鞄を枕にしてコンクリートに横たわっていた少女 第1話
ある日、僕が信じていた世界が一瞬にして崩れていった。でも、崩れたからこそ、見えてきたものがあった。正義という名のもとで、ガチガチに固められていた僕の世界。それを壊すことと引き換えに起きた出来事は、取返しのつかないことだった。できるなら、過去に戻って自分に問いたい。その正義は、誰のための正義なのかと。
「なぁ睦月、父さんの数珠がないんだよ」
「仏壇の引き出しにないの?」
「ないんだよ。葉月は覚えてないか?」
「去年忘れちゃったから、次は忘れないようにって、喪服のポケットに入れたんじゃなかったの?」
「えっ? そうだっけ? あぁ、あったあった」
「まったく、母さんがいないと何もできないんだから」
「そう言うなよ。これでもちょっとずつ、できるようになってきたんだから」
「さ、もう出発しないと。渋滞があるかもしれないし」
「高速に乗るのに、本当に睦月の運転で大丈夫なのか?」
「失礼だな、大丈夫だって」
今日は父さんと妹を乗せて、僕が車を運転することになっていた。家族を乗せて高速道路を走るのは初めてだ。
自然渋滞が少しあったけど、目的地には予定通りに到着した。先に到着していた梗平さんと弥生さんは、出されたお茶を飲みながら何やら話していたようだ。
「あら桜輔さん。すっかりご無沙汰しちゃってごめんなさいね。睦月くんも葉月ちゃんも元気にしてた?」
「はい。今日はお忙しい中、ありがとうございます」
「私たちが一番遠いから、遅れないようにって早めに出たら、早く着きすぎちゃったわ」
「今日は睦月が運転してくれたんですが、高速は初めてだったんで生きた心地がしなかったんですよ」
父さんはそう言うと、梗平さんに2人は何の話をしていたのか尋ねた。
「皐月さんの若い頃にもワクチンがあったら、もっと長生きできていたかもしれんなって」
どうやら、HPVワクチンの話をしていたようだ。
「さっきから言ってるけど、まだ効果がいつまで続くかわかってないワクチンよ」
「でも国があんだけ勧めてるんだから、効果あるんだろ」
「インフルエンザだってコロナだって、打ってもみんな罹ってるじゃない。あなただって、コロナワクチン打ったのに罹ったでしょ?」
「そうだけどな、重症化しなかったし」
「HPVワクチンは、接種後に全身が痛くなったりして10年以上苦しんでいる人もいるのよ。裁判だってまだ判決は出てないんだし。葉月ちゃんもちゃんと調べてね。みんなが接種しているから安全ってことはないんだから」
梗平さんと弥生さんの会話に突然巻き込まれ、妹は少し困った顔で頷いた。もう1回目は接種したなんて、言えない雰囲気だ。僕はHPVワクチンの説明をしたくてうずうずしていたけど、ぐっとこらえた。今日は母さんの三回忌だから、弥生さんとは揉めたくない。母の姉である弥生さんは、親戚の中でも変わり者として知られている。コロナ禍ではコロナワクチンも接種しなかったから、友達からランチや旅行にも誘ってもらえなくなったそうだ。小さな田舎町に住んでいるから、未接種の人は肩身が狭かっただろう。旦那さんの梗平さんは職場でもみんな接種していたから、弥生さんにも打つように言ったけど未接種を貫いた。そんな人だから、僕の説明にも耳を貸さないだろうな。
母さんは、子宮頸がんで亡くなった。弥生さんによると、20代の頃に受けた婦人科検診でイヤな思いをしたから、それ以来検診を受けていなかったらしい。梗平さんが言うように、母さんが若い頃にHPVワクチンがあったら、接種していただろうか。もしかしたら、弥生さんに止められたかもしれない、なんて思ってしまう。
法要が終わってからみんなで食事をして、三回忌の法事は滞りなく終わった。親戚のおじさん、おばさんたちは、みんな僕や葉月のことを心配してくれている。親子3人の生活にもだいぶ慣れてきたし、葉月は希望の難関高校に入学することができた。僕も大学3年生になり、より専門的な授業が始まっている。
そう、このときの僕は、希望に満ちあふれていた。この後、あんなことが起きるなんて、思ってもいなかったのだ。
つづく
