美の文化の贈りもの
アインシュタインの相対性理論を持ち出さずとも、誰もがきっと、日常の中で"時間の伸び縮み"を体感したことがあるかと思います。
たとえば夜眠る前、昼間の雑事から解放され、ようやく好きなことができる時。
この一時が、なぜか瞬く間に過ぎ、その逃げ足の速さに驚かされます。まさに"時間が溶ける"ような感覚です。
特に私はここ数日『源氏物語』の〈玉鬘十帖〉を読み耽り、ふと目を上げて時計を見ては針の進み具合に驚く、ということを繰り返しています。
数年前に一度は読了した源氏物語ながら、今またそれを読んでいるのは、つい先日『玉鬘』というお能を観たことがきっかけです。
題名からもわかるように、この番組は源氏物語の登場人物である、薄幸の美女 玉鬘が主人公です。
その日、私が出かけた会はいささか趣向が変わっており、まず舞台は通常の能楽堂でなく1927年建造のレトロビルのホールでした。
黄色味を帯びた竜山石を用いた、マヤアステカ風装飾のビルの入り口はスポットライトで眩く照らされ、石造りの階段を上階ホール目指して上がるうちに、次第に甘やかな薫香を感じます。
その香りはホールの内から漏れ広がってくるもので、その日のもう一つの趣向というのが、京都の香老舗 松栄堂とのコラボレーションであったためです。
玉鬘をイメージしたと思しきそのお香の、上品でゆかしく清しい香りは、ホール全体を満たしていました。
それだけですでに俗世を遠く離れたかのような気分のまま、松栄堂の代表取締役 畑正高さんと能楽師 山本章弘さんによる講演の後、いよいよ『玉鬘』の上演が始まります。
能は主人公の多くが幽霊や仙人など、この世ならざる存在ですが、この日の演目『玉鬘』でも、旅の僧に問わず語りに胸の内を訴えかける玉鬘は、とうに現世の人ではありません。
「恋ひわたる身はそれならで玉鬘。如何なるすぢを。尋ね来ぬらん。尋ねても法の教へに遇はんとの……」
死してなお囚われ続けている恋の妄執、そしてそこから仏法の力で救われたい、と語る玉鬘の声に耳を傾けながら、湧き上がってくるのは他所では決して得ることのできない感慨です。
玉鬘を演じるシテ方の口を通して出てくる台詞は、室町時代の作家 金春禅竹が記した言葉そのままであり、現代のような謡本のない時代から、能楽師たちは口移しでそれをつないできました。
加えて、舞の振り付けにおけるいかなる身振り手振り、足運び、顔を俯ける角度でさえも、今から500年以上も前の、室町時代に演じられていたそれと同じなのです。
能の世界そのものが、そのまま日本の歴史と文化の厚みの顕れであり、舞台芸術ゆえ形式化はされているにせよ、そこには遥か遠い時代の日本の精神や形が見て取れます。
それらを視覚や聴覚によって堪能できるからこそ、私は強く能楽に惹かれるのかもしれません。
おまけにその夜は、300年以上もの歴史を持つ香りの伝統文化も合わさり、嗅覚でも風雅な世界に浸れました。
それは上演前のお話で畑社長がおっしゃっていた、"享受"という表現そのものの体験でした。
この国で綿々と続いてきた素晴らしい文化に触れられること、自分たちがそれを"享受"できる幸運、そしてそれをいかにして受け取るかということを、畑社長は静かに、熱を込めて語っておられました。
私たちの祖先が紡いできた数々の文化芸術。それをどのように現代に活かしてゆくか。
たとえば源氏物語の姫君たちを想像し、その人に似合いの香りを探すこと、洋服に襲の色目を取り入れること、水晶や水引を組み合わせたアクセサリーを作ること、声に出して原文を読む読書会に加わることなど。
あまり気を張らずとも、生活の中で古の気配や美しいものを取り入れることは可能です。
それらは文化を自分のものとして更に深く"享受"し、その体験の意味を強める方法であるとも思います。
そしてその日の帰り道に、私は思いもかけぬ贈り物を受け取りました。
ほの暗い夜道を歩くうち、ふと何か得も言われぬ薫香を身近に感じ、やがてその原因に気が付きました。
その夜、ホールの中では途切れずにお香が焚かれ続け、その白磁製の小さな香炉は、ちょうど通路を挟んだ、私の真隣に置かれていたのです。
そのため私の洋服にも、素晴らしい高雅な香りが染み込み、夜道に香ったというわけです。
しっとりと重い絹の着物に、季節ごとの香を焚きしめ、残り香を愉しんだやんごとなき人々さながらに。
それは全くの偶然の出来事ながら、まさしく美の文化の"享受"でした。
まだ夢の中にいるかのような心持ちで、目には見えない香りの膜に護られながら、私は帰路につきました。
