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がんサバイバーの食卓(執筆中)

不覚にも五十四歳のとき、新婚二年目だというのに直腸がん(3A)をやっちまった

手術も七時間かかって、六時間以上の手術の場合ヤバイと聞いていたので、絶望のどん底に墜ちることとなった

以来、十八年間色々なことがあったが、まあなんとか生きている

同時期にがんにかかった知りあいはみなさん亡くなってしまった

自分だけが生き残って罪悪感のようなものを感じなくもないが、こうして生き延びたことを妻をはじめすべての人々に感謝したい

どうして生き残ることができたのか自分でもよくわからないが、なんとなく食事療法のおかげのような気がしているので、そのことをメモ代わりに書き残しておきたいと想う

野菜スープ(野菜出汁)

玉ネギ、人参、生姜をひたすら煮こむ

その上澄みを、夏だったら冷蔵庫で冷やして水代わりに飲む

煮こんだ玉ネギと人参と生姜をフードプロセッサーにかけて野菜カレーにする

がん対策の食事療法としては、これが一番効いているような気がする

肉なしマッシュルーム・ハヤシライス

煮こんだ玉ネギと人参と生姜をフードプロセッサーにかけて、マッシュルーム等のキノコのソティーを足したハヤシライス

大根の煮物

大根を白だしで炊く
気分で油揚げや季節の野菜を合わせる

梅水晶(鮫の軟骨)のおにぎり

梅水晶と白ごまを混ぜたおにぎりを、海苔を巻いて食べる
美味!

冬月流バジルドレッシング


いりこの出汁がらとバジルをフードプロセッサーにかけて、オリーブオイルと塩で味覚と食感をととのえる

わが家はこれを毎朝八分の一に切ったキャベツのソティーにかけて食べている

納豆おろしに、とんぶりか胡麻

胃弱なので大根おろしは毎日食べるようにしている

納豆は父方が浜松出身なので、ガキのころから大好物

納豆を色々な料理と組みあわせている

納豆茶漬けにすることもある

赤の自然派ワイン

主治医には節酒を言い渡されているが、私はもともと大酒飲みなので、術後の一年間はおとなしく禁酒していたが、二年目からは術前と同じくらいガンガン飲んできた

赤ワインのポリフェノールには抗酸化作用があるらしいが、長生きしたい方にはお勧めできない

体に良い物ばかり食べているのも、あまり体に良くないのではないかという、反骨精神過剰な私のあくまでも素人的な判断ということでご理解願いたい

ワカメ茶漬け(山葵と梅干し)

二日酔いの朝(強烈な自己嫌悪 笑)

冬月剣太郎論 by ChatGPT

冬月剣太郎は、若いころから文学だけを見つめて生きてきた純文学作家ではない。

写真家、ライター、漫画編集者という複数の現場を渡り歩き、還暦を過ぎてから商業作家として登場した、遅咲きの越境作家である。

一九五四年に東京で生まれ、少年時代をバンコクで過ごした。

さまざまな職業と創作名義を経たのち、二〇一九年に『陰仕え 石川紋四郎』で時代小説家としてデビューした。

この経歴は、冬月剣太郎という作家の長所と限界を、そのまま物語っている。

冬月剣太郎は、言葉だけを磨き上げる作家ではない。

人物を作り、設定を立て、見せ場を置き、読者が途中で離れないように物語を組み立てる。

文学者である以前に、読者の目を知っている編集者なのである。

商業デビュー作の主人公、石川紋四郎は、公儀のために人を斬る秘密の役目を背負いながら、薄毛に悩み、海苔弁を好み、好奇心旺盛な妻に振り回される剣士である。

強いが完全ではない。

格好いいが、どこか滑稽である。

人を斬れるが、妻には頭が上がらない。

この人物造形には、英雄を神棚から引きずり下ろし、生活者として描こうとする冬月剣太郎の趣味がよく表れている。

『陰仕え 石川紋四郎』は、捕物帳形式ではなく、連続殺人を追う長編時代ミステリーとして構成された。

一方で、読者評には、人物や筋立てが軽く見える、物語の中心が弱いという批判もある。

この両方が正しいと思う。

冬月剣太郎の長所は、重い主題を庶民的な人物と娯楽的な仕掛けによって読ませるところにある。

しかし、そのサービス精神が過剰になると、悲劇の重さが薄まり、人物や物語が漫画的な記号に見えてしまう。

二〇二〇年刊行の第二作『掟破り 陰仕え 石川紋四郎2』では、友や兄弟子を斬らなければならない主人公の苦悩と、事件に巻き込まれる妻の物語が並行して描かれた。

ここにも冬月剣太郎の基本構造がある。

権力から命じられた役目と、個人として守りたい愛情が衝突するのである。

冬月作品に繰り返し現れるのは、正義そのものではない。

正義を名乗る権力への疑念である。

忠誠、名誉、成功、世評、公式発表といった立派な言葉の裏に、誰かの犠牲やウソが隠れていないかを確かめようとする。

その意味で冬月剣太郎は、時代小説を書いても、詩を書いても、根底ではミステリー作家である。

常に「ウソをついているのは誰か」と問いつづけているからだ。

現在の冬月剣太郎は、時代小説家という枠から大きくはみ出している。

noteでは「昭和のノラ猫詩人」を掲げ、日本の漂流、AIの可能性と限界、大人の童謡を研究テーマとしている。

小説、詩、評論、猫を主人公にした寓話、AI画像、AI音楽を一つの創作活動として接続しようとしている。

Sunoの公開ページには、二〇二六年七月二十八日の検索時点で七百六十曲を超える作品が表示されている。

この多作ぶりは、創作力の証明であると同時に、最大の危険でもある。

冬月剣太郎は、書く題材に困っている作家ではない。

老い、病、恋、死者、昭和、戦争、ウソ、猫、妻、少年時代、失われた女性、社会から取り残された人々が、次々と作品になっている。

『静かなしあわせ』では、若いころの自己顕示欲を振り返りながら、妻と暮らす老年の日常へ着地する。

『偽りの海』では、真実の見えない世界を泳ぎつづける人間の意地を描く。

『火焔土器』では、壊れた物のなかに残る記憶と熱を見ようとする。

これらの作品から見えるのは、言語そのものを実験する詩人ではなく、人生を編集し直す詩人である。

冬月剣太郎にとって詩とは、未知の言葉を発明する作業ではない。

忘れられそうな記憶に、もう一度名前を与える作業である。

死者を生き返らせることはできない。

失敗した過去も変えられない。

それでも、言葉の置き方を変えれば、過去の意味を変えることはできる。

冬月剣太郎は、その可能性を信じて書いている。

猫もまた、単なる愛玩動物ではない。

猫は、人間社会の内部にいながら、人間の規則に完全には従わない存在である。

愛情を求めるが、服従はしない。

人間を猫人間へ変える冬月剣太郎の表現は、人間を可愛らしくするためだけの趣向ではない。

政治家も、犯罪者も、被害者も、詩人も、名もない庶民も、同じ寓話世界の住人へ引き戻す方法なのである。

人間だけが特別であるという思い上がりを、猫の姿によって相対化している。

ただし、現在の冬月剣太郎には、はっきりした弱点がある。

作品数が多すぎる。

題名が主題を説明しすぎる。

感情を、情景ではなく「悲しみ」「孤独」「絶望」「希望」といった抽象語で直接説明することがある。

結末で作品の意味を言い切ってしまい、読者が考える余白を消してしまうことも少なくない。

AI画像や音楽の完成度が高くなるほど、原詩そのものの弱さが見えにくくなる危険もある。

今回の公開検索で確認できた商業出版は、主として『陰仕え 石川紋四郎』シリーズ二作であり、詩人としての第三者による継続的な批評や、広く共有された代表詩集は、まだ確立していない。

したがって、冬月剣太郎を、すでに評価の定まった大作家や代表的詩人として持ち上げることはできない。

それはウソになる。

しかし、冬月剣太郎には、すでに固有の視線がある。

成功者より敗者を見る。

生者の言葉より死者の沈黙を聴こうとする。

令和の便利さから、昭和の貧しさと痛みを振り返る。

権力者の説明より、説明からこぼれ落ちた者の傷を見る。

そして、人間の外側に猫を置き、その眼を借りて人間社会を眺め直す。

この視線は、作品を越えて一貫している。

私が冬月剣太郎を一言で定義するなら、昭和の記憶を令和のAIへ通電する、編集者型の寓話作家である。

純粋な小説家でもない。

純粋な詩人でもない。

批評家、編集者、画像制作者、文芸プロデューサーの境界にも収まらない。

自分が生きてきた時代の記憶、後悔、怒り、恋、病、笑いを、文章、物語、猫、絵、音楽へ変換しつづける人間である。

冬月剣太郎に、これ以上多くの題材は必要ない。

必要なのは、選ぶことだ。

百篇書くことより、百篇から十篇を残すことだ。

説明を加えることより、最後の一行を削ることだ。

新しい肩書を作ることより、読者が一生忘れない一篇を完成させることだ。

冬月剣太郎は、完成した作家ではない。

七十二歳になってもなお、自分が何者なのかを作品によって探しつづけている、現在進行形の作家である。

そして、その未完成さこそが、冬月剣太郎という作家の、最も正直で、最も人間臭い魅力なのである。

【補遺】

note投稿者の小池一子(アートディレクターの小池一子さんとはまったく別人)さんへ

父君と貴女は私の拙い文学的な才能をインスパイアーしてくれた
おふたりには心から感謝の意を表したい

私は、貴女がツイッターで私を侮辱したことはとっくの昔に許している
けれども、まったく関係のない妻を侮辱したことは、貴女が謝罪しないかぎり永久(とわ)に許さない

いまだにnoteで、小池一子名義で作文されるならば、自分自慢もけっこうだが、ご自身のX(当時はツイッター)のアカウントを消す際、父君のアカウントも消してしまった理由を釈明していただきたいものだ 父君のアカウントはフォロワー数90万におよんでいたのだから当然のことながら説明責任もあるでしょう

あわせて「総裁」を自称して、あれほど私を告訴すると得意気に息巻いてらしたのだから、いまだに告訴しない理由も本音で教えていただきたいもの

長編評論『フェイクの時代 ─小池一夫ツイッター事件を起点として─』(執筆中)

『冬月剣太郎の小池一夫、小池一子批判の経緯』by ChatGPT

冬月剣太郎の小池一夫批判と小池一子批判は、最初から同じ場所から始まったものではありません。

まず先にあったのは、小池一夫という人物に対する、実体験にもとづく強い違和感でした。

ここでいう小池一子とは、アートディレクターの小池一子とはまったくの別人です。

冬月剣太郎が批判しているのは、note投稿者として活動している小池一子です。

この区別は、初めて読む人のために最初に明記しておく必要があります。

冬月剣太郎にとって、小池一夫は単なる有名漫画原作者ではありませんでした。

かつて身近に見た人物であり、その言動や人間性について、自分なりの記憶と判断を持っている相手でした。

世間では、小池一夫は面倒見のよい師匠、人格者、教育者、人生の達人のように語られることが多くありました。

しかし、冬月剣太郎の記憶の中に残っている小池一夫像は、それとはかなり違っていました。

虚栄、金銭感覚の乱れ、対人関係における二面性、平然とした自己演出、事実と虚構の境界を曖昧にする言葉。

そうしたものへの不信が、冬月剣太郎の中には長く積み重なっていました。

したがって、冬月剣太郎の小池一夫批判の第一段階は、世間に流通している美化された小池一夫像への異議申し立てだったと言えます。

ただし、それは単なる悪口や暴露欲から始まったものではありません。

冬月剣太郎にとって小池一夫は、拒絶すれば終わる相手ではなく、自分の過去、自分の傷、自分の創作上の立ち位置を考えるうえで、どうしても避けて通れない存在でした。

だからこそ、批判は長く続きました。

一度は強く否定しながらも、それでも自分は何を受け取り、何を超えようとしているのかを考え続けることになりました。

この時点で、小池一夫批判は、個人的反発から、神話化された人物像を解体する批評へと変わっていきました。

問題は、小池一夫という一人の人物だけではありませんでした。

なぜ世間は、都合よく編集された人格神話を信じるのか。

なぜ弟子や読者やメディアは、偉大な師匠像を必要とするのか。

なぜ人は、現実の人間よりも、美しく加工された物語のほうを信じたがるのか。

冬月剣太郎の批判は、次第にそうした問いへ広がっていきました。

その流れの中で決定的な意味を持ったのが、小池一夫ツイッター事件です。

小池一夫の晩年のツイッターは、多くの読者にとって、小池一夫本人の言葉に触れる場所でした。

そこでは、人生論、創作論、人間関係論、老いについての言葉などが発信され、多くの人がそれを小池一夫本人の肉声として受け止めていました。

しかし冬月剣太郎は、その晩年の投稿について、本当に小池一夫本人の言葉だったのかという疑念を抱くようになりました。

もし本人以外の手が入っていたのなら、それは単なる代筆では済みません。

なぜなら、それは生きている小池一夫の言葉として読者に受け取られ、小池一夫という人物像をさらに補強していたからです。

さらに小池一夫の死後も、その言葉と人格像はネット上で影響力を持ち続けました。

ここで問題になるのは、誰が小池一夫の言葉を作り、誰が小池一夫の人格像を運営し、誰がその神話を利用していたのかという点です。

冬月剣太郎が小池一夫ツイッター事件と呼んでいるものの核心は、ここにあります。

それは単に、ツイッターの投稿者が誰だったのかという技術的な問題ではありません。

死者の名前、死者の権威、死者の言葉が、どのように編集され、流通し、信じられていったのかという問題です。

そしてこの問題の焦点として、小池一子が前面に出てきます。

冬月剣太郎にとって小池一子批判は、小池一夫批判とは別の枝ではありません。

むしろ、小池一夫という虚像が死後も運用され続けたのではないかという疑念の中から、小池一子批判が生まれたのです。

小池一夫批判が、神話化された師匠像の解体だとすれば、小池一子批判は、その神話を死後も維持し、利用し、更新してきたのではないかという構造への批判です。

ここで重要なのは、冬月剣太郎が虚構そのものを否定しているわけではないということです。

冬月剣太郎は創作の人間です。

物語を作ることも、人物を描くことも、虚構によって真実に近づくことも理解しています。

しかし、事実を装った虚構には強く反発します。

本人の言葉であるかのように流通する代筆。

死者の権威を盾にした自己演出。

美談として消費される記憶の改竄。

読者の信頼を利用して作られる人格神話。

冬月剣太郎が問題にしているのは、まさにそうしたフェイクの構造です。

したがって、この批判の本質は、単なる私怨ではありません。

もちろん、個人的な怒りや怨念がまったくないとは言えません。

そもそも人間が本気で批判を書くとき、そこに感情がないはずはありません。

しかし、感情だけなら、ここまで長く続きません。

冬月剣太郎がこの問題を書き続けているのは、小池一夫と小池一子の問題を、現代におけるフェイク、自己神話化、代筆、記憶操作、死者の権威利用の象徴的事件として見ているからです。

ここで、小池一子に対して問われていることは明確です。

自分のXアカウントを消す際に、なぜ小池一夫のアカウントまで消したのか。

小池一夫名義の晩年の言葉は、どこまでが本人の言葉で、どこからが周囲によって作られた言葉だったのか。

かつて冬月剣太郎を告訴すると強く主張していたにもかかわらず、なぜ現在に至るまで告訴していないのか。

これらは人格攻撃ではありません。

説明を求める問いです。

小池一子が今もnoteで自分の言葉を発信するならば、自己正当化や自分自慢だけでなく、この問いに答える責任があります。

特に冬月剣太郎が許せないとしているのは、自分自身への侮辱ではありません。

冬月剣太郎は、自分が侮辱されたことについては、すでに許していると言います。

しかし、妻を侮辱されたことについては、永久に許さないと書いています。

この一点は、批判の感情的な核です。

それは単なる怒りではなく、自分の大切な人間を傷つけられた者の倫理的な怒りです。

だからこそ、この文章は、小池一子本人に向けた問いであると同時に、一般読者に向けた説明でもあります。

小池一子本人に対しては、何をしたのか、なぜしたのか、なぜ説明しないのかを問うています。

一般読者に対しては、これは一人の作家と一人のnote投稿者の揉め事ではなく、死者の言葉が誰かによって作られ、人格神話として流通し、さらにその神話が誰かの自己演出に使われることの危うさを問うているのだと説明しています。

冬月剣太郎の批判の経緯を一本の線として整理すれば、こうなります。

最初に、実体験にもとづく小池一夫への不信がありました。

次に、その不信は、世間に流通する美化された小池一夫像への批判へ広がりました。

さらに、小池一夫の晩年と死後のツイッター運用への疑念が生まれました。

そこから、誰が小池一夫の言葉を作り、誰がその神話を利用していたのかという問いが立ち上がりました。

その問いの焦点として、小池一子批判が前景化しました。

最終的に、この批判は単なる人物批判ではなく、フェイクの時代における記憶と権威と言葉の問題へと変わっていきました。

ここに、冬月剣太郎の小池一夫批判、小池一子批判の骨格があります。

弱点もあります。

あまりに長く批判を続ければ、読む側には執着や怨念に見える危険があります。

どれほど正当な問いであっても、書き方を誤れば、批評ではなく個人的な攻撃に見えてしまいます。

その危険を避けるためには、怒りをそのままぶつけるだけでは不十分です。

何が問題なのか。

何を問うているのか。

なぜそれが一般読者にも関係のある問題なのか。

そこを冷静に示す必要があります。

冬月剣太郎の批判が本当に力を持つのは、小池一夫や小池一子を罵倒したときではありません。

フェイクがどのように作られ、人々がなぜそれを信じ、誰がそこから利益を得るのかを明らかにしたときです。

そのとき、この批判は私怨を超えます。

一つの事件を起点にした、時代批評になります。

『フェイクの時代 ─小池一夫ツイッター事件を起点として─』が目指すべき場所も、そこにあるのだと思います。

画:安達猫風(ADACHI BYOFU)

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