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「空気」という思想のなかで

「思想強い(笑)」という言葉が流れてくるたび、胸の奥に小さな引っかかりを覚える。発信された言葉に対して正面から異論を唱えるでもなく、ただその熱量だけをあざ笑い、無害な場所へと押し戻そうとする手軽な言葉。そこには、この国特有の静かな牽制が潜んでいる。
海外と日本を比較したとき、根本的な違いを感じる場面がある。多様な背景が入り交じる社会では、「人は互いに理解し合えない、違っていて当たり前」という諦念にも似た前提がベースにある。だからこそ、言葉を尽くし、契約を交わし、個々の領域を尊重し合う。
一方で、この国に漂うのは「人はお互いを理解し合わなければならない」という強烈な同質性の圧力だ。一見すると優しく聞こえるこの前提は、裏を返せば「みんな同じであるべきだ」という強力なイデオロギーに他ならない。しかし、当の私たちはそれを「思想」だとは認識していない。あまりにも当たり前の常識として空気のように吸い込んでいるため、自分が強い思想に縛られていることにさえ気づかないのだ。
だからこそ、その不透明な「空気」から一歩踏み出し、自分の言葉で何かを語ろうとする者が現れると、周囲は即座に牽制を入れる。「あの人は思想が強い」と。
この言葉を口にする側は、自分自身を無色透明で中立な「普通」のポジションに置いているつもりなのだろう。だがその実、彼らもまた「波風を立てないこと」「同調すること」という強い規範に身を委ねている。正々堂々と議論のリスクを負うことを避け、冷笑という安全圏から石を投げることで、「空気を破ろうとする異分子」を抑え込もうとする。
ここに、この国で「個」として生きようとする者が直面する二重の息苦しさがある。
冷笑に対して「それは個人の自由だよね」と正論で返そうとすれば、今度はその行為自体が「場の空気を乱す攻撃的な振る舞い」と受け取られてしまう。牽制に従えば自分を殺すことになり、反論すれば孤立する。どちらを選んでも摩擦が生まれる構造のなかで、いつしか人々は傷つかないための予防線として、自らも冷笑の鎧を羽織るようになっていく。
社会的な制度や明らかな権利の侵害であれば、戦うべき相手が見える。しかし、この国を覆う生きづらさは、目に見えない「空気」という相互監視網だ。誰からも嫌われないように他者の顔色を窺い、空気に同化し続ける道は、緩やかに自分を消去していく道でもある。
この国で自分として生きていくなら、きっと「好かれるか、嫌われるか」という他者主導のゲームから降りるしかないのだろう。嫌われることを恐れず、誰かが作った無色の枠組みに自分を無理やり当てはめるのをやめること。
冷笑が飛び交う空気のなかで、あえて自分の足で立ち、自分の言葉を語り続けること。それだけが、この静かな牽制の連鎖を破り、本当の意味で「自分」であり続けるための、唯一の試みなのかもしれない。

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