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【フォーミュラ1】 #043 - 日本人F1レーサーの軌跡――1975年の初挑戦から角田裕毅のレッドブル昇格まで、35年の戦い

日本人がF1に挑み始めた1975年から、2025年の角田裕毅レッドブル昇格まで、50年近い歴史がある。その間、日本人ドライバーは表彰台に3回しか立っていない。勝利はいまだゼロだ。この記録だけを見ると、失敗の連続にも映る。だが実際には、各時代のドライバーが限られた条件の中で最大の結果を残してきた。本記事では、その50年の軌跡を時代ごとに整理し、なぜ日本人ドライバーの成績が伸び悩んだのかを明らかにする。

1975年〜1986年:先人たちの挑戦と「予備予選」という壁

当時のF1には「予備予選」という制度があった。出場台数が多すぎるため、本予選に進む前にタイムで振るいをかけるのだ。資金力の乏しいチームは予備予選から参加しなければならず、日本人ドライバーのほとんどはここで敗退した。1976年から1977年にかけて富士スピードウェイで日本GPが開催されたが、日本人ドライバーが世界の強豪と肩を並べて戦う環境はまだ整っていなかった。
1976年から1977年の富士GPでは、長谷見昌弘が日本人として初めて決勝のグリッドに並んだ。結果は11位完走だったが、日本人がF1の正式スターティンググリッドに立ったという意味は大きかった。このころ、ホンダやヤマハといった日本の自動車メーカーがF1に技術者を送り込み始め、日本のモータースポーツ界全体がF1に注目し始めた。

1987年〜1991年:中嶋悟とF1ブームの幕開け

1987年、中嶋悟がロータス・ホンダからフルタイムでF1に参戦した。日本人として初めて、1年間すべてのレースに出場する「レギュラードライバー」になったのだ。この瞬間、日本国内にF1ブームが生まれた。
中嶋悟のF1デビューが日本に与えた影響は測り知れない。フジテレビがF1の生中継を始め、深夜に放送されるレース映像を見るために徹夜する視聴者が増えた。アイルトン・セナやアラン・プロスト、ナイジェル・マンセルといった世界のトップドライバーの名前が、日本の一般家庭でも知られるようになった。
しかし、中嶋悟が置かれた環境は厳しかった。ロータスでのチームメイトは最初アイルトン・セナ、その後ネルソン・ピケと、どちらも世界チャンピオン経験者だった。チームはこの2人を「エースドライバー」として扱い、中嶋悟は「セカンドドライバー」の立場に置かれた。スペアカー(Tカー)が中嶋悟に渡されたのは、5年間のF1キャリアを通じて1988年の最終戦の1回だけだったとされる。
1989年のオーストラリアGPでは、土砂降りの雨の中、中嶋悟が日本人初のファステストラップを記録した。同時に4位入賞を果たし、日本人が本当にF1で戦える速さを持つことを証明した。このレースは2時間の時間制限ルールによって規定周回数に達する前に終了したが、中嶋悟の速さは疑いのないものだった。
結局、中嶋悟は1991年に現役を引退した。通算ポイントは16点、最高順位は4位。数字だけを見ると小さく見えるが、日本人がF1のグリッドに立ち続けることを証明したパイオニアとしての価値は、成績以上のものがある。

1988年〜1995年:鈴木亜久里と「日本人初表彰台」

中嶋悟とほぼ同時期にF1に参戦した鈴木亜久里は、1988年から活動を始めた。最初に所属したザクスピードはマシンの戦闘力が低く、1989年シーズンは全戦で予備予選落ちという結果に終わった。
転機は1990年、ラルースへの移籍だった。1990年10月21日、日本GPが行われた鈴鹿サーキット。レース終盤、セナ、プロスト、マンセルといったトップドライバーが次々とトラブルで脱落していった。気づけば鈴木亜久里が3位でフィニッシュしていた。日本人として、またアジア人として初めてのF1表彰台だった。
鈴木亜久里自身は後に、この表彰台について「なんでオレが3位なの?」という言葉を残している。それほど意外な結果だったということだ。ラルースのマシンはローラの既製品シャシーに借り物のエンジンという体制であり、トップチームとの性能差は明らかだった。それでも、前の車がすべてリタイアする混乱のレースで、着実に走り続けた結果がこの表彰台を生んだ。
鈴木亜久里はその後もF1に参戦を続け、1992年から1997年にかけては片山右京がF1に加わった。片山右京は1994年のブラジルGPで5位入賞を果たすなど、通算5ポイントを獲得した。しかし、2人のドライバーが同時期にグリッドに立ちながらも、日本人ドライバーの表彰台は1990年の1回にとどまった。

2002年〜2008年:佐藤琢磨と「あと0.002秒の夢」

2002年、佐藤琢磨がBAR・ホンダからF1に参戦した。フォーミュラ・ニッポンなど日本国内の選手権で実績を積み、F1に上がってきた正統派のキャリアだった。
2004年6月20日、アメリカGP。佐藤琢磨は3位表彰台を獲得した。日本人によるF1表彰台は、1990年の鈴木亜久里以来14年ぶりだった。このレース、佐藤琢磨の戦略分析は今も語り継がれる。チームメイトのジェンソン・バトンが先にピットインするアンダーカット戦略をとられたにもかかわらず、佐藤琢磨は3位の位置を守り切った。
この攻める姿勢こそが佐藤琢磨の持ち味だった。同年のF1でも、最終ラップの最終コーナーでミハエル・シューマッハーをオーバーテイクしようとして弾かれ、リタイアするレースがあった。それでも攻めることを止めなかった。
2006年、佐藤琢磨はスーパーアグリF1チームに移籍した。このチームは鈴木亜久里が設立した日本人チームだったが、資金不足が深刻だった。初年度は2002年型アロウズのシャシーをベースにしたマシンで戦わなければならず、テスト走行もままならなかった。2008年シーズン途中、スーパーアグリは資金難で撤退した。佐藤琢磨のF1キャリアは通算44ポイント、最高位3位で幕を閉じた。

2009年〜2012年:小林可夢偉と「チームメイトを超えた男」

2009年、小林可夢偉がトヨタからF1に参戦した。最初はスポット参戦だったが、2010年からザウバーのレギュラードライバーとなった。
小林可夢偉の評価を特別なものにした理由の一つは、チームメイトとの比較だった。中嶋悟はセナやピケに全敗に近い結果だった。しかし小林可夢偉は、後にメルセデスに移籍するセルジオ・ペレスとザウバーで同時期に組み、予選・決勝でほぼ互角に戦った。
2012年10月7日、日本GP。小林可夢偉が3位でフィニッシュした。鈴木亜久里の1990年、佐藤琢磨の2004年に続く、日本人3度目の表彰台だった。母国レースでの表彰台は特別な意味があった。通算125ポイントは、それまでの日本人ドライバーの中で最多だった。
しかし2012年シーズン後、小林可夢偉はザウバーのシートを失った。資金力のあるドライバーを優先するチームの判断だった。翌2013年以降はF1のシートを得られなかった。

2021年〜現在:角田裕毅とレッドブル本隊昇格

2021年、角田裕毅がアルファタウリ(現RB)からF1に参戦した。デビュー1年目からF1デビュー戦(バーレーンGP)で入賞し、「20年に一度の大型ルーキー」と評されたが、その後はミスも多く不安定な印象が続いた。
デビュー初年度、角田裕毅のチームメイトはピエール・ガスリーだった。予選でほぼ全敗に近い結果で、「チームメイトの壁」は日本人ドライバーの歴史を繰り返すかに見えた。しかし2年目以降、角田裕毅はガスリーに肉薄するまでに成長した。2024年シーズンには合計12回の入賞(30ポイント)を記録した。
2025年シーズン途中、角田裕毅はレッドブル本隊への昇格が決定した。RBからレッドブルへ。世界チャンピオンを何人も輩出してきた最強チームのマシンに乗る権利を得たということだ。
日本人ドライバーがレッドブル本隊のマシンで戦うのは史上初めてのことだ。2025年時点で124ポイントを積み上げた角田裕毅が、最強チームのマシンに乗って戦う。悲願の初優勝への期待は、1990年の鈴木亜久里以来の高まりを見せている。

まとめ

1975年の生子田実から2025年の角田裕毅まで、日本人ドライバーのF1挑戦は50年を超えた。その間に立った表彰台はわずか3回、勝利はゼロだ。しかし、各時代のドライバーが直面した条件を見れば、この数字は「失敗」ではなく「前進」を示している。
中嶋悟は「セカンドドライバー扱い」という壁の中で、日本人初のファステストラップを記録した。鈴木亜久里は資金力で大差をつけられながら、日本人初の表彰台を手にした。佐藤琢磨は4年落ちのマシンでも攻め続けた。小林可夢偉は「チームメイトに勝てない」という日本人ドライバーの歴史を塗り替えた。
そして角田裕毅は今、過去のどの日本人ドライバーよりも条件の良いマシンでF1を戦おうとしている。勝利まであと何レースかかるかは誰にも分からない。だが、35年かけて積み上げた経験と血脈は、確実に角田裕毅の背中を押している。

参考文献

鈴鹿サーキット公式サイト
「なんでオレが3位なの?」鈴木亜久里が明かすF1日本人初表彰台の舞台裏 - Number Web
中嶋悟 - Wikipedia
日本人F1ドライバーの歴史と活躍 中嶋悟から角田裕毅までの挑戦と功績 - トラベルピットイン
日本人ドライバー成績 - F1 DataWeb
歴代日本人F1ドライバーと比較した角田裕毅の強さとは? - スポーツナビ




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