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誰も好きでやっているんじゃない

同じく国を代表する文豪でも、家庭においては、夏目漱石は子どもに厳格、森鴎外は子煩悩、という認識を私は持っています。
そのなかでもこれはさすがに、と思わせるのが、鴎外が愛娘の"悪癖"に対した時の逸話です。

森家の長女、茉莉がまだ小学生の頃、どうしても友人の文房具が欲しくなり、黙って家に持ち帰ってしまう、という事件がありました。
子どものすることではあるものの、穏当に済ませては本人のためにならないと、母親は鴎外にも事情を伝え、きつく叱るよう頼みました。

それを受けた鴎外は茉莉を自室に来させると、愛娘を膝に抱き上げ、にこにこと言ったそうです。
「泥棒もお茉莉がすれば上等、上等」

他にも、天皇陛下から下賜された和菓子を、家で待っている子どもに食べさせてやりたいので、と懐に入れて持ち帰るなど、鴎外の"我が子溺愛エピソード"は尽きません。


そんな具合のため、パッパに叱られた覚えはほとんど無い、と茉莉さんは書いていますが、その数少ない例外が"言葉"であったといいます。

たとえば茉莉さんが帳面に書いた誤字を見つけるや、鴎外は血相を変え、すぐさま正座を命じます。
「お茉莉、それは嘘字よ」
そうして正しい言葉を、その成り立ちから、膝を詰めてじっくりと説明してくれるというのです。

子どもの自分にとって、苦痛で仕方がない時間だった、と茉莉さんが振り返っているのを、私は苦笑いと共に読みました。

人には誰しもそういった"絶対にゆるがせには出来ない事柄"があるに違いなく、鴎外の場合は"国語"であったのかもしれません。


むろん私にもそんなところはありますし、周囲でそういった性質を強く持つ人、といえば、すぐさま友人の心理学教授が思い浮かびます。

以前も"怒り"をテーマにした『美しく怒る』という話で書いたように、この人は芯から温和で、最後に怒ったのは数年前、という人格者です。

常に怒り、あるいはつまらない思い込みで突っ走る私に決して巻き込まれず、どんな粗相も微笑って流してくれるような人なのですが、ただひとつ"スイッチが入る"状態になるのが、私が心理学的に誤った解釈をした時です。

そうなると、鴎外の"それは嘘字"さながら"それは嘘学"とでもいうように、徹底した講釈が始まります。
つい最近も、こんなことがありました。


どのような会話の流れだったか、不満を抱きつつ現状に甘んじる人をどう思うか、という話になりました。
実は私の知人にも"今の仕事が大嫌いで、なおかつそこを離れようとしない人"がいて、なんとこの人は職場の悪口を言いつつも、10年もそこで働いています。

短絡的な私にはなかなか理解し辛い話で、嫌なら次を探した方が、よほど本人や関係者のためにもなると思えてなりません。
あるいはそれだけ勤続できるということは、きっとその仕事に適正があるとも言えるため、発想を変え、積極的に業務に邁進するのも良さそうです。

とはいえ、親しい友人でもないのにそのような進言ができるはずもなく、その人が浮かない顔でため息をついているのを見る度、最初は感じていた同情や心配も、すっかり麻痺してしまいました。


教授にはその知人のことは話していませんが、具体的に念頭に置いていたことは確かです。だからこそ、私はこんなことを口にしました。
「誰かから強制された訳でもないのに、そこに留まっているのは、結局は本人が自分の意思で、好きでやっているっていうことですよね」

すると間髪入れず訂正が入りました。
「それは、好きでやっているんじゃありません。誰もそんな人はいません」

その口調は決して責める風でも苛立ちを含んでいる風でもなかったものの、私には教授が即座に一種の臨戦態勢に入ったことがわかりました。
私は何か大きな間違いを犯したに違いなく、教授はそれを捨て置くつもりはないようです。


「嫌なことを好きでやっている、っていうことからして、そもそも矛盾していると思いませんか」
でも、そうとしか、と私が口の中で返事をすると、教授は断固とした口調で言い切りました。
「あなただけじゃなく、日本中、いや、世界中のほとんどの人がその点を誤解しているのかもしれないけれど、皆、好きでやっているんじゃなく、他の道を知らないだけです。
僕も含めたカウンセラーの役割は、その人たちに、あなたは今こういう場所にいて、こんな状態です、他にはこんな可能性がありますよ、って伝えることなんです」

私の表情を読んだからか、教授は少し微笑みました。
「何だ、そんなこと、って思ってるでしょう?でもカウンセリングで大切なのは、向かうべき道を示すことじゃなく、他にも道がありますよ、どうするか考えましょう、って提案することです」
「ガイドのようなもの、ということですか?」
「それもちょっと違いますね。他の道について、教えはするけど、薦めはしないし、スケジュールを立ててアテンドもしませんから」


予測した答えとのあまりの違いに、私は軽く混乱して尋ねます。
「じゃあ、カウンセラーは?どんな役割を果たすんですか?」
「何も。見ているだけです」
「……見ているだけ」
「決めるのは本人ですからね。そこに留まり続けるのも、じゃあちょっと動いてみようかって思うのも。その人がどうするか決めるのを、ただ待つんです。はい、また来月ね。どうしたいか決まったら教えてね、って」
「決定のための手助けはしないんですか?」
「一切しません。それでは何の意味もありません」


自分が弱った患者の立場だったら、と想像すると、私の声も小さくなります。
「もし、無理です、動けないし、他の所へ行くなんてとても考えられない、って答えたら?」
「いいですよ。何の問題もありません。それなら、周りに多少甘えたり迷惑をかけてでも、今その場で少しでも楽にいられる方法を考えればいいんです。僕はちょっとずるいし、多少の経験は積んでいるから、それなりに色んなカードは出せるんですよ」
「じゃあ、その人が別の場所に行きたいって言ったら?」
「一緒に向かいます。あなたはさっきカウンセラーの役割を尋ねたけれど、それが僕の答えです。どこへ行こうが、常にそこにいるということです」
「ずっと寄り添ってくれるんですか?」
「そうです。その人が望む限り」


それは最高の味方そのものであり、いま特にカウンセリングを受ける困りごとがない私でも、勇気付けに診察室のドアを叩きたいほどでした。
私のそんな内心の思いはさておき、教授の話はいよいよまとめに入ります。

「苦しみながらもそこに居続けてしまう人というのは、他の道が全く見えていない人とも言い換えられます。それを"好きでやっている"と言ってしまえば、単なる自己責任の話になって、全て終わってしまうでしょう。いわゆる自己責任論ほどつまらない話はないから、あなたにはそこをきちんと理解してもらいたくて、つい長々と話してしまいました。すみません」
「いえ、説明していただけて良かったです。そういう状態にある人というのは、"ナイフを持った人間と対峙している人"にも似てますね」

他の人ならば大いに怪訝な顔をしそうな私の発言にも、教授は面白がるような顔でどんなところが?と問い返してくれ、私は身振り手振りを交えてその内容を語ります。


「自分が立っている場所のすぐ向こうに、刃物を持った人間がいるとします。その人物は明らかな悪意を持って、真っ直ぐに向かって来るんです。すると、普通はパニックになって、恐怖心から完全にフリーズしてしまうでしょう?」
「そうして結果的に、相手の意のままになってしまうでしょうね」
「でも、私が習っていたカリ(フィリピンの接近戦闘術)の先生は、逃げるのは簡単だよ、って言うんです。普通の人は、向かい合った相手と自分、一本のルートしか見えていない。けれどたとえば上空から俯瞰で見ると、あなたの周りには他にいくらでもスペースがあるじゃないか、って」
「なるほど。ものすごく面白いですね」
「犯人と一対一で向かい合うと、それに気づけないんです。そしてどこにも逃げ場がないように思い込むんですけど、それは錯覚で、ただ犯人との正中線をずらせば、いくらでも逃れる場所はあるんです。武道をやるというのは、その感覚を養うことでもある、って教わりました。
それと同じじゃないですか?周りが見えずに苦しむ人っていうのは」


言わんとするところをすぐさま呑み込んでくれた教授は、素晴らしい、と微笑み、私もどうにか迂闊な言葉の挽回ができたかなと思います。ところが、ここで終わらないのが教授の鋭いところです。
「昨日、よく眠れましたか?」

急な質問に戸惑いつつ、私は昨夜の記憶を辿りました。
「何だかんだで、夜ふかしして、6時間も寝てないかもしれません」
「やっぱり。今日、顔を見た瞬間、あまり眠れてないんじゃないかなと思いました」
「でも、どうして急に?」
「いや、そもそもの話の発端である"好きでやってる"っていう発言です。あなたは寝不足で意地悪になってるんだろうなと思ったんですよ」


そう言って笑う教授に対し、私が言えたのはこれだけです。
「今度から、約束の日は絶対に8時間は寝てきます」

空腹と同じく、寝不足もやはりろくな結果を招きません。
まずは基本的なコンディションを整えることが何よりも大切である、と身をもって学んだ出来事でした。



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