花がきれいだと思えなかった、二十歳の頃。
2023年が明けて5日間ほど書かない
暮らしをしていた。
小さい頃。
「書かない」と心の落ち着き先が
みつからなくて「書いて」いたから
もうずいぶんと書いているんだと
思う。
心のためにチューニングしているような
感じ。
そんな昔の日記をめくっていたら
花が咲いているのはきれいなこと
なのだと言い聞かせないときれい
だと思えない。
そんなことをつらつらと書いていた
ページがでてきた。
「美しい花がある。花の美しさというものはない」
こんな言葉を頼りにしながらも。
咲くことでしか認められない。
咲かなかったつぼみのままの花は
なかったことにされてしまうことに
もやもやしていたのは小さい頃からの
思考の癖だった。
花は咲かないときれいって言って
もらえないことを覚えてからちょっと
息苦しかった。
それで、しばらくは花はきらいだった
けれど。
母がもっと素直になってちょうだいって
悲しそうな顔をするから。
がんばって花をきれいだと思うように
していた。
嫌いじゃなくて。
ただ気圧されていただけで。
生きている、花たちのエネルギーを
直視できなかった。
鬱だったせいもあるかもしれないけれど。
枯れてしまっている花なら愛でられそうな
気がしていた。
二十歳の頃、付き合っていた人から
花束をもらった。
花を抱えて街を歩くの緊張したわって
大学の階段教室に彼が笑って立っていた。
花だ。

わたしに贈ってくれた花なんだ。
そう思ったら、ちょっと泣けてくるような
切なくなるような。
花をきれいだとずっと思えなかった
わたしの前で咲いている花に罪はないねって、
責められた気持ちもやってきて。
うまくいえにあけど謝りたいような
そんな気持ちだった。
すこしずつ花はきれいだと愛でるように
なったのは彼の花束のおかげかもしれない。
この間、大好きなММちゃんとTwitterで
話していた。
置かれた場所で咲きなさいの
「で」が嫌なんだよってММちゃんが
言った。
あ、流石だなって。
そこなのかって。
どこで?
ここで?
ここで咲くのよって言われてるみたいで
あの「で」はいらんよねってふたりで
話していたら楽になった。
Мちゃんいわく、どこでもいいだろう?
咲きたいところで咲かせてくれよって。
そういうこと。
そういうことってふたりで思っていたら
それがいいたかったんだわたしもって。
わたしは咲かない自由もあるんだって
はじめ言いたくて。
咲くという言葉が、あなたの強みを探します
みたいなおおきなおせわに似て、ちょっと
目障りだった。
でも咲くって、活躍とはまたちがって。
そこで存在してるだけでいいと言って
ほしかった二十歳の頃のわたしが蘇って
いた。
なにものかになれとか。
じゃなくて。
じぶんがじぶんであることで充足できる
ことがほんとうは理想なのだ。
それが大勢の誰かに理解されなくても
かまわない。
理解は誤解を含んでいるから。
すきなひとには理解を求めたりしない。
理解してくれないと泣いていた二十歳の
頃を思い出していた、成人式の夜だった。

甥っ子のT君がお正月に
花束抱えてやってきてくれた。
思えば彼は幼稚園の頃私が落ち込んでる時
Kinki Kidsのフラワーを恥ずかしそうに歌って
くれてなぐさめてくれたんだった。
ちいさな人に支えられてるな
わたし、ありがとう。
花の写真はぱくたそさんの素敵なお写真拝借しました。
※あわくはかない花の気持ちのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20150215036post-5150.html
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