世紀の製鉄炉が発見されました。(1995 年 1 月 13 日朝 日新聞夕刊)
製鉄は弥生時代後期から行われていたが鉄鉱石の種類は不明です。
1995 年 1 月 13 日 朝日新聞夕刊
広島・小丸遺跡 日本で最古の製鉄炉を発見 3世紀に工具類作る?
弥生時代後期の遺跡とされる広島県三原市八幡町の小丸遺跡から、三世紀のものと推定 される製鉄炉が見つかったことを、広島県埋蔵文化財センターが明らかにした。 これまで各地で確認された製鉄炉は、六世紀後半以降がほとんど。国内での鉄の生産は、 西日本全域で大陸系磨製石器が減り、鉄器が急に増えた弥生時代後期ととらえる説もあり、 小丸遺跡はこの説を裏付けるという。
広島県埋蔵文化財調査センターによると、製鉄炉は、弥生時代後期の集落跡近くに約 50m 離れて二基並んでいた。うち一基は、直径 50cm、深さ約 25cm のすり鉢状の穴で、左右に 鉱滓(こうさい=スラグ)が詰まった土壙(どこう)があった。放射性炭年代測定の結果、土 壙は三世紀のものとわかった。
同センターは、
1.三つの穴は一緒につくられたと考えられる
2.近くから弥生時代後期前半の土器片が見つかっている
3.形が他に比べて原始的・・・
などから三世紀のものと結論づけたという。
国内で 鉄生産が始まった時期は五世紀後半以降とする説が有力だった。
川越哲志・広島大学教授(考古学)の話
遺構の周辺から弥生式土器の破片が出たことを考えれば、製鉄炉も弥生時代につくられたものに間違いない。
製造した鉄はおそらく工具類をつくるのに使ったのだろう。生活に密着した必要なものをつくりだす古代人の能力は、想像以上に高かった可能性がある。広 島で、三世紀に製鉄が行われていたのなら、同じ中国地方で、しかも、朝鮮半島に近かっ た出雲で、早くから炉を用いた製鉄が行われていた可能性は、十分にある。
5 原始的製鉄法(鍛鉄法)
平成 23 年2月 19 日に大井透氏から、古代朝鮮の原始的製鉄法を教示されました。
この製鉄 法は、あまりにも簡単です。
① 『たたら製鉄の復元とその鉧(けら)について』黒岩俊郎氏(専修大学)
明治の末ごろ、朝鮮での原始的な製鉄の実見記として河原によく乾いた砂鉄を 60 ㎝ほど 積み上げ、その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い 集めていた。わりに簡単、かつ原始的な方法によっても製鉄はできます。
② 『鉄の考古学』窪田蔵郎氏(日本鉄鋼連盟)
紀元前 300 年ごろに始まった弥生式文化は、青銅と鉄を使用した金属文化です。出土 品としては、弥生期の半ば迄は鍛造よりも鋳造と見られる物が多い。中期以降は鍛造品が 増加してくる。
野天における開放窯による製鉄です。鉄鉱石から鉄をつくるのには、高 い技術を必要とすると考えられている。
鉄鉱石を赤く熱して、酸素をとり、砕け散らない ように、そっと根気よくたたいて石の部分をとばして行けば、900 度ぐらいでも鉄はできます。
③ 『古代の製鉄』山本博氏(大阪学院大学)
銅の精錬に 1100 度の温度が必要である。
製鉄について次のように述べている。
a 鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
b 鉄鉱石は熔解しなくても、700~800℃の熱度で可鍛鉄がえられる。
c 鉄の抽出には、特定の送風装置は不要です。
考古学上、わが国最初の鉄器は、縄文晩期の土器と弥生前期の土器と画とも出した遺跡から 初見されています。
鉄滓(てつさい)散布地こそは、そのあたりで製鉄が行われたことを暗 示しています。たたら炉の遺構が発見されなくても、そのあたりで製鉄を行っていた。設備 のない、たたら以前の製鉄です。
あまり深くない地下に砂鉄の層がある場合、その地表で土器を焼いたとすれば、土器を 焼く温度で、地下の砂鉄は楽に還元できます。
北九州各地に散布する無文赭色の土器の硬度 は、この程度の熱度、または、これよりやや高い熱度で焼いています。
6 備前の鉄滓

製鉄を行っていた事実を証明する鉄滓 を岡山市東区草ケ部で採取しています。設備 のない、たたら以前の製鉄です。鉄滓と は製錬鉄を作る際にでる鉄を取り出した 後の残りカスです。「金糞(かなぐそ)」 と呼ばれ廃棄されます。製鉄関連遺跡調査で 大量に出土します。
岡山市東区鉄の近くに、西祖山方前遺跡(岡山市東区西祖)があります。
吉備国における初期段階 6 世紀後半頃の鉱石製鉄 の製鉄炉が発見されています。
7 百瀬高子氏説の紹介
百瀬高子氏は東京都の公務員退職後、古代史研究に入りと自己紹介しています。
『御柱祭 火 と鉄と神と―縄文時代を科学する』の冒頭に多湖 輝氏(千葉大学)が「百瀬氏は私の発想の転換や盲点力的視点で、日本古代史を見直 してみると思いもよらぬ発見がある・・・。」 と推薦しています。
百瀬高子氏は科学的な常 識と、統計学を古代史研究に導入しています。
御柱祭(おんばしら)とは、長野県諏訪大 社の六年目ごとの大祭です。
寅(とら)年と申(さる)年の春に神山から樅(もみ)の大木を曳き降ろし、上社・下社とも社殿の四隅に 新しい柱を立てる祭事です。

江戸時代に 75 頭の鹿の頭、猪の頭、兎の串指しが並んだ御頭祭は、騎馬民族、渡来人に よる祭りです。
大山祇宮(((愛媛県今治市大三島町宮浦)にも『 ( 大頭』という神事がありました。『一遍上人縁起 伝』に、「毎年祭祀二度、桜会と云ひ大頭と云ふ、祭毎に鹿の生贄を備ふ、正応(1288~1292) 中に及て僧一遍神教に託て其礼を止むと曰へり」とあります。
7.1 従来説と百瀬高子氏説の比較
7.1.1 縄文式土器
① 吉備国の縄文式土器

右上の高さ 28cm 倉敷考古館蔵

7.1.2 縄文式土器 従来説
① 縄文時代は、約 1 万 6000 年前~約 2300 年前とされる。土器として世界最古です。
② 国内出土した 1 万 1800 年前から 1 万 5000 年前の縄文時代草創期の土器から、魚を調 理した痕跡が発見されています。農耕が始まる前の狩猟採集時代の土器は食糧の貯蔵用、煮 炊き用にも使われていました。儀礼に使った可能性もあります。
③ 「縄文土器は肉厚で装飾的、弥生土器は薄くて簡素」が一般的な認識です。近年の 研究で地域性、多様性が明らかになり縄文土器と弥生土器の区別は難しくなってきています。
7.1.3 「大型水煙土器は製鉄用土器炉である」(百瀬高子氏説)
① 小型炉製鉄実験の普及に長年携わっていた横井時貞氏(愛知工業大学名誉教授)に「土 器炉は可能か」と質問した。「土器でも丈が 60cm 位、壁の厚みが 2~3cm の土器を作れば 製鉄が可能だ」との回答を得た。
② 縄文中期の諏訪に繁栄した土器模様を水煙土器、新潟の同時代の土器模様を火炎土器 と呼ぶ。縄文中期の大型水煙土器の厚みは 2~3cm、丈は大きな物で 40~70cm である。土 器炉としての条件にぴたりと当てはまる。
③ 「戦時中に使われた諏訪鉄山の鉄鉱石は褐鉄鉱(高師小僧)という。
鉄質は悪いが農 工具には加工出来、使用が可能だ」という情報を得た。
④ 縄文土器の焼成温度は 800 度以上の温度を半日位(最低 3~4 時間)以上保つ(焚き続け る)技術があった。
⑤ 褐鉄鉱は 400 度位の低温で溶解する。という自然界の現実がある。
⑥ 大型水煙土器は製鉄用土器炉として、製鉄に必要な諸条件は十分満たしている。


7.1.4 褐鉄鉱使用、土器炉による製鉄実験成功 (百瀬高子氏の実験報告)
褐鉄鉱原料、土器炉による製鉄実験 成功 平成 10 年 10 月末日
① 弥生土器風甕を製作 器高 45cm 厚み 2.5cm
② 胴の中間より少し下に直径 2cm ほど穴を開けて、穴は送風口とした。
③ 使用原料 褐鉄鉱の粉末
④ 溶融実験 木炭と共に加熱し 6 時間微風を送風した。(縄文時代は息で送風と推定)
⑤ 製鉄炉中の推定温度は低温の 400 度前後と記録している。
⑥ 実験結果 6 時間ほどの短時間作業だった。
5半熔解の多量の鉄滓の中に大豆大ほどの真黒な鉄粒が出来ていた。
製鉄実験に成功した。
⑦ 百瀬高子氏の所見
3 日 3 晩この作業をすれば、そして溶媒にカルシュウムを使えば、もっと扱い易い鉄槐 が農具や工具わ作るほどの量が出来ただろう。そしてその鉄塊を熟し、軟らかい内に叩け ば鍛造の薙鎌や鉄鐸や斧が出来上がる。縄文土器を炉として充分製鉄は可能だ。いや縄文 中期土器の多くは小規模製鉄炉として製作され、土器炉として使用されていた事が実証で きた思いだ。
土器炉は乾燥や厚みに少しでもムラがあると長時間の加熱温度には耐えられない。実験 で使用した土器も針金で補強して漸く炉として耐えていたが、6 時間も内部を加熱してい るとあちこちにひび割れが入り、火を止める頃には崩折れてしまいそうな状態だった。
余熱を冷ましている内に自然に崩れて瓦解したが土器底はしっかり残った。土器底が残 った状況は、松本市近郊などの遺跡で土器底のみ集中出土する笹賀神戸遺跡などの状況と類似している。


7.1.5 鬼板(褐鉄鉱)使用 製鉄実験成功
「鬼板製鉄実験の成功とその後」『伊那 02 号』羽場睦美 1991 年 11 月 3 日
実権場所 長野県落合村
原料 下條村産の鬼板 51Kg。
実験方法
選鉱しない鬼板を焙焼(鉱石を融点以下の温度で加熱し,揮発性の成分を除去 し、化学反応によって化合物の形を変化させること。)し、2~3cm に粉砕して炉に投入。
操業時間 約 10 時間。
実験結果
炭素量の高い鉄分を含めた鉄塊系生成物、約 8Kg が炉内に生成された。 うち推定 6Kg の品位の高い鉄塊を得た。
褐鉄鉱の鬼板が近世以前の技術により精錬可能な資源であることを証明した。
※ 鬼板:尾張・瀬戸地方の第三紀層で多量に産出する褐鉄鉱。
8 特殊器台・特殊壺
8.1 特殊器台・特殊壺 従来説
① 特殊器台・特殊壺は、弥生時代の後期後葉に特殊器台は吉備で製作された。古いもの は出雲(島根県)へ、新しいものは特殊器台形埴輪も含めて大和(奈良県)に運ばれ ています。
特殊器台が吉備に現れるのが 2 世紀後半。埴輪に変化するのが 3 世紀の中頃。 卑弥呼の時代です。
② 形態は土管状である。華麗な文様を施し、丹で赤く塗るなどの装飾性に富んだ大きな 土器で、首長の埋葬祭祀に使用されました。
③ 特殊土器類が発達変遷して円筒埴輪の発生や成立に関係しました。
④ 特殊器台・特殊壺の出現は弥生時代中期以降で、後期に特に発達・普及し、古墳時代 前期に衰退しました。
⑤ 器台は壺、甕、皿などさまざまな器物を載せるためのものであるが、壺に比し出土数はきわめて少ない。きわめて少ない理由は報告されていません。
⑥ 器台に壺などを載せて、祭祀に使われたのではないかと推測されています。
⑦ 筒部には突帯の隆起帯が 6 から 10 条ほどめぐり、制作時の補強の役を果たすとともに、 筒部自体をいくつかに分割します。
8.2 「多孔埴輪は古代の銅精錬用炉説」(百瀬高子氏説)
① 特殊器台は多孔埴輪である。多孔埴輪の中を火炎が通過する光景は、 ムカデが百本の足をウジャウジャさせて進む姿を連想させます。
② 多孔埴輪は古代の銅精錬用の炉です。

「銅精錬には多孔埴輪を横に倒 して炉として使った」と百瀬高子氏は明快に説明しています。現在、銅精錬 には多孔の横長炉を使用しています。
9 円筒埴輪と朝顔型埴輪 従来説

9.1 円筒埴輪 従来説
① 埴輪の中で一番早く登場したのが円筒埴輪です。
② 弥生時代後期に吉備地方で発達し葬送儀礼用の特殊な土器です。
③ 3 世紀半ばに最初の前方後円墳といわれる箸墓古墳の葬送儀礼で使われた器台や壺(特 殊器台・特殊壺)が初めです。
④ 円筒形埴輪は、模様が段々簡略化していき、最後には模様は刻まれなくなりました。
⑤ 形も据え置くための最下部の踏ん張りがなくなり、土管(円筒)状になっていきました。
⑥ 突帯で数段に分けた胴部に円形の透かし孔を開けています。
⑦ 円筒型埴輪は直径 40cm、高さ 1m もあるが、肉厚は 6mm と薄く内面が削られています。
9.2 朝顔型埴輪 従来説
① 円筒埴輪数本に対して朝顔形埴輪 1 本の割合で配置されます。
② 大きさは、数 10cm から 1m 程度のものが一番多く、中には 2m 前後の物もあります。
③ 朝顔形埴輪とは、器台の上に壺を載せた形状をしており、上部は口縁部が大きく朝顔 の花が開いたようにラッパ状に広がっています。大きさは 50~110cm のものが多い。
④ 円筒部にタガ状の突帯が 3~7 本あることや透かし孔があることが円筒埴輪との共通 点です。
⑤ 朝顔形埴輪は、3 世紀の古墳では見られない。4 世紀頃の古墳から出現し、6 世紀の埴 輪の歴史が終わるまで存続しました。埴輪は 3 世紀後半~6 世紀後半にかけて造られ、前 方後円墳とともに消滅しています
⑥ 初期の頃の形状は壺の胴部上半が円筒からはみ出した形であるが、時代が進むと壺の 頸・胴部が省略され、口縁部が円筒に直接つながる形になります。
⑦ 三重県石山古墳では円筒埴輪 4、5 本につき 1 本の割合で朝顔形埴輪が配置されています。
9.3 底穿孔土器の改良型 円筒埴輪 (百瀬高子氏説)
埴輪は厚さは 2~3cm、丈 60~100cm、穴開き(送風口)という土器炉としての条件が備わ っている。製鉄・製銅の土器炉時代が到来し、量産時代に突入したと考える。
朝顔埴輪のプレ土器として底穿孔壺土師器があった。底穿孔土器は壺型土器の底にわざ わざ穿孔した土器をいう。底に穿孔する目的は、砂鉄を効率良く燃焼させ、溶解するため に砂時計の原理を使用したと推定している。上部から砂鉄などの鉄材料を投入すると、炉 の火の中で鉄材と溶剤などが効率よく混ざって燃え鉄は熔解する。
底穿孔土器の改良型が 円筒埴輪・朝顔型埴輪である。
9.3.1 犬島発見 焼成前穿孔(せんこう)土器
2008年7月19日縄文時代早期(約1万年前)の犬島諸島・地竹ノ子島(岡山市犬島)の犬島 貝塚を調査していた、「犬島貝塚調査保護プロジェクトチーム」(代表=遠部慎・国立歴史 民俗博物館研究員)は、主に九州地方から出土している焼成前穿孔(せんこう)土器の一部 が出土したと発表しました。
崩落した貝層の塊の中から見つかった土器の破片1個(縦15c m、横20cm、厚さ1cm)から、土器は直径約35cm、高さ約60cmだったと推定。 底がとがっており、側面に対角線上に二つの穴(直径約7mm)があった。穿孔土器は、 弥生時代に死者を葬る聖域と生活集落の境界にこの穿孔土器を置いた埋葬儀式に用いた祭 器に使われた土器ではないかとの説があります。
9.3.2 「円筒埴輪と朝顔型埴輪の胴中間部の穴は送風口」(百瀬高子氏説)
「円筒埴輪や朝顔型埴輪が、明治初期のキュポラ(鋳物溶融炉)に酷似している。」と指 摘し、「製鉄炉の証明」であると説明される。「埴輪を鋳物溶融炉に使った」という独創的な説です。
「円筒埴輪・朝顔型埴輪は古墳時代のキュポラであり、褐鉄鉱を円筒埴輪の中で熱し焼結 を行い鉄を造った。」と。「朝顔型埴輪や円筒埴輪は胴の中間部に窓を開けている。この孔 (穴)は製鉄や製銅の炉として使う送風口である。」と説明しています。
9.4 古墳に円筒埴輪・朝顔型埴輪を飾る目的
① 埋葬儀礼説 従来説
円筒埴輪が古墳に置かれる理由は、死者の生前の権力を墓地で再現するためである。 親族や同族の人たちも各々別個の円筒埴輪を並べてその上に穀物とか、季節の果物や海産 物などを山のように盛って、被葬者にお供えした。
② 鉱物加工技術力を誇示説 (百瀬高子氏説)

出土埴輪の 90%以上という絶大な出土数量を誇る円筒埴輪と朝顔型埴輪が巨大前方後円 墳などの墳丘に何故飾られたのか。飾る目的は、「円筒埴輪が製鉄・製銅の鋳物炉で鉱石溶 解炉なら、時の権力者や政権保持者は自分の墓または親の墓に埴輪の多さを美々しく飾っ て、権力の強大さ・財力の強大さをアピールし、鉱物加工技術力を誇示するのに使うのは当然の心理だ。そして彼ら権力者達はこぞって古墳に円筒埴輪を飾り世間に生産力の優位 さを誇示した。円筒埴輪が多ければそれだけ製鉄や製銅の加工技術力や財力や権力を象徴 している。そうした価値無くして単に円筒埴輪を古墳に飾る意味が無い。」と説明しています。
10 製鉄原料
10.1 磁鉄鉱 従来説
10.1.1 吉備国の鉄の生産開始
① 吉備国の鉄の生産開始は「6 世紀後半」とされている。
② 「6 世紀後半の吉備の製鉄炉に使用された原料は、「磁鉄鉱」である。
③ 「原始・古代の吉備の鉄が褐鉄鉱を原料とした証拠は今のところは無い。」とされる。
10.1.2 吉備国 磁鉄鉱説の補説
① 古代に利用された鉄鉱石は磁鉄鉱ではないかと思う。(日本の鉄鉱床はマグマの作用で できたものがほとんどで,磁鉄鉱のほうが赤鉄鉱よりはるかに多い)。
② 「磁鉄鉱は高梁市備中町の山宝鉱山で昭和中期まで採掘が行われていた。また,磁鉄 鉱の露頭は小規模なものは県内では他にもある。」と武智泰史氏(倉敷市立自然史博物館) は教示(平成 23 年 5 月 18 日)される。
10.2 「褐鉄鉱(高師小僧)を使用」(百瀬高子氏説)
高師小僧(たかしこぞう)とは愛知県豊橋市高師原台地で発見された褐鉄鉱の塊のこ とである。湖沼鉄とも言う。水辺の植物の根に鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。 雨が表面の土を洗い流すと、無数の葦の根の周りに析出していた棒状の鉄が、まるで小僧 が立ち並ぶがごとく無数に頭を現す。この葦の根の周りに成長した棒状の鉄を『高師小僧』 と呼ぶ。『高師小僧』は昔湿地で芦原が広がっていた日本各地でも出土している。


10.2.1 褐鉄鉱の融解温度(百瀬高子氏説)
① 褐鉄鉱(高師小僧)は摂氏 400 度程度で低温溶解を始める。500 度程度で溶解が止ま り 800 度前後から再び溶解が始まる。鉱石に不純物が混ざると、鉱物の溶解温度が下がる。
② 「焚火で暖を取り縄文土器を焼いていた 6000 年前の縄文時代の信州の先祖達は自然条 件さえ揃えば、褐鉄鉱を使用して初期的製鉄を行っていた。」
褐鉄鉱からの縄文鉄は不純物が多く強度に難があり、その後の青銅器の弥生文化に破れ た。そして、弥生以前の高師小僧・褐鉄鉱からの製鉄技術は、砂鉄・磁鉄鉱からの製鉄技 術に押され、やがて忘れ去られた。
10.2.2 岡山県の褐鉄鉱
倉敷市立自然史博物館に褐鉄鉱が展示されている。高師小僧標本(産出地 倉敷市玉島 長尾)である。産出地は岡山県内で他に数ヶ所確認されている。武智泰史氏(倉敷市立自然 史博物館)は、「原始・古代に鉄含有率が低い高師小僧のような褐鉄鉱を鉄鉱石として利用 できたとは考えにくい。例えば,高師小僧のような褐鉄鉱は不純物として泥、石英粒(SiO )2を多く含み,精錬中に,鉄が石英(SiO2)と化合して珪酸鉄(Fe2SiO4)となってしまい、
単体の鉄は得られなかったのではないかと思う。」と説明される。岡山県の考古学界の説明不足を補説される。(※石英分は製鉄の障害になるので,近代では鉄鉱石中の石英分を、石
灰石を使って取り除いている。CaCO (石灰石)+SiO (石英分)→CaSiO3(珪酸カルシゥムム)+CO2(二酸化炭素)の反応で取り除いている。)
市川三好氏より「吉備線足守駅の近く岡山市北区小山に昔から高師小僧(褐鉄鉱)伝承 10がある。」との重要な証言をえています。
11 鉄鐸と銅鐸
吉備国においては、「銅鐸」は多数発見されているが「鉄鐸」は発見されていない。 藤本栄一氏(長野県考古学会長)は、「鉄鐸の原型と思われる、日本考古学史上最大の謎の一 つである銅鐸に真向から立ち向かってみた。」と報告されているが、技術史から考察し鉄鐸 の鍛鉄技術が銅鐸の鋳型より早いと考える。
11.1 鉄鐸


① 諏訪大社に鉄鐸が伝来している。諏訪神社上社、小野神社、矢彦神社の 3 社である。
② 鐸(サナキ)とは舌のある大きな鈴の意味である。
③ 鉄鐸は信濃国二宮 矢彦神社(長野県上伊那郡辰野町大字小野)では、数個の鉄鐸がたく さんの幣(ぬさ)とともに鉾にぶら下げられている。鉾を揺らすと鐸と鐸がぶつかりあっ て音を鳴らす。「ガシャンガシャン」という雑音である。鈴を鳴らす理由は、「お祈りを始 めます」という合図であり、眠っている神様を呼び起こすためと説明される。
④ 諏訪大社社伝には、「鉄鐸は往古、神使の巡回に使用された宝鐸である。」と伝えられ、 諏訪大社上社では現在も使用されている。
⑤ 斎部広成の『古語拾遺』(807 年)岩戸隠れの条に、「天目一箇の神をして雑(くさぐ さ)の刀斧(たち)及び鉄鐸(さなき)を作らしむ」とある。「天目一筒神(あめのまひと つのかみ)に刀・斧・鉄鐸を作らせたという記録である。
⑥ 「サナキ」とは、褐鉄鉱(高師小僧)である。全長が 18cm の鉄鐸である。銅鐸と違い 赤く錆びている。神使御頭(ごうしおんとう)では、神使(おこう)がこれを持って湛神事の 巡回に出かける。
⑦ 『古語拾遺』(807 年)に、「天目一箇命[筑紫・伊勢両国の忌部の祖也]と曰す。」とあ り、天目一箇神と忌部氏(伊部)が結びついた。
11.2 鉄鐸と銅鐸
銅鐸の前身は鉄鐸であり、サナギであった。鉄の板を叩いて薄く延ばし、それを筒状に 巻き内部に鉄の舌を付けて音を出す。
技術史から考察し鉄鐸の鍛鉄技術が銅鐸の鋳型より早いと考えています。
11.3 銅鐸
① 銅鐸については、『記紀』や『古史古伝』に記録がない。
② 初見は平安時代の私撰歴史書『扶桑略記』「天智天皇御宇七年(668)正月十七日」の 「近江国の崇福寺を建立する時の地ならし工事中に、高さ五尺五寸の奇異な形のものが掘 り出された」という記事である。
記録は、「続日本紀」巻第六「和銅六年(713)七月六日条に「大倭国、宇太郡波坂郷の 人、大初位上村君東人、銅鐸を長岡野の地に得て献上る。高さ三尺、口径は一尺、その制、 常に異にして、音、律呂に協(かな)ふ。」である。
③ 銅鐸は弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。
④ BC2 世紀から AD2 世紀の約 400 年間にわたって祭器として用いられた。
⑤古墳文化の始まりとともに、銅鐸は消滅している。
⑥ 銅鐸は釣り鐘のように吊し、内部に舌(ぜつ)を入れ鈴や鐘のように鳴らす。
⑦ 銅鐸は、青銅器文化の朝鮮半島からの流入に伴い、九州北部から伝播していった。
⑧紀元前一世紀頃以降は国内鋳造である。九州から銅鐸の鋳型が出土している。
⑨初期銅鐸は 10cm 程度の小銅鐸である。実用品としての鈴である。
⑩ 銅鐸は日本で独自に発達した。1 世紀末ごろを境にして急に大型化している。 「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開である。
⑪ 1984 年 7 月、島根県簸川郡斐川町の荒神谷遺跡で、358 本の銅剣が発掘された。翌年、 本来一緒に埋められるはずがない銅鐸 6 個と銅矛 16 本が並べられて発見された。 なぜ銅鐸は土中に破棄されたのかが謎とされている。
11.4 銅鐸の配合割合


5 月 12 日に井原市文化財センター古代まほろば 館を見学した。銅鐸のレプリカ製造時の技術情報の説明があった。「井原市で 3 個の銅鐸が発見され ている。畑から発見された銅鐸は、銅 70%、鉛 15%、 鈴 15%であった。同一配合でレプリカを製造した が、古代銅鐸の肉厚が再現できない。現在の技術では 2 倍の肉厚になってしまう。」とのことである。 この説明は、昭和 20,21 年に発見された井原市木之子町・猿森遺跡出土の 12 区画割付Ⅲ型式袈裟襷文のことである。辰馬考古資料館蔵 国指定重要文化財、完成度の高い銅鐸の事例である。
吉備の銅鐸に関する論文で一番重要なのは、「備前百枝月発見の銅鐸」近藤義郎氏 1961 年報告である。「当時、ごく貴重だったと考えられる青銅製品を、よしやそれが製作時にお ける失敗・破摧製品であったとしても、みすみす破棄することは、ありえなかったであろ うから、それはやはり、埋没または突発的な事態による遺棄と解すべきであろうか。大方 の御意見を切に望む。」と
11.5 銅鐸の鉛同位体測定
銅鐸青銅器の鉛同位体測定値は、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率が 一致している。つまり、銅鐸は渡来人による鋳造品となる。日本での銅の文献史料初見は 和銅元年(708)である。
12 突帯の用途
考古学では、「突帯(凸帯)とは埴輪に巻かれた粘土の帯である。突帯のない円筒埴輪は無 い。輪を積んで作られた円筒に更にかけられた輪。それが突帯である。円筒埴輪の突帯は 3~4 条が多い。円筒埴輪の条数や突き出し具合や突帯同士の間隔は、古墳ごとにそろって いる。」しかし、円筒埴輪・鋳物溶融炉説では、割れ防止対策としての針金の代用品である。
13 鋳物溶融炉と熊山遺跡出土陶製 筒型容器の形状比較

鋳物溶融炉と陶製筒型容器の形状 が同一である。右図は、『備前熊山仏 教遺跡考』近江昌司氏収録図である。 陶製筒型容器と円筒埴輪の製法は同 一で突帯で数段に分けている。蓋を 取った高さは 127.5cm、基底部内径 40cm と円筒型埴輪直径 40cm と同寸 である。違いは本体肉厚が 1.4~ 3.5cm と厚く、透かし孔が無いことで ある。突帯は 3 条である。
百瀬高子氏説の褐鉄鉱(高師小僧)を使用する鋳鉄溶融炉としての条件 は満たしています。
14 忌部氏と鍛鉄技術
天目一箇神(あめのまひとつのか み)と忌部氏が結びついた。鉄製品 を作ることは、鍛冶と関係の深い天 目一箇神の職掌であった。天目一箇 神は製鉄・鍛冶の神である。
熊山遺跡は忌部氏の古代石積祭祀 遺構である。「鉄勒」と呼ばれたトル コ系部族の中に、アルタイ山脈を拠 点にした鉄鍛冶を特技とする部族が いた。忌部氏は鉄勒からの渡来人となります。
突厥国は鍛鉄技術で勢力を拡大した。鍛鉄とは鉄をきたえること。きたえた鉄を意味しています。備前刀作刀の基礎技術です。
14.1 鉄勒と鉄
トルコ系諸民族を統一した突厥国ができたため、当時の中国人は、突厥以外のトルコ人 を総称し「鉄勒(てつろく)」と呼んでいた。同じトルコ系であっても、王家と被支配諸部 族を区別していた。「鉄勒」と呼ばれたトルコ系部族の中には、アルタイ山脈を拠点にした 鉄鍛冶を特技とする部族がいた。「鉄」という文字は鉄勒(てつろく)に由来している。 突厥の首長であった「阿史那(あしな)氏」は、首長であると同時に呪術師でもあった。 当時、金銀より貴重であった鉄の兜を用意させ、それをかぶり巫術を行った。突厥はモン ゴル系「柔然(じゅうぜん)」の支配下にあり、トルコ系「突厥」の役割は鉄工であった。 柔然に仕える鉄工の突厥が反旗を翻し、柔然に代わって6世紀半ばから約 200 年間、途中、 東西の分裂や唐による被支配時代を経験し、一大遊牧国家を形成し維持できたのは、「鉄の 技術力」によるものである。『鉄の力』を握るものが世界を制した。鉄を自由に扱える技術 を持つということは、現在の核兵器を持つことと同義である。「製鉄技術」は、世界を制することができる秘伝中の秘伝であった。製鉄技術は特定の部族によって門外不出のワザと して継承された。
15 まとめ
① キュポラ(鋳物溶融炉)と陶製筒型容器の形状が同一である。陶製筒型容器の製法は 同一で有り、突帯で数段に分けている。蓋を取った高さは 127.5cm、基底部内径 40cm と円 筒型埴輪直径 40cm と同寸である。違いは肉厚が 1.4~3.5cm と厚く、透かし孔が無いこと である。
「陶製筒型容器の原型は古墳時代のキュポラ(鋳鉄溶融炉)である。」との大井透氏説は正 しい。製鉄法が変化し送風口も不要となった。陶製筒型容器は鋳物溶融炉の改良型ではな く製鉄記念品である。広島県立歴史博物館の古墳時代の鉄をつくる-復元実験用製鉄炉も同 一形状です。
古墳時代の鉄をつくる-復元実験・古墳時代のたたら製鉄-
わが国で本格的に製鉄が始まったのは,古墳時代(3~6世紀)からで,広島県内では, 戸の丸山(とのまるやま)製鉄遺跡(庄原市)や白ヶ迫(しらがさこ)製鉄遺跡(三次市) などで6世紀ごろの製鉄炉が見つかっています。当時の製鉄方法は,粘土で円筒形や箱形 の炉を築き,これに「ふいご」で風を送りながら炭を燃やし,炉内の温度を 1200℃以上に あげ,少しずつ砂鉄を振り入れて,炉の底に鉄のかたまり塊(鉧(けら))を作りだすとい う方法でした。復元実験では,この古墳時代の製鉄の原理を応用して江の川の砂鉄約 20 ㎏と松の炭約 60 ㎏を使い,6時間余かけて鉄塊約4㎏ができました。
古墳時代の鉄ができるまで
1 炉の乾燥
炉内で薪を燃やして,炉壁を乾燥させる。そののち,炭を入れて燃やす。
2 炭と砂鉄の投入
炭がよく燃え上がったところに,砂鉄を少しづつ投入する。
鉄滓(てっさい)を流しだす
3 鉄滓(てっさい)を流しだす
炉の底に鉄滓が溜まったころを見計らって,炉底付近に穴(湯じ穴)をあけて鉄滓を流 しだす。
4 鉄塊(けら)を取り出す
炭と砂鉄の投入が完了したら,炭がほぼ燃えきるのを待って炉底を壊し,鉄滓のなかの 鉄塊を取り出す。




② 百瀬高子氏説の「縄文時代に製鉄文化があった科学的な可能性」には無理がある。 縄文中期の大型水煙土器の厚みは 2~3cm、丈は大きな物で 40~70cm である。土器炉とし ての条件に当てはまるが、過度な装飾性から実用性無しと判断する。実用品で有るならば 過度な装飾は不要である。鍛鉄技術は自然発生的な技術ではなく、高度な特殊な技術であ り縄文時代には日本に伝来していなかった。
③「円筒埴輪・朝顔型埴輪は古墳時代のキュポラであり、褐鉄鉱を円筒埴輪の中で熱し焼 結を行い鉄を造った。」「朝顔型・円筒埴輪の胴中間部に窓があり、この孔(穴)は製鉄や製 銅の炉として使う送風口である。」は百瀬高子氏が製鉄実験に成功しており、この説は正し い。補説として突帯の用途は、加熱時の割れ防止対策としての針金の代用品と考える。
④ 鉄鉱石は熔けなくても鉄に変えることができる。一酸化炭素 CO が鉄と結合している酸 素を奪って二酸化炭素 CO2 となり鉄鉱石は金属鉄になる。この化学反応に必要な温度は 400 ~800℃程度で、温度が低ければ、固体のまま還元されて酸素を失った孔だらけの海綿状の 鉄になり、温度が高ければ粘いあめ状の塊になる。これは炭素分の少ない錬鉄といわれる ものであり、一般には 1500℃以上にならないと熔けないが、熔けなくても鉄ができる。た だしこれは不純物を含んでいるので、硬いものの上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り 出し、鉄原子どうしをくっつけなおさねばならない。これが「鍛える=鍛鉄」である。こ の鍛鉄により純粋な鉄にすることができる。さらにこれを炭に包んで熱して炭素分を加え て鍛えて鋼にすることができる。『製鉄の歴史』より抜粋
⑤ 日本での製鉄開始は三世紀
広島県三原市八幡町の小丸遺跡から三世紀の製鉄炉が発見された。製鉄は西暦 200 年代、 弥生時代後期から行われていたが鉄鉱石の種類は不明である。諏訪も同一時期だと推定する。岡山県では三世紀の製鉄炉がいまだに発見されていない。
⑥ 特殊器台・特殊壺の出現(岡山県埋蔵文化財センター展示情報 平成 25 年 4 月 23 日)
弥生時代の終わり頃、吉備では集落の祭りに使われていた大型の器台・壺が姿を消し、 変わって墓から、突帯(とったい)をめぐらし、特殊な文様や赤い顔料で飾られた器台や壺 が出土するようになります。これらを特殊器台・特殊壺と呼んでいます。
主に地域の有力者が葬られたと思われる墓から出土することから、この頃、葬送儀礼な どに吉備独特な祭式が生み出されたと考えられます。
吉備で出現した特殊器台は、やがて、他の地域でも使われるようになっていきました。 分布は岡山県南部に特に集中していますが、広島県東部や島根県、奈良県などで出土して います。しかし、何れも備中南部で作られており、吉備から他地域へ運ばれていったと考 えられています。特殊器台の出土は、吉備と他地域の連帯を反映していると考えられます。 広島県立歴史民俗資料館編「古墳誕生の謎をさぐる-特殊器台からはにわへ-(1995)」改変
岡山県の考古学の常識は、「何れも備中南部で作られており、吉備から他地域へ運ばれて いった」である。「古代において割れやすい陶器を遠方迄運搬する緩衝材技術と運搬車とし ては、荷車に箱を乗せ大量の砂を積み、その中に陶器を入れることしか考えられない。原 料持参で陶工が移動したと考えるべき」である。
⑦ 「現在、銅精錬には多孔の横長炉を使用している。」と百瀬高子氏説は 明快である。

安田一誠氏(パナソニック)は、「記述の多項式横長炉は、現在の銅の製造 工程に適用させていただけるなら、現在では、この工程を溶錬といわれ、 銅鉱石を溶融して銅濃縮する工程だと推定されます。具体的には、反射炉 や自溶炉等が横長炉ではないかと思います。」と教示される。
住友金属鉱山株式会社の自溶炉と小名浜精錬所の反射炉


銅精鉱から純度 98%程度の粗銅 を作るため、まず自溶炉で銅を濃縮 する。自溶炉に銅精鉱と金鉱石が投 入され、熱風が吹き込まれて酸化・ 溶融が行われる。銅精鉱中の硫黄分 が燃料となって、高温が維持される ため自溶炉と呼ばれる。銅品位が60~65%に濃縮されたものをマット(鈹〔かわ〕)と言い、比重差によりスラグ(鍰〔か らみ〕主成分は鉄酸化物、硅酸)とに分離される。
反射炉は S 炉からの熔体をカワ(銅を多く含む部分)とカラミに分離する。また廃棄物を 処理することで、銅分を回収すると共に燃料代替として活用している。
⑧ 青銅器と鉄器の融点比較
純銅 Cu は 1000℃以上の温度でなければ熔けない。また純銅は柔らかくて道具にならな い。ところが錫 Sn を混ぜると融点が下がり 700~ 900℃で熔け、しかも硬くなり道具材料 となる。純鉄 Fe は 1500℃以上でなければ熔けない。炭素を含有した最も融点の低い銑鉄 でも融点は 1200℃程度である。
歴史学では青銅器文明が鉄器文明に先行して発達したと言われている。しかし、鉄は青 銅よりもさらに低い温度で鉄鉱石から鉄に固体のままで変えることができ、これを鍛えれ ば使用可能な鉄ができる。鉄はその融点から想像されるよりも、遙かにやすやすと製造で きた。また銅や錫鉱石産地は地球上で偏在しており、広範な交易の発達が必要であった。 鉄鉱石は何処にでもあった。そのため冶金学的には青銅に先行して鉄が用いられた可能性 大である。鉄は未開の地に於いても小規模で手軽な装置で製造できた。
『製鉄の歴史』より抜粋
⑨ 備前市伊里川には古代たくさんの葦が茂り、大量の「褐鉄鉱(高師小僧)」が転がって いたと推定される。大井透氏は「仮説ですが、中国地方は山間の平野部は沼沢地が多く高 師小僧等の低品位の鉄資源が豊富に得られた。しかし、その段階では当然得られる製品の 品質の程度も低く農器具程度には使用できたであろう。武器に使用するほどではなかった であろう。朝鮮式の川原で砂鉄を焼いて作る方法では製造量も小規模であったと思われ る。」と「褐鉄鉱(高師小僧)」に注目している。
しかし、岡山県の製鉄遺跡で褐鉄鉱を用いた製鉄を示す考古学的証拠は見つかっていない。
⑩ 画期とは褐鉄鉱を使用した鍛鉄法から磁鉄鉱への鉄鉱石の変化と製鉄法の変化を意味 していると考える。武智泰史氏(倉敷市立自然史博物館)の教示、「原始・古代に鉄含有率が 低い高師小僧のような褐鉄鉱を鉄鉱石として利用できたとは考えにくい。・・・単体の鉄は 得られなかったのではないかと思う。」の解決策が鍛鉄技術である。
美濃関市の大野兼正刀匠が鉄の品位の低い鬼板(尾張・瀬戸地方の第三紀層で多量に産出する褐鉄鉱)や美濃金生山の赤鉄鉱を使って鉄を造り、刀を鍛錬し美濃国一宮南宮大社(岐 阜県不破郡垂井町)に奉納されている。この事実が鍛鉄技術を証明している。
16 参考情報
16.1 熊山の赤鉄鉱
熊山で若狭鉄六氏は、1989 年(平成元年)に熊山の鉄として、赤鉄鉱を発見している。1989 年(平成元年)8 月 25 日、NHK モーニングワイドにっぽん列島ピックアップ『謎の鉄鉱石を 追う』が放映されている。熊山の鉄としての赤鉄鉱発見が放映された。私は備前の鉄に注 目し、この業績を高く評価している。NHK に対して再放映を依頼したい。鉄鉱石の大半は 三酸化二鉄の赤鉄鉱として埋蔵されている。三酸化二鉄にはアルファ型とガンマ型の 2 種 があり、赤鉄鉱はアルファ型で、磁赤鉄鉱(マグヘマイト)と呼ばれる鉄鉱石はガンマ型 である。磁石を赤鉄鉱に近づけてもほとんど反応しないが、磁赤鉄鉱は磁石に吸い寄せら れる。赤鉄鉱はオーストラリアやブラジルから輸入されている。磁石につかないものを、 どうして発見できたのか。
16.2 ハガネ土と伊部焼・焼成温度
鋳物師は鋳物に必要な土を採取していた。鋳物に使用する土が伊部焼の原点である。貞 観 13 年(871)『貞観式』に備前国からの須恵器貢納の記録がある。伊部焼発祥に伊部独立 説がある。他に類例の少ない独特の陶器である。1721 年成立の『備陽記』に「土は邑久郡 磯上村から出る土取」とあり、原土(ヒヨセ・鉄分 2.2%含有)に山土を混ぜて土の粘り を持たせている。山土はハガネ土と称する黄土叉は笹土を使用している。黄土をハガネ土 と呼ぶのは伊部のみである。ハガネ土とは鋳物に必要な土を意味している。伊部焼の焼成温度は松割木を使用し、最高 1320 度で 1 週間以上焼き続ける。この焼成温度には鋳物師の 基礎技術が応用されている。鉄鋳物の溶解温度は、1200℃であり、注湯温度は 1300℃~ 1500℃である。
16.3 熊山の赤鉄鉱と『鉧』
平成元年に熊山山塊で若狭哲六氏が発見した『鉧(けら)』について、「渡来品か国産品 か、我国の古代製鉄技術の謎を解く上で極めて重要」と指摘している。鉧(けら)とは、 出来上がった製品のことである。分析結果は、「チタン成分は極めて少なく、マンガンを多 く含有しており、砂鉄系製錬ではなく鉱石系精錬である」。製鉄炉の存在を証明する鉄滓(て つさい・スラッグ)も多く発見している。スラッグの分析結果は、「チタン・バナジューム の含有量は比較的、他地域より少なく鉱石系による鉄製錬のもの」である。今後の詳細な 調査結果によっては「日本の製鉄技術史を変えるかもしれない」と報告している。
17 参考文献
① 『鉄の考古学』考古学選書 9 窪田蔵郎 1973 年 雄山閣出版
② 『古代の製鉄』山本博 1975 年 学生社
③ 『たたら製鉄の復元とその鉧(けら)について』黒岩俊郎 1971 年 たたら製鉄復元 計画委員会報告
④ 『たたら日本古来の製鉄技術』1976 年 玉川大学出版部
⑤ 「信濃の古代製鉄」『伊那の谷から古代が見える』
http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage11.html
⑥ 『御柱祭 火と鉄と神と―縄文時代を科学する』百瀬高子 2006 年 彩流社
⑦ 『高師小僧 もうひとつの古代製鉄の原料? 知っていますか』
愛知県豊橋市高師が原台地に『高師小僧』を訪ねて
http://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/12takashi.pdf
⑧ 2000 年度秋季シンポジューム論文集「本州中央部における鉄文化の展開」日本鉄鋼協 会 社会鉄鋼工学部会
⑨ 吉備国の語源『黄蕨』と羈縻(きび)政策 『熊山遺跡出土品』の考察 丸谷憲二 平成 22 年 3 月 20 日 岡山市瀬戸公民館「瀬戸町の文化財を語る会」講演
⑩ 『先史日本の夜明-世界史的に見た吉備-女王終焉の地 熊山』若狭哲六 平成 2 年 吉備先史古代研究会
⑪ 『平成 21 年度特別展 土と火のオブジェ -縄文の土器・土偶から現代備前焼まで-』 2009 年 岡山県立博物館
18⑫ 『吉備の古代史 王国の盛衰』門脇禎二 1992 年 日本放送出版協会
⑬ 『備前熊山仏教遺跡考』近江昌司 1973 年 天理大学学報 第 85 号
⑭ 『はにわ 形と心』2003 年 国立歴史民俗博物館
⑮ 『日本の古代遺跡 23 岡山』間壁忠彦 間壁葭子 昭和 60 年 保育社
⑯ 『日本の古代遺跡 50 長野』桐原健 樋口昇一 平成 8 年 保育社
⑰ 『製鉄の始まり』 http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm
⑱ 『和鋼博物館』 http://www.wakou-museum.gr.jp/hajimeni.html
⑲ 『製鉄の歴史』
http://fnorio.com/0056history_of_iron_manufacture1/history_of_iron_manufacture1. htm
⑳ 『広島県立歴史博物館 古墳時代の鉄をつくる』
http://www.manabi.pref.hiroshima.lg.jp/rekimin/tenji_tetu.html
21 『住友金属鉱山株式会社』
http://www.smm.co.jp/business/refining/domestic/touyo/kyoten.html
22 『巨大精錬跡が残る犬島』http://haikyo-hunter.blog.so-net.ne.jp/2009-12-28
23 『鉄の歴史村』http://www.tetsunorekishimura.or.jp/history.html
24 『真説日本古代史 特別編の三 謎の銅鐸』
http://www2.plala.or.jp/cygnus/s3.html
25 『剱と鐸(さなぎ)と天津彦根命の神裔たち』
http://www.ten-f.com/sanagi-to-amatuhikone.html
26 『神使「御頭祭の異聞」 Ver24.9.15』
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/okou.htm
27 『倭彦命墓「桝山(ますやま)古墳」』
http://urano.org/kankou/sanzan/sanzan01.html
28 『池子の歴史』
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29 『第 202 回 須佐の男の命伝承(その 2)と草薙の剣』
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku202.htm
30 『操山と吉備国 銅鐸出土地の考察』丸谷憲二 平成 22 年 07 月「熊山遺跡群調査研 究会」講演
31 『鉄と神 歴史と素敵なお付き合い』 http://rekisisuki.exblog.jp/19528766 32 『おさるの日本刀豆知識』 http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/index.htm 33 『製鉄技術史のための基礎知識』
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron/Hist ory_of_Iron_background01.html
34 『土器の考古学』小林達雄他 2007 年 学生社
35 『銅鐸』藤森栄一 1997 年 学生社
36 『古事記』山口佳紀他校注 1997 小学館
37 『古語拾遺・高橋氏文』新選日本古典文庫 4 1976 現代思潮社 19
38 『続日本紀一』新日本古典文学大系 1989 岩波書店
39 『小名浜精錬所の銅精錬とリサイクル』
http://group.mmc.co.jp/osr/02/img/osr_refining_recycle.pdf
