短編小説|炭酸の抜ける音
部活終わりの夕暮れ、濁ったオレンジ色に染まる空をバックに全力で走ると、喉の奥に、炭酸みたいな熱が弾ける。
炭酸みたいだと思った。
喉を焼くくせに、
飲み込んだ瞬間にはもう消えている。
残るのは、ただの甘い液体だけだ。
——俺たちみたいに。
「おい大毅、あと何本だ?」
「国体帰りのお前がバテてどうすんだよ、祐司」
大毅は膝に手を突きながら笑う。
大毅は笑う時、ほんの少しだけ視線を逸らす。
俺は、それに気づかないふりをしていた。
俺は少しだけ前を歩きながら、グラウンドを後にした。
二人が向かうのは、学校近くの路地裏に佇む駄菓子屋「ひまわり」だ。
色褪せた暖簾をくぐると、いつものように甘ったるいソースの匂いと、店主の「おじい」の枯れた声が迎えてくれた。
奥のベンチには、すでに同じクラスでバスケ部の麗奈と楓がいた。
麗奈はラムネ瓶を揺らし、底に沈んだビー玉を鳴らしていた。
楓はショートカットの髪を揺らし、不器用そうに10円の紐引き飴を引いていた。
「あ、祐司、大毅。お疲れ」
楓が柔らかく微笑む。
その視線が、一瞬だけ大毅の膝で止まった。
「また擦りむいてる」
「あー、これ? スライディングで派手にやった」
大毅は笑いながら脚を叩く。
楓も、つられるみたいに小さく笑った。
俺の心臓が跳ねた。
だが、俺はそれを隠すように、わざと麗奈の隣に腰掛けた。
この4人の距離感は、1ヶ月前のあの「くだらない賭け」のせいで、歪にねじれてしまっていた。
始まりは、担任の神田の悪ノリだった。
「次の定期テストで平均点最下位のペアは、1週間『疑似カップル』な」
20代後半の神田は、生徒との距離感が近すぎることで有名だった。
結果、国体遠征で追試になった俺と、クラス最低点だった麗奈がペアにされた。
神田の謎理論の犠牲だ。
「おい神田、これ完全に人権侵害だろ!」
麗奈がいつものノリで騒ぎ、教室にどっと笑いが起きる。
神田は「うるせえ、男女ペアの方が買い出しの荷物持つのにバランスがいいんだよ。名付けて神田マジックだ」と煙に巻いて教室を出て行った。
本当に迷惑なら、そこで終わるはずだった。
だが、悪ノリしたのはクラスの連中だ。
放課後、二人で重い段ボールを抱えて廊下を歩く姿を見つけては、「お、デート中?」「公式カップル誕生じゃん」と面白半分にはやし立てる。
スマホの画面の向こうでも、俺たちのツーショット写真とともに『神田マジック実行中』というお決まりのフレーズが、身内のグループで面白おかしく消費されていく。
送られてきた写真の下には、いつも同じ言葉が並んでいた。
笑って返さないと、空気が止まりそうだった。
それが瞬く間に二人を包囲し、外堀を埋めていった。
麗奈は口では文句を言いながらも、どこか嬉しそうな表情を隠さなかった。
最初は、ただの面倒な雑務のはずだった。
だが、周囲の目が二人を勝手に「公認のカップル」に仕立て上げていく。
サッカー部の国体帰りと、派手で目立つ女子。
教室の窓に映る俺たちを見て、誰かが「お似合いじゃん」と笑った。
俺の胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「ねえ、祐司。ぶっちゃけさ、このまま本当に付き合っちゃう?」
ある日の帰り道、麗奈が探るように言った。
俺の脳裏に楓の笑顔が浮かぶ。
だが、楓は大毅と楽しそうに話していることが多い。
「……まあ、お前が嫌じゃないなら、いいけど」
「じゃ、決定。よろしくね、彼氏くん」
麗奈は笑った。
俺もぎこちなく笑い返した。
麗奈と並んで歩く帰り道、俺は意味もなく背筋を伸ばしていた。
コンビニのガラスに映る自分たちを、何度も横目で確かめる。
麗奈は気づいていない。
俺だけが、何度も見ていた。
付き合い始めて2週間。
放課後の教室。
残っていた楓へ、俺はいつもの調子で声をかけた。
「楓、一緒に帰る?」
そう言ってから、俺は教室の後ろ扉を見る。
麗奈は、まだ来ていない。
そのことに安心している自分を、見ないふりした。
麗奈はいる。
それでも、楓に名前を呼ばれるたび、胸の奥が静かに浮ついた。
楓は一瞬だけ目を伏せ、それから歪に笑った。
「……彼女、待たせちゃだめでしょ」
俺は、その声音に少しだけ安堵した。
楓が目を逸らした瞬間、胸の奥が妙に軽くなった。
麗奈と手を繋いで歩く帰り道、
俺はわざと「楓がさ」と別の女の名前を出す。
麗奈の指先が、一瞬だけ強くなる。
その反応に、俺はなぜか安心してしまった。
麗奈も負けじと「あ、大毅がね!」と声を張る。
繋いだ手の平は冷たかった。
大毅がラムネを飲み干す。
「祐司、次のインターハイ予選、絶対スタメン勝ち取れよ。俺、ベンチから応援するからさ」
麗奈は大毅に声をかける。
「大毅ってさ、本当にサッカー馬鹿だよね。……自分のこと、全然見てない」
麗奈はそう言いながら、わざと俺の方を見なかった。
代わりに、大毅のラムネ瓶へ指先を伸ばす。
カラン、とビー玉が鳴った。
その音だけが、やけに挑発的に聞こえた。
楓は10円の型抜き菓子に集中していた。
「あーあ、また割れちゃった」
「楓、それ右側から責めるのがコツだよ」
俺が自然に身を乗り出し、楓の手元を覗き込む。
距離が近くなる。
楓は笑った。
けれどその直後、店の奥で大毅が笑う声がすると、
楓の視線がほんの一瞬だけそちらへ流れた。
すぐに戻る。
「……優しくしないで。誰にでもそうなんだから」
楓の指先についた砂糖が、湿気で少し溶けていた。
その瞬間、少し離れた場所でラムネを飲んでいた麗奈が、冷え切った目で二人を見た。
カラン、と瓶の中でビー玉が虚しく鳴る。
二人が部活に戻り、店には麗奈と楓だけが残された。
おじいは、年季の入ったラジオのボリュームを下げると、冷たいラムネを二人の前に置いた。
「炭酸はな。抜ける時ゃ、音がしねえ」
おじいは、ラムネ瓶のビー玉を指先で軽く鳴らした。
「気づいた時には、もう戻らねえ」
麗奈と楓は息を呑み、黙って手元の瓶を見つめた。
おじいはそれ以上何も言わず、また手元のラジオのつまみに目を戻した。
ざあざあ、とチューニングの合わないラジオのノイズだけが、二人の間の沈黙をいたずらに引き延ばしていく。
二人の沈黙は、似ていた。
見ないふりをしていた本心が、足元から冷えていくみたいだった。
運命が壊れたのは、激しい豪雨の日のことだった。
サッカー部とバスケ部は合同で体育館の器具庫の整理をしていたが、バケツをひっくり返したような雨脚に、誰もが上の空だった。
「うわ、この雨じゃ今日の外練は無理だな」
大毅が窓の外を見ながら呟く。
「大毅、これ、上の棚に上げてくれる?」
麗奈が重そうな段ボールを抱えて近づいた。
その目は、大毅ではなく、器具庫の入り口に続く薄暗い廊下をじっと見据えていた。
麗奈は知っていた。
この時間、俺が楓とここへ来ることを。
麗奈は、自分のスマホを一度だけ見た。
送信済みのメッセージには、
『ちょっと話ある。器具庫来て』
とだけ表示されていた。
麗奈は段ボールを抱えたまま、一歩踏み出した。
濡れた床が、わずかに靴底を滑らせる。
「きゃっ!」
「うおっ、危ねえ!」
大毅がとっさに麗奈の華奢な体を抱きとめる。
その瞬間、俺は楓を伴って、器具庫の重い鉄扉を静かに開けた。
視界に飛び込んできたのは、抱き合う二人の姿だった。
「大毅の馬鹿。……なんでそんなに優しいのよ」
麗奈は大毅の服の胸元をギュッと掴み、俺を、いや、俺の後ろにいる楓を切り裂くような視線を一瞬だけ寄こした。
「気づいてないの? 私が、誰を見てるか。……ずっと、あんたのこと、好きだと思ってたのに!」
大毅の身体が強張るのが、遠目にも分かった。
大毅の顔が、見たこともないふうに歪んだ。
雨に濡れた犬みたいな目で、麗奈を見つめる。
大毅の腕に力がこもり、麗奈を強く抱き寄せた。
「……俺、ずっと、お前のこと見ないようにしてた」
大毅の声は、雨音に半分沈んでいた。
「でも、無理だった」
一瞬だけ、誰かが何かを言いかけた。
でも、誰も口にしなかった。
楓は、小さく笑っていた。
その視線は、俺ではなく、麗奈を抱きしめる大毅の腕に、ほんの一瞬だけ留まっていた。
押し寄せてきた感情の名前を、俺はうまく思い出せなかった。
誰も声を荒らげない。
激しい雨音が、瓶の中で最後の泡が弾ける音みたいに響いていた。
それから数日後。
梅雨の晴れ間とは名ばかりの、今にも雨が降り出しそうな薄曇りの空の下。
「ひまわり」の店先。
ベンチには、入れ替わったペアが座っていた。
大毅の隣で、麗奈が笑っている。
だが、その目は決して大毅の核心には触れようとしない。
大毅は、笑うたびに視線を逸らした。
俺の隣には、楓。
二人はソフトクリームを食べているが、会話は驚くほど続かない。
「……大毅ってさ」
楓は、溶けかけたソフトクリームを見つめたまま言う。
「人の話、最後まで聞くんだよね」
俺は曖昧に笑った。
楓は、それ以上何も言わなかった。
そこに、自転車に乗った神田が通りかかり、ブレーキを軋ませて止まった。
「お、お前ら、全員揃って駄菓子屋か? 相変わらず仲いいな!」
神田は自転車にまたがったまま、4人の顔を見回した。
「あれ、ていうかペア替わったのか? 祐司の隣に楓で、大毅の隣に麗奈? ……お前ら、お盛んだな〜! 若いってのはいいわ」
神田はデリカシーなく大声で笑い、それ以上追及することもなく、 「じゃ、宿題忘れるなよ!」 とペダルを漕ぎ出した。
その背中に向かって、誰からともなく、小さく手を振った。
「ありがとー、先生」
呟いた声は、湿った風にかき消された。
おじいが店の奥から顔を出し、栓の開いたラムネ瓶を四つ、無言で並べた。
濁ったガラスの瞳が、俺たち四人を順番に、ただじっと見つめている。
責めるわけでも、憐れむわけでもない。
ただ、こうなることを知っていたかのような、酷く冷めた目だった。
誰も、何も言えなかった。
瓶の中でビー玉が落ちる音だけが、やけに大きく響く。
手に入れたはずの時間は、驚くほど味がしなかった。
甘いだけだった。
瓶の中のラムネは、もう二度と泡立たない。
瓶の底で、最後のビー玉が小さく鳴った。
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