江戸幕府は朝廷を従えたのか?(東京大学1994年)
GWですね。本日は江戸時代について。
院政期を迎えると朝廷の存在感は急激に薄れてゆく。中世は一つの政権が日本全国を統治していたわけではなく、朝廷・幕府・寺社(荘園領主)がそれぞれの役割を結果的に担うことで統治が行われていた。
これを難しい言葉で「権門体制」と呼ぶ。鎌倉時代限定だが、教科書用語では「公武二元体制」がこれにあたる。
江戸幕府が成立すると、幕府は禁中並公家諸法度をだす。その内容は朝廷の政治的権力を抑制(禁止)するとともに、その活動に大きな制限を加えるものであった。
では、この禁中並公家諸法度をもとに
幕府>朝廷
という式がそのまま成り立つのか?
この点について、東大の過去問から考えてみよう。
問題
江戸時代の朝廷に関する研究は近年になって盛んとなり、江戸時代におけるその存在の意義や果たした機能が、さまざまな側面から解明されてきている。下に掲げた年表を参考にして、江戸時代初期の幕府と朝廷との関係の特徴を、5行以内で記せ。
↓表↓
1603(慶長8)年 徳川家康、征夷大将軍に任命される。
1605(同10)年 徳川秀忠、征夷大将軍に任命される。
1615(元和1)年 幕府、禁中並公家諸法度を定める。
1617(同3)年 朝廷、亡くなった徳川家康に、東照大権現の神号を
勅許する。
1623(同9)年 徳川家光、征夷大将軍に任命される。
1627(寛永4)年 幕府、大徳寺などの僧の紫衣着用の勅許を無効とする。
1645(正保2)年 朝廷、日光東照社に宮号を勅許する。
この結果、日光東照宮となる。
1646(同3)年 朝廷、幕府の要請により、日光例幣使(1)を派遣する。
幕府、朝廷の要望をいれ、長く中絶していた伊勢例幣使(2)
の再興を認める。
注(1) 日光例幣使 日光東照宮に礼拝のため、朝廷から毎年派遣された使い。朝廷の東照宮に対する崇敬を示す。
(2) 伊勢例幣使 朝廷から、伊勢神宮に毎年派遣された使い。15世紀後半
以来、中絶していた。
解説
東大の問題はよくできている。リード文や表や史資料が提示されている場合は基本的には「すべて使う」と考えよう。
リード文に「江戸時代におけるその存在の意義や果たした機能が、さまざまな側面から解明されてきている。」とある。
ここからただ論述するだけでなく「様々な側面から論じる」必要があることを確認しておこう。
この問題は
・主題
江戸時代初期の幕府と朝廷の関係を論じる
・条件
①朝廷の意義を様々な側面で論じる
②特徴を論じる
③年表を参考にする
とまとめられるだろうか。主題と条件はどんな論述問題でも必ず書き出してほしい。
とりあえず、使えそうな単語を確認してみよう。論述問題はとにかく手を動かし見ることが大切だ。解答の方針が立たない時はとりあえず周辺知識を思い出せるだけ思い出してみよう。
徳川家康 征夷大将軍 禁中並公家諸法度
紫衣事件(後水尾天皇) 禁裏御領 京都所司代 武家伝奏
江戸時代初期の朝幕関係というとこんな感じか。
指定文字数は150文字(5行)とあるので、もちろんすべては使えない。気を抜くとあっというまに200文字くらいにはなってしまう。解答の方針を考えるときに取捨選択が必要だ。
次に表を確認しよう。
表に書かれている出来事はかなり具体的な内容だ。朝廷が家康の死後に「東照大権現」の神号を勅許するという事実はここで初めて目にするだろう。
つまり、表や史資料を扱うときは以下の手順で整理する必要がある。
①内容を確認(把握)
②具体的な内容をできる限り抽象化する
③②からラベルを作り、分類する
という手順だ。
この手順に基づいて表を整理すると、
1603(慶長8)年 徳川家康、征夷大将軍に任命される。…①
1605(同10)年 徳川秀忠、征夷大将軍に任命される。…①
1615(元和1)年 幕府、禁中並公家諸法度を定める。…②
1617(同3)年 朝廷、亡くなった徳川家康に、東照大権現の神号を
勅許する。…①
1623(同9)年 徳川家光、征夷大将軍に任命される。…①
1627(寛永4)年 幕府、大徳寺などの僧の紫衣着用の勅許を無効とす
る。…②
1645(正保2)年 朝廷、日光東照社に宮号を勅許する。…①
この結果、日光東照宮となる。
1646(同3)年 朝廷、幕府の要請により、日光例幣使(1)を派遣する。…①
幕府、朝廷の要望をいれ、長く中絶していた伊勢例幣使(2)
の再興を認める。…③
となり、ラベルとして
①:幕府が朝廷を利用
②:幕府による朝廷統制
③:幕府が朝廷に協力
というように整理できる。
例えば、征夷大将軍への任命だが、名目上は「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康を称えて~」ということであろうが、家康の求めに応じて朝廷が与えたと考えるのが普通であろう。
関ヶ原の戦いは「豊臣政権内での内紛」と理解するのが正しい。つまり、武家の上位に豊臣氏が存在しており、あくまでも徳川氏はその臣下という扱いであった。これを脱するために徳川家康は征夷大将軍を望んだのであろう。源頼朝が征夷大将軍に任じられて以降、征夷大将軍は「武家の棟梁」として武家を統率できる権利を朝廷から承認されることを意味する。表にもあるが、1605年に徳川秀忠が将軍宣下を受けて2代将軍となり、徳川家康は駿府にもどって大御所として君臨する。
これも征夷大将軍(幕府将軍)が徳川氏による世襲であり、朝廷もこれを認めたことになる。
ここから、①の:朝廷が幕府を利用するという意味は「徳川氏(幕府)の権威付け」とまとめることができる。東照大権現への神号やその後の宮号の勅許も幕府創始者家康への顕彰と理解できる。
次に禁中並公家諸法度を確認してみよう。史料の内容を以下に掲げる。
・史料「禁中並公家諸法度」
一 天子諸芸能の事、第一御学問也。…
一 摂家為りと雖も、其器用無きは、三公摂関に任ぜらるべからず。 況んやその外をや。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且は臈次を乱し、且は官寺を汚し、甚だ然るべからず。…
1行目の「天子諸芸能の事、第一御学問也」という部分。ここに幕府が朝廷に対する対応のほぼすべてが詰まっているといっても過言ではない。
要するに、「天皇(朝廷)は政治には一切関与せずに、有職故実の研究や、研究を通して古来の儀礼の維持だけに努めよ」ということだ。政治は幕府が責任もってやるので口を出さないでほしいということだ。
2行目について、「摂家」とは一条・二条・九条・近衛・鷹司家の五摂家と呼ばれる家のことで、「三公」とは太政大臣・左大臣・右大臣のことをいう。
平安末期以降、「官司請負制」という制度が整えられ、官職は特定の家が世襲するようになった。摂関家は三公を世襲する家となっていたが、摂家生まれの人物でも「器用無き=ポンコツ」は三公に任じてはいけないということを法度では主張している。
江戸幕府以前にも鎌倉・室町幕府がそれぞれのやり方で朝廷との関係調整を行っていたが、江戸幕府だけ前代とは違う大きな特徴があった。それは「公家の官位と武家の官位」を分けたという点だ。
具体的に言うと、「陸奥守」という官職はもちろん1人しか任じられないが、これを公家の陸奥守と武家の陸奥守と分けたのである。
この意図は「武家社会と公家社会の完全なる分化」である。大名が武家官職を朝廷に求める場合は、幕府がその窓口となり一括申請し、朝廷は幕府を介してその官職名を得るのだ。
これにより、朝廷と大名が個別に結び付くことを事前に阻止することができる。この点は非常に重要だ。このシステムのおかげで天下泰平の江戸時代が生まれたといっても過言ではない。
ということは、公家社会でもこれを率いるリーダー的存在が必要となる。その任務に摂家に担ってもらおうと考えたのである。だからポンコツが三公に任じられると困るのである。天皇が政治的野心を見せた場合にそれを諫められるような力量が求められたのである。
さて、表には1627年に「幕府、大徳寺などの僧の紫衣着用の勅許を無効とする」とある。
この部分は公家諸法度の「紫衣の寺住持職、先規希有の事也」と対応する。
紫衣とは、高位の僧侶に天皇が勅許を下すことで与えられる衣服のことである。公家諸法度では、「そもそも軽々しく与えてはいけないので、やめなさい」と求めているのである。
この規定を無視して当時の後水尾天皇は大徳寺の沢庵という僧侶に紫衣を許してしまう。
幕府はこれを法度違反と判断し、この勅許を取り消す。これに抗議した沢庵は出羽に流罪となり、後水尾天皇は抗議の譲位を決行した。この一連の流れを紫衣事件と呼ぶ。
ちなみのその後の天皇は徳川秀忠の娘の和子が後水尾天皇との間に産んでいた女の子が即位した。明正天皇である。奈良時代以来の女帝の誕生がこの事件の混乱ぶりを示唆しているように思える。
この事件の意義は「天皇の勅許よりも法度の効力のほうが上である」ということを明示した点にある。幕府>朝廷という力関係が示された事件であった。
これがラベル②の「幕府による朝廷統制」に当てはまる。
では幕府は完全に朝廷を支配下に入れたのであろうか?
ここで注目したいのが、表の1646年の部分である。
「朝廷、幕府の要請により、日光例幣使(1)を派遣する」
「幕府、朝廷の要望をいれ、長く中絶していた伊勢例幣使(2)の再興を認める。」
という部分だ。
お互いがお互いの求めに応じて行動している。
そもそも江戸幕府は徳川家康が「朝廷から征夷大将軍を授かり」成立した。具体的に身近な例で考えてみよう。
学校の先生から褒められるのと、内閣総理大臣から褒められるのではどっちが他人に自慢できるだろうか?
そういうことである。権威ある人や職業や組織から認められるからこそ意味があるのである。
つまり、江戸幕府の正当性とその権威付けのために朝廷は無くなってもらっては困るわけで、その権威をしっかりと維持してもらわなければ困るのである。権威とはつまり有職故実を通して古代から連綿と行われる儀式や作法を滞りなく行うことである。
なので、幕府は伊勢例幣使という朝廷儀式の再興に協力し、そうして権威付けられた朝廷から日光例幣使を派遣してもらうことで幕府の権威付けを行い、全国を統治する政権としての正当性を担保するのである。
以上の点から解答を作ることができるであろう。
解答
徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任ぜられることで、武家の棟梁としての立場を示し、禁中並公家諸法度で朝廷が幕府の統制下にあることが明示された。一方、徳川家康の神格化を目指すために幕府は朝廷の権威付けとして利用し、幕府も朝廷の求めに応じて伊勢例幣使を復興するなど、相互補完的な関係が続いた。(142文字)
ぶっちゃけ私は解答作成の経験が多くはないのでこれで満点をとれるかどうかは微妙であろう。あくまでも参考程度に。
