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ヤマト政権と中華思想(東京大学.1994)

新年度は仕事が忙しいですね(笑)
4月は論述問題を解く機会が多かったので今回は東京大学(1994)を題材にしよう。しばらく投稿は論述が多いと思われ…


問題

(1) 興死して弟武立つ。(略)順帝の昇明二年(478年)、使を遣して上表して曰く、封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖彌(父祖、または祖父の彌〔珍〕か)躬ら甲冑を〓[つらぬ]き、山川を跋渉して寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国。(略)臣(武)、下愚なりといへども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率して、天極(皇帝のこと)に帰崇し、道百済を遙て船舫を装治す。(略)詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す。         
(『宋書』倭国伝、原漢文)

(2) 大業三年(607年)、其王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者曰く、聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣して朝拝せしめ、兼ねて沙門(僧侶)数十人をして、来って仏法を学ばしむと。其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云云」と。帝(煬帝)、之を覧て悦ばず。鴻臚卿(外交を司る官)に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿れ」と。            
(『隋書』倭国伝、原漢文)

設問
A 史料(1)と史料(2)の間では、倭国の王の中国皇帝に対する対し方はどのように変化しているか。2行以内で述べよ。
B 設問Aの変化をもたらした歴史的な背景を、国内・国際両面について5行以内で述べよ。


史料(1)と史料(2)はどちらも有名な史料で、内容についても多くの人が知っているものであろう。
東京大学は字数について「〇行」とする。1行が30文字なので、設問Aは2行とあるので60文字で答えよということである。

なお、問題は以下のサイトを参考にしている。
解答もついているので確認してみてほしい。


解説

設問Aの要求は、⑴と⑵で倭国の遣使の目的がどのように変化したかである。

史料⑴の内容からわかることは以下のことだろう。
①倭王武は軍事力を背景に国内や朝鮮半島(?)を統治している
②(順帝)は倭王武を六国諸軍事安東大将軍に除す
 
①について、
武とは雄略天皇のことと指摘され、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣や熊本県江田船山古墳出鉄刀に記されているワカタケルのことだとされる。
そしてこの二つの鉄剣鉄刀の存在から

雄略天皇の時代にヤマト政権は九州中部~関東の広い範囲を勢力下に入れた。

と説明される。
この点は史料⑴の「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国」の記述と一致するところだ。
おそらく、「毛人」とは蝦夷を、「衆夷」とは隼人を指すと考えられるが、「海北を平らぐること九十五国」が実はよくわかっていない。
海を渡る、ということなので朝鮮半島?かと指摘される。
とすると、雄略天皇は宋の順帝に対して「朝鮮半島も勢力下に入れている」ことを主張しているのである。
史料⑴の最後、②の点だが「新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」とあることから、ある程度は認められたらしい。

ここで今回の問題のキーワードとなる「中華思想」について説明しよう。

「新詳日本史」(浜島書店)をみてみよう

周辺国の中国への従属を前提にした外交関係(東アジア国際秩序)である。同時に貿易関係でもあり、貢物以上の下賜品が得られる周辺国には、大きな利益があった。この国際秩序を通じて、唐の時代には漢字・儒教・仏教・律令などを共通項とする、東アジア文化圏が形成された。

と説明してある。

語弊を恐れず簡潔に説明すると、

「中国皇帝が世界の支配者である。皇帝を慕って周辺国は自ら挨拶に来る。なので来朝した労を労ってお土産を渡そう。」

という感じであろうか。
世界の中心に属する文明国である「中華」、周辺国は文明を知らない人々がいる。なので皇帝の「徳」をもって文明を与えてあげよう。

上から目線がすごい…(笑)

周辺国はこんなことを言われておとなしく従っていたのであろうか。
従っていたのである。なぜならもらえる「お土産」が国益に叶うものだったからである。

そして朝貢してきた国にたいして皇帝は「称号」(=王など)を与える。
この称号を受け取ることを冊封と呼ぶ

つまり、史料⑴の倭王武は最終的に「安東大将軍」を与えられているので「冊封に入った」と評価できるのである。この意味については設問Bで説明しよう。

さて。史料⑵からわかることをまとめよう。遣隋使に関わる著名な史料だ。次の箇所に注目したい。

①「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云云」

有名なフレーズだ、この部分の意義については誰もが知っているであろう。

「平等な関係を求めた」のである。

史料⑵を読み進めてもなにかしらの称号を受取ったという記述はない。
つまり

史料⑴=冊封を受けた。
史料⑵=冊封を受けない。

となる、この点を説明すればよい。


設問のBをみてみよう。5行なので150文字以内だ。

設問Aの変化をもたらした歴史的な背景を、国内・国際両面について5行以内で述べよ。

設問Aの変化を引き起こした歴史的背景を説明する。
条件は国内・国際面について指摘することだ。

国内面から確認しよう。そもそもなぜ朝貢するのだろうか?

『後漢書』東夷伝では57年と107年には使いを送っている。
とくに57年は「漢委奴国王」という称号を受取っており、冊封下に入っている。
「魏志」倭人伝の239年にも卑弥呼が使いを送り「親魏倭王」という称号で冊封下に入っている。

じつはこの二つの史料からは「倭国が内乱状態」ということがわかる。
『後漢書』東夷伝には「倭国大乱」という状況が読み取れ、「魏志」倭人伝では、邪馬台国が狗奴国と抗争中であったころが記されている。

ここから朝貢の理由を読み取れる、称号を受取る(皇帝に支配を認めてもらう)ことで国内で有利な立ち位置を獲得し、戦争を優位に進めようということである。また、「魏志」倭人伝では卑弥呼に対して銅鏡が与えられたとあるが、これも「権威物の目に見える形」と考えることができる。

倭王武も同じように考えることはできないだろうか?
史料⑵の時代から60年ほど下ると磐井の乱が発生する(継体朝)。
ここからわかるようにまだまだ国内を統一できたとは言い難い

国内がようやく安定に向かうのは推古朝の頃であろう。
推古天皇は初の女帝で、その政治を蘇我馬子や厩戸王が補佐した

ヤマト政権は服属した豪族を編集し直して「氏」を与え、氏単位で大王家に対する奉仕を求めた
氏族とは血縁関係から成り立つ集団である、と理解されるが、古代にあってこれは正しくない。むしろ血縁関係があるほうが少ない。これは「擬制的血縁関係」と呼ばれる。
〇-〇-〇と系図で表されていてもこれが直ちに父-子関係を表したものではないのである。(族長地位の交代を表している可能性が高い)

ちなみに父-子の直系継承が指向されるのは持統~聖武朝と思われる。このあたりは『日本書紀』の編纂過程にも深く関わってくる話なので、別の記事で話そうと思う。

推古朝成立以前の国内政治を確認しよう。

ヤマト政権にはいくつか中央有力豪族が存在しており、そのなかでも大連(おおむらじ)であった大伴氏・物部氏がいた
しかし、大伴氏は540年に大伴金村が朝鮮政策の失政を咎められて失脚、物部氏は蘇我氏との崇廃仏論争に関わって587年に物部守屋が討たれ、その勢力を大きく後退させている。

つまり推古朝では蘇我氏一強体制が出来上がっていたのである。また、これにより国内は以前に比べて比較的安定していたと思われる。

これこそが「遣隋使において倭が冊封を受ける必要がなくなった」理由である。
冊封=中国皇帝から称号を受取るという行為は、国内向けには内乱を優位に進めるという意味が大きかった。5世紀~6世紀初頭にかけて急速に氏とカバネの制度(=氏姓制度)が整備されたことも安定へと向かった要因であろう。

国際面の説明に入ろう
6世紀後半には東アジアで大きな変動があった。隋という統一王朝の出現である。これ以前の中国大陸では南北朝時代と呼ばれ、大陸の「内」での戦争が行われていた。隋は「内」での戦争が終わると、その武力を「外」に向けるようになる。具体的にいうと高句麗への侵攻である。
この結果、微妙なバランスで、そこそこ安定していた高句麗・新羅・百済の朝鮮三国は激動の7世紀を迎えることになり、この影響は倭国にまで波及するのである。

激動の7世紀を朝鮮三国や倭国はどう乗り越えようとしたのか。
中央集権化、もっと踏み込むと律令国家を目指すことによってこの危機を乗り越えようとした。
(=中央集権化による指導力の強化)

このタイミングで蘇我氏が権力を確立していたことは必然だったったかもしれない。蘇我氏は日本最古の寺院である飛鳥寺を建立するが、これには大陸の高度な土木技術・測量技術が必要であった。これら技術を持つ渡来人を多く配下に持っていた。こうした情報ルートを持っていたため、東アジアの急激な変化にも敏感に対応しようとした(乙巳の変で中大兄皇子が蘇我本宗を滅ぼしたように、蘇我氏が中心という路線は失敗する)。

改めて史料⑵の内容を確認すると、倭国からの対等を求める国書をみた煬帝は激怒している「蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿れ」とある。
しかし、日本には答礼使として裴世清を遣わし、608年と614年にさらに遣隋使が派遣されている
倭国は許されたらしい。なぜなら、隋は高句麗と戦争状態であったからだ
煬帝はこう考えたのであろう、「倭が隋の要請で高句麗を背後から攻撃すれば高句麗を落とすことができる、手紙は無礼だが、高句麗が優先だから許しておこう」と。

このタイミングで対等を求めたのは、倭国が上記のような国際関係を理解し、利用した結果なのである。

ちなみにこの国書は誰が考えたのであろうか?
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云云」

日が昇る=東
日が沈む=西

上下左右や東西南北という語句を使用する際は必ず「起点」を定める必要がある(普段無意識にやっている)
日本列島にから見たら西には隋だが、東は太平洋だ…
古くからこの国書は厩戸王(聖徳太子)が関わっていると指摘される。
じつは厩戸王の仏教の師は恵慈と高句麗出身の僧侶だったりする。
恵慈は厩戸王のゴーストライターを務めたのだろうか?

もう一息だ。

中国と対等な立場を求めた倭、つまり大王(天皇)=皇帝となろうとした。
これは「日本独自の中華思想」の表れを意味する。

史料⑴からも確認できるが、倭は中国に対して「朝鮮半島に対する指揮権統治権」の承認を求めている。
つまり
中国>日本>朝鮮半島
である。
史料⑴から発展して、史料⑵では中国と対等な関係を主張することで、朝鮮政策を行おうとしていたのである。

この日本独自の中華思想は平安時代になるとはっきり表れてくる。
これを本朝思想と呼んだりする。平安時代の書にいくつかこの思想を前提にした書物が著される。
『和漢朗詠集』は和(日本)と唐の詩の対比を行おうとしており、『今昔物語集』は天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)という分類で著されている。

こんな話もある。
752年の遣唐使で副使を務めた大伴古麻呂という人物がいる。この人物は現地で席順をめぐって新羅と争い、日本を上座に移動させたというエピソードがある。
新羅といえば、8世紀には日本と緊張関係になる。

新羅が最終的に朝鮮半島から唐勢力を追い出して統一するが、7世紀後半までは日新羅関係は割と良好であった日本は新羅を仲介して唐文化を吸収し、白鳳文化を生みだした。しかし8世紀になると急速に日新羅関係は悪化する。遣唐使のルートも北路から危険な南東路へ変更している。
日本が新羅を朝貢の国と位置づけようとしたことに新羅が反発したことが関係悪化の原因だ。

以上の話から解答は作れると思う。
また次の機会に。

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