子どもを守るための「曇りなき眼」
こくみん共済 coop とnoteのコラボ企画で、「#子どもの安全を考える」というテーマでの投稿を募集しています。募集しているのは交通安全に関連することのようですが、私はこのタグをきっかけに少し違う視点で子どもの安全について考えてみました。
「安全」という言葉の裏側
子どもたちの安全について心配なことがあったとき、誰かが「安全に整備してあるから大丈夫ですよ」などと言ったとします。言った人の肩書きや立場などによっては、その言葉だけで安心してしまうかもしれません。けれども、もし少しでも心配だと感じたなら、どんなに立派な肩書きがある人が言った言葉であっても、鵜呑みにせずに自分で納得するまで調べることが大切だと思います。
例えば、何かと話題となっている「大阪・関西万博」。修学旅行で「大阪・関西万博」を訪れる予定だった千葉県の中学校が、「安全が担保できない」という理由で行き先をユニバーサル・スタジオ・ジャパンに変更したというニュースもありました。
これには賛否両論あったようですが、開催前から様々な不安が「府民の声」として上がっていました(下記参照)。
開幕してからも公式サイトの「お知らせ」には、心配になるような報告が出ています。
東京新聞でも取り上げていますが、やはり一番気になるのはメタンガスです。

公式サイト(PC用)のトップページを少しスクロールすると、左側に「今週の万博」というバナーがあります。そこをクリックした先に、「気象・安全情報はこちらからご確認ください」とあり、PDFの一番下に「ガス安全確認状況」が書かれています。

とてもわかりにくいところにあるので、これが公開されていることを知らない人も多いと思います。私は、いつも記事を読んでくださっているとーるちゃんさんの記事で知りました。
とーるちゃんさんは、開幕前から様々な懸念について、ご自身で調べて、実際に夢洲駅まで行って確かめてみるなどされていました。
出発前に公式サイトで「安全にご来場いただけます」という発表を確認しなければならない会場に、安心して子どもたちを送り出すことができるでしょうか。メタンガスの他にも、落雷や交通インフラの脆弱さなど、様々な課題を抱えています。前述の中学校は、4月6日に会場でメタンガスが検知されたことなどを受け、複数の保護者から「安全な場所に変更してほしい」との要望があり、学校側が保護者会を開いたうえで修学旅行先の変更を決断したとのことです。
「大阪府知事が安全だというのだから、心配ない」と思う人もいるでしょう。「学校が決めたのだから、安全なのだろう」と思う人もいるかもしれません。
けれども、とーるちゃんさんの記事のコメント欄には、「(学校の先生に)夢洲が出来た歴史からメタンガスの量 パイプ 爆発したトイレ マンホールの話を説明したら 改めて驚いていました」と書かれています。つまり、必ずしも先生方がきちんと調べて実施を決めたわけではなく、上から言われたから実施することになったというケースもあるのです。
「脚気論争」からの学び
皆さんは、「脚気論争」をご存じでしょうか? ビタミンが発見される前、脚気(かっけ)の原因は脚気菌だと言っていた医師がいたのです。一方で、白米をやめて麦飯にすれば脚気は改善されると言う事実がありました。けれども、脚気菌派はなかなかそれを受け入れなかったのです。子どもたちを守るために、私たちができることを考えるためのヒントとして、この「脚気論争」を振り返ります。
かつて脚気は、死に至ることもある病気として恐れられていました。徳川13代将軍、14代将軍なども、脚気で亡くなったと言われています。けれども、欧米ではほとんど見られない病気だったので、なかなか原因が解明できず、1924年に「脚気の原因はビタミンB1の欠乏」という結論が発表されるまでには様々な論争がありました。
「脚気論争」については、コンパクトにまとめられた書籍があります。
『脚気の歴史』(板倉聖宣 著)の「おわりに」から、一部引用します。
日本の医学者たちは、麦飯の採用によって脚気病克服への道を確実に進むことによって、新しい栄養素、ビタミンの発見への道を確実にたどっていたのです。それなのに、その研究成果をうけつぐべき東大医学部と陸軍省医務当局の人々が、こともあろうに麦飯派や米糠派を弾圧してその研究への道をみずから閉ざしてしまったのです。
下記は、この本をもとに、足りない部分を他の資料から補ってまとめました。
「麦飯が脚気予防に効く」という知識は、漢方医の間では少なくとも1740年頃から知られていたそうです。1884年に高木兼寛(海軍軍医)は練習船「筑波」での公開実験により、脚気の原因が栄養欠陥であることを実証していました。けれども、ドイツ留学から帰国した緒方正規(東京大学医学部衛生学教室の初代教授)が1885年に「脚気菌を発見した」と発表したことにより、ビタミン発見が遠のいてしまうのです。森林太郎(陸軍軍医)も、「栄養学的にいって麦飯が白米食より優れているという根拠は全くない」と主張。森林太郎は、作家・森鴎外として知られていますが、陸軍軍医としてこの「脚気論争」に大きく関わっていました。
この論争で私が注目したのは、1000円札に描かれている北里柴三郎です。農家出身の北里は、熊本医学校で2歳年下の緒方正規と同級生でしたが、後に2人とも東大医学部へ入学。北里は緒方より遅れて東大に入学したので、緒方は北里より3年早く東大医学部を卒業します。緒方はドイツでコッホ(近代細菌学の開祖)から細菌学を学びたかったのですが、コッホが外国に出張中で叶わず、日本人で初めてコッホの弟子になったのは北里でした。北里がドイツ留学中、インドネシアで脚気の研究をしていたオランダの細菌学者・ペーケルハーリングが脚気菌を発見したという論文を発表(1887年)。北里は緒方とペーケルハーリングの実験報告を入手し、いずれの実験手法にも重大な不備があることに気づきます。
北里は留学直前に緒方(当時東大医学部講師) から細菌の扱い方を習ったので、弟子のような立場でした。自身が突き止めたことを発表するのをためらいますが、緒方の恩師であるレフラー(コッホの弟子)から「私情で学問を歪めることはあってはならない」と言われ、発表することを決意。留学する際にコッホへの推薦状も書いてくれた恩人・緒方を批判した北里は、「人の情を忘れた」などと非難されました。
その結果、ドイツで大きな成果を出していたにも関わらず、東大医学部は帰国した北里を受け入れませんでした。それが結果的には北里大学へとつながったわけですが、本来ならそれなりのポジションで迎えられたはずの北里がいろいろと苦労することになったのです。東大医学部や陸軍省医務当局は脚気菌説に固執し続け、陸軍は日清戦争や日露戦争でも戦地に白米を送り、多くの死者を出すことになってしまいました。
そして1912年に、ポーランド人の科学者フンクがビタミン(B1)を発見したと発表。ビタミンと命名されたのもこのときですが、実は1910年に、農学者・鈴木梅太郎が米糠から脚気予防の有効成分オリザニンを抽出することに成功していて、これがビタミンB1だったのです。ビタミンを発見したのはおそらく鈴木の方が早かったのに、日本の医学界がこの功績を認めなかったので、国際学会での発表が遅れてしまったのでした。
「脚気論争」から学べることは、その分野で優秀だと一般に認められている人でも、間違うことがあるということです。そして、自分の間違いを認めたがらず、それを指摘する人に圧力をかけてつぶそうとする人たちがいることもわかりました。誤解のないように補足しておきますが、東大が悪いと言いたいのではありません。東大卒の優秀な医師でも間違えることがあるという、1つの例です。
子どもたちを守るためにできること
「脚気論争」の中で、「曇りなき眼」(先入観や偏見を持たないで物事を見る眼)を持っていた人がしたことをまとめます。
・自分で事実を確かめる
北里柴三郎は、緒方らの不備を確かめるためにきちんと自分でも実験しました。相手が恩人であっても、優秀な学者であっても、発表を鵜呑みにはしなかったのです。
・起きていることに眼を向ける
白米を麦飯に変えれば脚気が激減することは、監獄などでも結果が出ていました。高木兼寛(海軍軍医)は麦飯に眼を向けましたが、東大医学部や陸軍軍医は「学理」を重んじて麦飯を取り入れようとはしなかったのです。その結果、陸軍は戦地で脚気が原因の死者を海軍よりもはるかに多く出してしまいました。
・少数派になる覚悟
緒方の実験に不備があることを発表した北里は、世間から「恩を感じないのか」など批判されます。「情を忘れた」と批判した森(森鴎外)に対して北里は、「学事のためには私情を棄てて公情を取り、我が国の医学を牽引することこそ必要であり、そのことこそ私の務めであると確信します」と言いました。けれども、当時日本の医学界の主要な地位に君臨していた多くの東大医学部出身者たちは、帰国した北里を冷遇し、日本政府が公職に復帰させることもなかったのです。
研究する場もなかった北里に救いの手を差し伸べたのは、旧1万円札に描かれている福澤諭吉(慶應義塾創設者)でした。福澤が私財を投じて研究所を建築し、実験器具などは実業家・森村市左衛門(森村組はTOTOやノリタケの前身)からの多額の寄付によってまかなわれました。北里に福澤を紹介した元上司の行動がなければ、研究所は実現しなかったかもしれません。その後、福澤への恩に報いるため、北里は慶應義塾大学医学部創設に尽力し、初代医学部長を務めました。
自分でも実験して納得できたからこそ、北里は自分を信じて行動することができたのだと思います。東大医学部から冷遇されることは予想できたと思うので、少数派になることも覚悟の上での行動だったのでしょう。もし緒方の実験に不備があったことを発表しなければ、東大医学部に受け入れてもらえたと思いますが、福澤や森村との出会いもなかったかもしれません。少数派になって失うものがあるとしても、少数派にならなければ得られないものもあるのだと思います。
今、子どもたちを守るためには、このような「曇りなき眼」を持つことが必要なのではないでしょうか。
