鞄を枕にしてコンクリートに横たわっていた少女 第6話
名古屋市が行ったこの調査は「名古屋スタディ」と呼ばれ、24の症状について解析された結果が安全性の証として使われている。結果は、「接種後に報告されている24の症状と、HPVワクチン接種との明らかな関連性は認められなかった」というものだった。
調査結果が公表されたとき、自由記載欄にも目を向けた人は、どれくらいいたのだろうか。僕は台場に言われても、見ようとしなかった。妹の身に同じようなことが起きるまで、この「声」に目を向けようとはしなかったのだ。でも今なら、この「声」にこそ目を向けるべきだったということが僕にもわかる。助けを求める声や数字では表せない重要なことが、たくさん書かれているのだ。当時、様々な症状が出ていたのに病院できちんと診てもらえなかった人たちは、今、どうしているのだろうか……。
弥生さんが葉月に付き添ってくれているので、僕は大学へ行き、昼休みに学食で台場を探した。
「ここ、座ってもいい?」
「えっ?」
「名古屋市の調査結果なら、ちゃんと見たから」
僕は台場の答えを待たずに座り、一方的に話し始めた。
「僕は母親を子宮頸がんで亡くしたから、ワクチンを勧めていたんだ」
「検診は受けてたのか?」
「いや」
「なら、勧めるのはワクチンじゃなくて、検診なんじゃないのか?」
「そうかもしれない。でも、今はその議論をしている場合じゃないんだ。名古屋市の調査結果を見たら、妹と同じような扱いを受けて苦しんでいる人が何人もいた」
「妹?」
最初は面倒くさそうに聞いていた台場が、真剣な表情で僕の話に耳を傾けた。
「先週、2回目を接種した翌日、家で倒れてたから救急車を呼んで病院に行ったけど、検査で異常が見つからなくて、鎮痛剤を処方されて帰された。ひどい頭痛や異常な倦怠感があって、手足に力が入らなくなってきている。協力医療機関にも行ったけど、進学校でのプレッシャーが原因と決めつけられ、精神科を勧められただけだった。僕はワクチンがいいものだと思って信じて接種させたのに、妹はまともに診察してもらえないんだ」
「妹には、誰か付いているのか?」
「家で親戚のおばさんが付き添ってくれているけど、どんどん症状が増えているんだ。だから頼む、妹を診てくれる病院を教えてほしい」
僕は頭を下げて頼んだ。弥生さんも詳しいけれど、台場の方が人脈があると思ったからだ。台場は後で連絡すると言い、僕たちは連絡先を交換して学食を出た。
台場と話した後、僕はHPVワクチンの啓発活動をしている仲間に会って、高校での出張授業の件を断った。数日大学を休んでいたし、あまり食べていなくて眠れていないから、僕はひどい顔をしている。みんなから心配されたから本当のことを話したら、みんな気まずそうにしていた。でも、それは仕方ないことだと思う。僕が逆の立場だったら、やっぱり同じようにしただろう。ただ、みんなは僕にかける言葉が見つからない感じで、そこはもう僕の居場所ではなくなったと感じた。
家に帰ってスマホを見ると、台場からのメッセージが届いていた。週末にHPVワクチンの勉強会があり、裁判の原告や積極的勧奨再開後の被害者、症状への理解のある医師などが来るから、相談できるように話しておいたと書かれている。もちろん行きたかったけれど、さすがに虫がよすぎるだろう。僕は少し考えてから、台場に返信した。
―今まで人にワクチンを勧めてきた僕が、行ってもいいのかな?
――今は原告さんの話を聞く気持ちがあるんだろ?
―うん。
――だったら来いよ。妹を助けたいんだろ?
―うん。じゃあ、参加させてもらうよ。ありがとう。
――礼なら、原告さんたちに言えよ。自分たちのような被害者をこれ以上出さないことと、若い女性も検診を受けやすくする方法を考えたりして、子宮頸がんで命を落とす人を減らすことは両立できるはずだから、赤坂のような立場の人からもぜひ話を聞きたいって。
―両立?
――子宮頸がんに罹患する人が減っている国では、検診の受診率が日本よりずっと高い。製薬会社も、ワクチンを接種しても検診の代わりにはならないと添付文書に書いているのに、国はそこに目を向けようとはしていない。
―母さんは若い時に検診で嫌な思いをして検診嫌いになったと、おばさんが言ってた。
――子宮頸がんは異形成という段階を経てがんに進行するから、がんになる前の段階で早期に発見できれば、子宮を残す治療もできると産婦人科の医師が言っていた。ほとんどの場合、異形成の段階では自覚症状がないから、検診を受けていないと発見できないんだ。
―母さんは症状が出てから病院に行ったから、すでにがんが進行していた。
――オーストラリア政府のサイトには、「子宮頸がんの70%以上は、検診を受けたことがない、または検診を中断していた女性に発症している」というデータが公開されている。ワクチンは手段の1つであって、接種することが目的じゃないはずだ。
そうなんだ。僕がワクチンを勧めていたのは、母さんのように子宮頸がんで亡くなる人を減らしたいからだ。だけど、母さんは若い時に検診でどんな経験をしたから検診嫌いになったのか、僕は今まで知ろうともしなかった。他国で子宮頸がんに罹患する人が減っているのは、ワクチンの接種率が高いからだと聞いていたから、検診の受診率なんて調べようともしなかった。
僕は今まで人にワクチンを勧めていたのに、人から得た情報を鵜呑みにして話していただけで、自分からは何も知ろうとしていなかったことを思い知らされた。
つづく
