誰かと一緒にいるじぶんを、好きだと感じる時。
このあいだ、仲良くさせて頂いている
Мちゃんから「愛と恋ってなんでしょうね」
って尋ねられた。
大きいぞ、その問題はって思いながらも
あてずっぽうにわたしは
愛ってなんだろう。
恋を失くしても替えがききそうだけど
愛をなくしたら、スペアがないのと
じぶんがすり減っていきそうな感覚って
いまでたらめに指が思ったまま書いている
わたしが答えられる簡単な問いでは
ないけれど
少し面白そうだからつらつら考えていた。
愛を失くしたらスペアがないとわたしが
感じていたのは、そこに幻の時間の単位
「永遠」を想ったからかもしれない。
愛の枕詞としての「永遠」は、想像の
たまものだ。
無償の愛はあっても無償の恋はない。
恋わずらいはあっても愛わずらいはない
気がする。
愛に患うとはもっと重症のちがうフェーズに
入ってしまう感じがして、比較にもならない
根源的なことバッポンテキななにかって
気もする。
揺れる恋はあっても、揺れる愛はない
気がする。
恋はだいたいにして、相手じゃなくて
自分の気持ちに振り回されて疲れるのだ、
きっと。
相手が発する言葉や仕草やふるまいに
翻弄されているのはじぶんだ。
相手のそれが悪いわけじゃない。
でも愛に揺れるってぴんとこない。
愛ってもっと俯瞰的にそれをみつめている
から、おろおろする心とはある種
無縁に近いんじゃないかなと。
そう、初恋はあっても初愛ってきっとない。
恋は始まりで愛は終焉かもしれない。
さっきからわたしはどの文脈でも
メイビー(may be)しか言えてないけれど。
去年の終わりぐらいにそういえば、
恋と愛についてのエッセイに出会った。
あれ、切り抜いてあったってさっき
見つけ出した。

カルティエの広告。
日付がわからないけど、クリスマスイブ
ぐらいの新聞広告だった気がする。
最近すこしずつ平野啓一郎さんの文章が好き
はじめていたから、切り抜いておいて
あった。
親子愛、郷土愛、友愛、師弟愛‥‥‥といった言葉は
あるが、「親子恋」だとか「郷土恋」などとは言わない。
愛は、関係性として継続したいという概念で
あるから親子であるとか郷土でるとか友人、
師弟にはそぐわないのだと。
そして次の段落でなるほどと、唸った。
平野さんが仰るのは、わたしたちは様々な
属性に暮している。
家庭だったり学校だったり会社だったり。
だからいつも同じ自分じゃいられない。
同じ顔しては生きていけないと。
だからその場所場所においての自分と
つき合うことになると。
いい時の自分もいるけれど、仕方なく
嫌な奴にならなければいけない自分も
いるんだと。
わたしもリアルの仕事でのじぶんの
姿を想いだすにつけとても思い当たる
節があった。
そしてその状態をこのコラムの中では
「分人」と表現されている。
なぜ、好きかと言えば、その人といる時には
好きな自分になれるからである。いつも嫌な
自分になってしまう相手のことを、私たちは
愛せない。
Мちゃんと深夜話していた問いかけの
答えに近いものが平野啓一郎さんの
コラムにはあった。
愛とは、だから、その人といる時の自分が好きだという感情である
はー。
もう、そうなのかって。
もういちど、はーって言いたくなった。
最後の一行は
愛する人を通じて、自分自身を愛することができるならば、その関係は、長く続くに違いない。
つまり、愛って。
ひとりでは愛せないかもしれなかった
じぶんを、愛せるようになる誰か
かけがえのない誰かと出会ってしまう
ことなんだなって。
恋愛をこうやってまるはだかにして
いる行為ってとてもわくわくする。
そして、愛と恋の違いをその人にたずねて
でてくる言葉ってきっとどんな恋愛して
きたのかまで透かして見えることなの
かもしれないなって。
傘も差さないままで、いきなりの雨に
降られた時みたいに
平野啓一郎さんの言葉の雨に打たれていた。
あなたにあってわたしにないもの考えてる
あなたになくてわたしにもあるもの教えてもらう
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面白いもの書いてゆきますね😊