かごを提げた父
今年一月、父を看取った。
相続の手続きのため、
実家の建物の謄本を取り寄せた。
そこには「昭和30年取得」と記されていた。
父の人生は、その一行より少し長かった。
築七十年を超えた長屋である。
いまは母がひとりで暮らしている。
一昨日の朝だった。
通勤途中の並木道で、ネズミに出くわした。
何かnoteのネタになるかもしれないと思い、私は反射的にスマホを向けた。
ネズミは一瞬だけ後ずさりした。
ところが次の瞬間、
逃げるどころかこちらへ向かってきた。
小さな身体で地面を蹴り、
長い尻尾を引きずりながら真っすぐ近づいてくる。
私は一歩だけ足を引いた。
スマホを下ろす。
するとネズミも足を止め、向きを変え、そのまま真っすぐ進んでいった。
残ったのは後ろ姿を写した一枚の写真だけだった。
その姿を見た瞬間、ずいぶん昔の記憶がどこかから浮かび上がってきた。
小学生の頃、ネズミと同居していた。
天井裏でカサカサと音がした。
台所のどこかで物が動く。
押し入れの奥で気配がする。
夜になると、
家は静寂という名の騒がしさに包まれた。
ある日、部屋の隅でネズミと目が合ったことがある。
ほんの一瞬だった。
ネズミも止まり、私も止まった。
黒い目だけが妙にはっきり見えた。
黒い目は、私から逸れなかった。
あのとき感じたものを今もうまく言葉にできない。
当時は、金網のかご罠でネズミを捕まえていた。
朝になると、かごの中から金属を引っかく音が聞こえる。
近づいて見ると、ネズミは金網に鼻先を押しつけ、出口を探していた。
鼻先は何度も金網に触れた。
行き止まりだと分かるたび、また別の隙間を探していた。
捕まったネズミの処分は父の役目だった。
当時は水に沈める方法が一般的だった。
父はかごを手に黙って裏口から出ていく。
私はその背中を見送った。
何が行われるのか知っていた。
知っていたが見なかった。
いや、見られなかったのだと思う。
父は何も言わなかった。
かごだけが揺れていた。
朝になると、かごは空になっていた。
あの日のネズミは、逃げなかった。
逃げられなかったのかもしれない。
父が亡くなって半年。
あの朝見た一匹のネズミが、父の背中を思い出させた。
母が暮らす古い家は、
今日もどこかできしみながら立っている。
そこにもうネズミはいない。
かごを手に裏口へ向かう父の背中だけは、
あの家からいまだに出て行かないのだ。
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