骨格を愛するということ
韓国に暮らすヨーロッパ系の女性が、必死にアジア基準の「kawaii」になろうと試行錯誤している動画を見かけた。
丸みを帯びたメイク、幼さを演出する仕草。けれど画面の中の彼女からは、どこかちぐはぐな違和感が拭えない。ヨーロッパ系女性の真の魅力は、そこにはないはずなのだ。堂々とした骨格、シャープで美しいフレーム、その凛としたフォルムをそのまま誇らしげに魅せる姿こそが、彼女たちを最も輝かせるのに、と勝手ながらもどかしくなってしまった。
そんなことを考えながら、ふと自分の過去を振り返る。
幼い頃の私は、「kawaii」の物差しに当てはまらない自分の容姿が好きになれなかった。くりっとした丸い目や、可愛らしいフォルムを持つ同年代の少女たちと自分を比べては、「自分は容姿が劣っているんだ」と思い込んでいた。子どもにとっての美しさとは、そうした直感的で分かりやすい「可愛さ」だけだったからだ。
けれど大人になり、自分の顔立ちを客観的に眺められるようになって、初めて気がついた。
私の顔は「悪い」のではなかった。派手なパーツの主張で押すのではなく、配置と骨格の絶妙な調和の上に成り立つ、いわば「バランス美」の極地のような顔立ちだったのだ。幼かったあの頃は、その高度な引き算の美しさに気づくための「目」を持っていなかっただけだった。
「バランス美」が正しく評価されるには、時間がかかる。
非常に若い感性では、デカ目や涙袋といった「点」のインパクトに目を奪われがちだ。骨格の構造や全体の調和という「面」の美しさを理解するには、さまざまなものを見て、美意識を熟成させた大人の「肥えた目」が必要になる。
歳を重ね、流行の装飾を削ぎ落としたときに最後に残るのは、その人が本来持っている骨格と配置の美しさだ。トレンドに依存する「kawaii」には賞味期限があるかもしれないが、洗練されたフレームとバランスの美は、時代に流されることなく、年齢とともに品格へと変わっていく。
人の容姿は、むやみに別のジャンルへ矯正しようとするものではないのだろう。
整形や過度な加工でまったく別の何者かになろうとするよりも、脱毛や眉毛を整えるといった「素材のノイズを減らす微調整」こそが、その人が持つ本来の美しさを最大限に引き出す。
幼い頃の物差しを捨て、自分の持つフレームの価値を理解した今、私は自分のあり方を誇らしく思う。無理に甘さを足す必要はない。この潔く、洗練されたバランスを味方につけて生きていくことこそが、私にとっての「美しい生き方」なのだから。

