その無駄は無駄ではないかも
「拡散希望! ゴールデンウィークが逃げ出しました。まだ近辺にいる可能性あり。捕まえてくださった方にはお礼差し上げます」
SNS上に現れたこんな投稿に笑いを誘われつつ、皆考えていることは同じなのだなと、ほのかな親近感が湧いてきます。心待ちにしていた連休も過ぎ去った今、あれもこれもするはずだったのに、と頭の中で未達成リストを思い浮かべて遠い目になりながら。
それでも、かろうじて実現できたことのひとつが友人とのパークヨガです。天候も良い午前中に自然公園で集合し、のんびりといくつかのアーサナや太陽礼拝を試しつつ、充足した時間を過ごせました。
その後は公園からほど近い小さなレストランで昼食を摂り、テイクアウトしたアイスティーを片手に、川べりまで歩きます。
すでに気温は上がっていたものの湿気はなく、木陰に入れば川風の冷たさも相まって清涼感を肌に感じます。本格的な夏を迎える前の、この季節だけの爽快さです。
手すりと背もたれが凝った曲線を描く錬鉄製のベンチに腰掛け、お互いの近況や会わなかった間の変化についてなど、話の種は尽きません。
友人の足元はすでに夏仕様の華奢なサンダルで、組んだ脚をゆらめかせているためその足先も目につきます。
その時に初めて気づいたのが、友人の足の爪の上に、どんな色もないことでした。以前は数色をグラデーションで塗り分けたりと、季節に合わせた仕上がりに心を砕いていたのに。
私の視線を追って友人も自分の足先を見て、照れたような笑みを浮かべました。
「あのネイル好きが、だよね。今は何もしてないの。変?」
「まさか。じろじろ見てごめん。かなり意外で」
「ああ、とんでもないネイルホリックでしたから」
友人は足と同じく何も塗っていない手の爪を見せびらかすように振り、私はその手を、次いで友人の顔を見ます。
「聞いていい? 何かあった?」
「うーん、面白い答えじゃなくてごめんだけど、何も。突然どうでもよくなっただけ」
「そうなんだ。まあ、あるね、そういうこと」
「ネイルサロンの回数券、残ってるのにどうするんだ、っていうね」
それは日々の生活の中に訪れる変化の瞬間であり、思いがけず起こる心変わりのようでした。
私にとってもそんなことはしょっちゅうで、その最もわかりやすい例は、高校生の頃にカットモデルをしていた際の話でしょうか。ヘアアレンジやカットの大会でも多くの賞を取っていた有名なヘアサロンで思いがけずカットモデルを務めることになり、それはもう、ありとあらゆる施術を試しました。
校則のゆるい学校だったためそういうことができたのですが、二週間に一度はお店に行き、その度ごとに部分的にパーマをかけたり、全体に感じの違うウェーブにしたり、毛先にレイヤーを入れては次回はその部分を切りっぱなしにし、前髪も伸ばしたり、巻いたり、流したり、カラーの微妙な変化を追求したりと、担当の美容師さんと共に楽しい実験を繰り返しました。
会うたびに印象が違う、今度の髪型はすごく似合ってる、などと周りも私のそんなカメレオン状態に盛り上がっていたのですが、ある時、前触れもなく突然もういいかなという感覚になりました。美容師さんには事情でしばらくお店に行けなくなったと連絡を入れ、それっきりです。
周囲には驚かれたり残念がられもしましたが、私自身は何の未練もなくさっぱりとしたものでした。
ミケランジェロ・アントニオーニの映画の中で、ヒロイン役のモニカ・ヴィッティが
「みんな同じよ。飽きるのよ」
と虚無的な表情でつぶやき、本も、クロスも、テーブルも、男も、と次々に挙げていくシーンがありましたが、それほど捨て鉢ではなくても、飽きること、昨日好きでたまらなかったものが今日もう好きでなくなる、というのは、不条理なようでいて実はごく当たり前な人間の性なのかもしれません。
人は生きている限り変わり続けるものですし、少し大げさに言うならば、その変化を拒む時、何かが壊れるか死ぬのです。
だからある時、それまでとは全く違う方針を取ったとしても、それは気まぐれや心変わりと責められるべきではなく、速やかに新しい方向へと向かう勇気や純粋さを讃えられるべきかもしれません。誰もほめてくれなくても、自分はまた新しくなった、別の可能性を試した、とひそかに満足すればいいのかもしれませんし。
そのためにただひとつ、少し残念に思ったのが友人のこんな言葉です。
「やめると楽だし、一体今まで何であんなにネイルに夢中になってたんだろう。あれだけの時間とお金、無駄にしてたって考えるともったいなかったな」
我が友ながら、ここは声を大にして異を唱えたいところです。それまで愛していたものに気持ちがなくなるのは仕方のないことながら、だからといってそれ自体や、それを好きだった頃の自分まで否定するのはいかがなものか。
ネイルは生きる上で必要不可欠ではなく、全くの嗜好品である以上、夢中になる人も、何の興味関心もない人がいるのも当然です。
そして自分が”夢中の人“から“何の興味関心もない人”に変わり、同時にそれまで感じていた魅力が色あせてしまったとしても、さっそくそれを否定するのは悲しいことです。
そこに犯罪性がない限り、どんな趣味嗜好に
も、必ず何らかの価値があるというのが私の考えです。それが自分には理解できない、ほとんど好ましくないものであったとしてもです。
その趣味があることで、ある人たちは日常を送れているのかもしれませんし、ささやかな楽しみ以上の、何か大きな力を得ていることだってあるかもしれません。
かつてデザイナーの山本耀司さんが、インタビューでこう話していました。
「ジャズが好き、こんな柄が好き、って言うと、ああ、いい趣味ですね、って言われるんだけど、危険な考え方ですよ、それは。本当は、趣味にいい悪いなんてないんだから」
私の解釈では、それが“危険”なのは、世界が狭まってしまうだけでなく、排他主義、差別意識にもつながるからです。何かをいい悪いと感じるのも、自分の幼稚な偏見ゆえかもしれませんし、だいたい自分の価値判断で、人の好みに口を出し、良し悪しを決めつけるのは、いささか傲慢で乱暴です。
一方的な批判や検閲のある世界に、幸せはありません。
だからこそ私は、自分自身の心境の変化で、かつて好きだったもの、その時の自分まで否定してしまう友人の言葉が、あまりにもなことに思えたのです。
「もうやり切った、って思えるくらい夢中で追求したっていうことだから、全然無駄じゃなかったと思うよ。こっちまで見てて嬉しくなるくらいの完成度だったし。今のナチュラルな感じもいいけどね」
今はもうきれいに形を整えてあるだけで、何の色も飾りもない友人の爪を見ながらそう口にすると、友人もやや間を置いてから小さく微笑み、そうかもしれない、とうなずきました。
「確かに、あれはあれでよかった気もする。今はもう大丈夫だけど、色々あった時期に、ああいうのって必要だったのかも」
そうかもね、と私もうなずきながら、不必要なもの、余計なもののひそかなはたらきについて、なんとはなしに思いをはせます。
特にある種の人たちは、そんな遊びやゆとりを人より多く必要としていて、それがないと辛くなるものかもしれません。
私や、今これを読んでくださっている方も、きっとそれに当たるはずです。だって、すぐに何かの役に立つわけでもない、お金や出世、人生の成功などといったものとは無縁のこんな文章に、根気よく付き合ってくださっているのですから。
これは他のある人たちから見れば、紛うことなき無駄な時間でしょう。
それでも、私は何もかもがすぐさま十全に役に立つのが必ずしも重要だとは思いませんし、このまるで実利性からかけ離れた、急ぐよりは足踏みするような文章が、読む方にとっていつか花実につながっていけば最高だと思います。
そして残念ながら、逃げ出した連休を再び連れ戻す術はどうやっても無さそうです。
今度の長いお休みは夏の真っさなかだという気の滅入る事実には気づかないふりをしつつ、心を休める趣味や遊びを取り入れ、がんばりすぎずにいきましょう。
私もそろそろお茶でも淹れて休憩とします。この季節ならではのダージリン・ファーストフラッシュの茶缶が、さっきから目の端でちらつくもので。
