私のブランド考② セルロイド・クローゼット。『禁色』、『仮面の告白』から見える三島由紀夫、と、マーロン・ブランド
「私は平岡公威の『花ざかりの森』は読んだが、三島由紀夫の作品には更に眼を通す気になれなかった。でも辛抱して、『禁色』を辿りかけたことがある。しかし、数ページで投げ出してしまった。一体、『禁色』などという標題が成立するものではない。禁色とは、青、赤、緋、くちなし色、蘇芳色などを指すが、普通には「紫」である。「禁じられた色欲」などという意味はない。彼の題名はその全てが此種のハッタリを出ていない。」
稲垣足穂の『禁色』を評した言葉である。
確かに、タルホの言う通り、三島由紀夫にはハッタリが多く、かつ、懐かしいものが一つもない。郷愁、と、いうものを、想起させるものが、著しくかけているのだという。
まぁ、谷崎潤一郎は書割の伽藍洞、川端康成は千代紙細工、と、悪口の限りだが、然し、基本的には的を射ている。
然し、三島由紀夫の27歳頃の作品、『禁色』は出色の傑作小説である。
『禁色』は、絶世の美青年南悠一と、彼を使って自分を苦しめた女たちに復讐を目論む老作家・檜俊輔を軸に進む長編小説で、文庫で700ページ近くある。
の、で、読むのには、大変に、時間がかかる、なにせ、あの、三島の、濃厚な文体で書かれている、比喩表現のオンパレード、同じことの繰り返し、な、わけで、然し、けれども、『禁色』は、三島文学の中では比較的、いや、かなり読みやすい部類に属するだろう。まず、筋が面白いのだ。
『禁色』では、美青年悠一が、その希臘彫刻のような美貌を元に、許婚がありながらも、段々と、男色の世界へと入っていく話で、悠一は、女性ならば誰もがちらっと見ちゃう、或いは、振り向いてしまう容姿をしているが、女には興味がない。彼にとって、女はそこら辺の車や、木や、家、或いは石と同じ、物質でしかない。
許婚はいるが、これは生活、つまりは、お金と、就職と、世間体のためだ。悠一はまだ学生の身分で、許婚の康子と結婚し、彼の父に仕事を世話をしてもらう予定である。つまりは、仮面夫婦であり、偽装結婚だ。
康子は大変に美しい女性で、慎ましい人だが、然し、悠一は、彼女を愛してはおらず、彼女と結婚してからの寝室での営みの際にも、自身を無料の娼婦の様だと思う。彼女との間の性的な繋がりを嫌い、けれども、寝入ってしまった妻の寝顔の美しさは素直に愛している。それは、即ち、美を所有することの喜びだと悠一は思う。
で、ゲイパーティーにも顔を出して、色々な少年やおっさんたちと寝る、彼らは皆、悠一に一目惚れする、女も、男も、この美青年にやられてしまう。
作家の俊輔も、始めは、悠一を利用して、自分を苦しめた女たちを絶望に落とす青写真を描く、描く、の、で、ある、が、然し、彼自身が、木乃伊盗りが木乃伊になるかの様に、悠一の虜になる。悠一は、俊輔の思い出や過去にはなかった、美しい時代を経てきた存在で、今も尚誰にも愛され続ける、それは、俊輔には憧憬そのものである。
男性は、誰もが、美青年、美少年に、識らず知らず、恋をしている。契りたい、そう思っているのだ。少年の初恋は、親族を除けば、クラスの美しい少年、同窓の、利発で男気のある兄貴分。そういった同性と親友の契りを交わしたいと思う、好かれたいと思うその心。この恋心を気付かない男のなんと多いことか!
そして、年を重ねてからの美青年への恋、と、いうものは、喪われた青春、少年時代を彼らに仮託する、と、いうことであり、これは、稲垣足穂が述べたように、美少年とは理想の自分そのものに他ならない、と、いうことであり、文学、文化現象とは、汎ゆる意味で、その理想を昇華、顕現させたものなのである。汎ゆる文化現象、それは、大げさかもしれないが、事実、誰もが、我が子を、美しく飾り立てること、勉学に秀でる、運動に秀でるように躾をして、成功を夢見て、それがこの社会を形成していく。親は子に恋するのだ。
で、そんな、『禁色』、だ、が、傑作、で、ある、の、だが、大著、で、あり、本来的には、第一部、第二部と構成されている。文庫版では、これはまとめられていて、本来は、第一部の『禁色』、第二部の『秘楽』の2冊である。
第一部は非常に読みやすく、第二部は第一部を煮染めたように観念的ではあるが、然し、物語は地続きだ。第一部は紛れもない傑作で、これは素晴らしい小説、天才の仕事だと思う。文学的なものと娯楽の見事な媾合だ。
1950年代の東京を舞台にして、上流階級たちの様々な感情と性癖、心情が綴られる。主要人物は10名程だが、基本的には、男はほぼ全員ノンケではない。
冒頭は初心な悠一も、段々と、自らの美しさに自惚れてナルシスを気取るが、基本的にはそこまで地頭がいいタイプではない。寧ろ、馬鹿な気がする。これは大切なことで、作中でも触れられるが、美は、他者の目線を気にする自意識は持つが、他者ことを見ようとしない。他者のことを見ることで、そういった自意識の獲得は、美が崩落していく予兆である。
で、そんな彼を操ろうとして最終的には彼の虜になってしまう俊輔は、これは世間的には大変な藝術家であり、作中でも名前の出る、谷崎潤一郎、佐藤春夫、日夏耿之介、芥川龍之介などのように、耽美的な藝術観を持っている。
こんな二人の物語、なのだが、私は、この『禁色』を読んだ時に、一番に聯想するのは、日本人ではない、遠いアメリカ。
悠一は、希臘彫刻や、様々な美神に例えられるが、それらは全て西洋の神々で、彼はアポロンのように、明らかに異国の匂いをまとっている、そんな悠一、私には、やはり、マーロン・ブランドを思い出す。
奇しくも、ブランド、この、『禁色』の書かれた頃は27歳、28歳くらい、ブランドは、三島よりも学年が一つ上、である。

めちゃくちゃに、匂うように、きれいなきれいなマーロン・ブランド。
そして、彼がまだ若い頃、舞台役者の頃、『欲望というの名の電車』の舞台版の本読みのため、「一度原作者に会ってこい」と言われて、電車賃をもらうも途中で使い果たし、遅れて到着したのは戯曲家テネシー・ウィリアムズの家、数日の遅刻、堂々たる登場、そして、テネシーウィリアズムの家の壊れた水道管を直して、そこから一時間ほどの本読み、それだけで、テネシー・ウィリアムズ、恋に落ちた、落ちて、もう、エージェントへの手紙に、ブランドは神の恵みだと、そこまで書いている。
で、二人で朝の散歩、海辺で、浜辺を歩く。チャプチャプと足を波につけるブランド、言葉少なな二人だが、この時、この男ほど美しい男は存在しない、と、テネシー・ウィリアムズ、思ったそうだ。で、テネシー・ウィリアムズは同性愛者である。
作家と若い美青年、作家と若き俳優。作家、藝術家は、美を、ミューズを、即ち、詩神を求めているものだ。
映画でもそうだ。『ブレードランナー』ではルトガー・ハウアーが詩神となり、作品のイメージを決定づける。そして、『ブレードランナー2049』の詩神はライアン・ゴズリングだったと、ドゥニ・ヴィルヌーヴがうっとりと(ねっとり)語っている。
どうでもいいが、ヴィルヌーヴは、喋り方も、そして、ビジュアルも、名前も、ねっとりとしている。で、ゴズリングを褒めるヴィルヌーヴ、映画には、それを駆動させる英雄が常に必要とされているー。だが、本当には、デビッド・ボウイを詩神に迎えたいと言っていた……。
で、どうでもいいが、最近、『ブレードランナー』関連のアイテムを漁っていると、なんと、ついに!エマネーターが!プロップで発売!私は天を仰ぎ、この超高額なプロップをなんの躊躇もなくカートに入れて、3万円の前金をカードで支払う。
もう、満足感しかない、の、だが、冷静に考えると、ただの棒、なのであるが、然し、エマネーター、これは、『ブレードランナー2049』における、三種の神器の一つに等しい。なので、来年、これが来たら、私のポケットには、いつだってエマネーターだ。
ちなみに、これ、作中で壊れる、の、だが、その壊れたエディションも、5万円台で発売する、ので、今、悩んでいる。恐らく、これを読んでいる方は、どうかしているのではないか?と、思うかもしれないが、どうかしているのだ、ほっといてくれ。

で、『禁色』。で、ブランド。
悠一は、銀座のゲイバー、ブランズウィックをモデルにしたゲイ喫茶ルドンで様々な少年たちと出会い、関係を持つ。このルドンでは、野坂昭如もボーイをしていたのだという。ブランズウィックでは、後に弟分(意味深)になる堂本正樹との出会いもある。
ちなみに、野坂昭如は、ブランズウィックは10日足らずで辞めている。基本的には1階で仕事をして、2階は特別な場所、夕方に美少年たちがやってくる、三島由紀夫はそこの常連で、野坂は一度だけ、マッチを擦って三島の煙草に火を灯している。
後に、野坂も2階に行かないかと誘われることになるが、怖気づいて辞めたのだ。2階は、堂本正樹曰く、江戸川乱歩作品で少年が誘拐される館の如しの悪魔的空間だったようだ。
で、『禁色』では、そこに集う様々な年上の男たち、外人たち(悠一は外国人とは寝ない主義だ)は、どうしても悠一と契を結びたいと悶々とし、計略を練る。
女たちも同じだ。彼を愛する、以前、俊輔が愛した女たち、俊輔は、傲慢で高飛車な女たちが若い男に入れあげて、最後には袖にされ膝をつく、その瞬間をこそみたいのだと、まるでヒソカのようだが、その野望のために50万円で悠一と契約を結ぶ。当時の50万円だから、今だと150万〜200万円くらいだろうか。
悠一が妻帯者であろうと関係ない、ご婦人たちは悠一にご執心だ。
今作には二人の妙齢の女性が悠一と不倫関係になるが、どちらも、男で苦労したことがない、いつだって、主導権は、彼女たちが握る。高飛車、放埒、そのような女たち。その二人が手玉になる。悠一を思うと、乙女のように、自分が制御できない。このふたりとも、大ダメージを負うわけだが、彼女たちは、三島の戯曲の『サド侯爵夫人』に登場する、サン・フォン伯爵夫人の変形のようでもあるし、妻は、サド侯爵夫人のルネのようでもある。悠一と俊輔は、一対の存在、彼女たちにとり、サドそのもののようだ。
で、悠一の若き妻康子は、悠一の夜毎の夜遊び、家庭の無関心に不安を抱きながら、悠一の子供をお腹に宿す。後半、機械仕掛けの神の章では、すなわち、舞台を強制的に終わらせるデウス・エクス・マキナが起動し、一挙の崩壊、カタストロフが起きる。
ここで、まぁ、ネタバレになるが、悠一の母が、ある匿名の手紙に誘われて、喫茶ルドンに行き、少年たちが「悠ちゃん悠ちゃん」というのを聞いて、恐怖に慄き、ああ、宅の悠一じゃありませんように……!と神に祈り、差し出された写真を恐る恐る見ると、写真の中に息子の微笑を見る、このシーンの恐ろしさと滑稽さ。
長い小説、この長さ、丹念に、丹念に、心情と感情とを、この上ない美文で積み上げてきたバベルの塔に、ついに神の雷が落ちるのだ。
雷。「危険な雷だ。」。作中で、悠一はそう評される。ブランドも同様、彼もまた、ハリウッドの巨星であると同時に、危険な雷だった。そして、彼は男性も、女性も、両方を愛した。
私の好きなブランドの映画、1967年公開、『禁じられた情事の森』、奇遇にも、どちらも禁の字、どちらもご法度、そして、禁は金を聯想させる。

『禁じられた情事の森』は、カーソン・マッカラーズの中編小説、『黄金の眼に映るもの』の映画化で、監督はジョン・ヒューストンであり、共演はエリザベス・テイラーだ。この文庫は絶版なので、結構値が張る。150ページに満たない、数日で読めるレベルだ。だが、活字慣れしていないと読みにくいだろう。カーソン・マッカラーズは、今は村上春樹の、『心は孤独な狩人』が読めるが、私は、村上春樹を一度たりとも読んだことがないので、無論、読んだことはない、が、映画版は観たのだ。
1960年代のブランドは、落ち目扱いされていたし、『戦艦バウンティ』ののちに、ユニバーサルと1本あたり27万ドルの出演料で作品に出る契約を結ばされていた。放蕩のツケを払うために、大量のへんてこな映画に出て、評価を落としていた。
当時の価値では、27万ドルは、まぁ1億円くらいだろう。彼ほどのスターなら大分安いだろう。税金とエージェントにたくさん取られるだろうし。手取りは2000万円くらいじゃないだろうか。
だが、当時の、なので、このあたりも、実際2000万円でも、今では1億円くらいの価値があるのだろう。
で、そのへんてこな映画、その中でも、注目、に値するのがこの『禁じられた情事の森』、で、あり、現代の黄金の目、まさに、黄金を表現するために、何度もプリント会社が苦心して、琥珀色の黄金バージョンが完成されるに至る。50本作られたこの黄金バージョンは、今や海外版のブルーレイなどに収録されているが、日本では観ることは叶わない。
昨年、特別公開があったが、基本的には、本国でも当初不評だった、この黄金版から差し替えられた、テクニカラー版のDVDは発売されているが、然し、これもまた廃盤で、プレミア品だ。米国版のBDは、金色バージョンのディスクと、テクニカラー版のディスクが2枚で収められている。


色というもの、カラーコーディネートというものは、映画の成否に深く関わる。モノクローム、カラー、どのような彩度を選ぶのかで、作品のテーマにも深く関わる。
『禁じられた情事の森』に関して、三島は映画版を否定していたが、然し、今作は三島作品と関わりがある。それは、オペラ『金閣寺』の作曲者である黛敏郎が劇中の音楽を手掛けている点である。
ジョン・ヒューストンと黛敏郎は『天地創造』で仕事をして、その後、今作の作曲も依頼している。オペラ『金閣寺』は、1976年のにドイツで初演を迎えて、日本でも独逸語だが、上演されている。1991年、1997年、近年でも、2015年と、上演されている。
『金閣寺』もまた黄金であり、美の極地であるが、『黄金の眼に映るもの』こと『禁じられた情事の森』の黄金バージョンとは、金色で繋がっている。
黛敏郎は、オペラ『金閣寺』の仕事を受ける際のこと、三島由紀夫に会って話をすると、三島は「台本を書くのは勘弁してくれ」、と、断った。当時、ドイツ・ベルリン・オペラ団の総監督だったグスタフ・ルドルフ・ゼルナーの表象主義は自身のオペラ感と合わない、と、言うのだ。
元々、ゼルナーが『金閣寺』を読み感動し、黛に何度も作曲を頼んでいた。で、三島は、イタリアンオペラの方が自分に向いているし、まぁ、作劇の不一致だ。
「上演には喜んで行くよ!わっはっはっ!」的な感じだったが、まぁ、自裁してしまったので、観ることは叶わなかったが。
ちなみに、このオペラは、youtubeで観られる。
で、話が逸れてしまったのでまた元に戻すと、この小説の主人公、ペンダートン大尉、は、当初、モンゴメリー・クリフトが演じる予定だったが急逝、ブランドが演じることになり、彼は、小説を読んで、自分に役をできるかわからない、と監督のジョン・ヒューストンに言った。考えてみてほしいと促され、ブランドは雷雨の中を散歩し、戻ってきた時に、やる、と決めたのだそうだ。
ここでも、まぁ、打たれたわけではない、打たれたわけではないが、「危険な雷」が、ブランドの心を打った。この経緯は、ジョン・ヒューストンの自伝、『王になろうとした男』に詳しい。カーソン・マッカラーズとジョン・ヒューストンの関係が書かれている。
ペンダートン大尉は同性愛者であり、然し、妻がおり、妻は大尉の友人の少佐と不倫、出逢って二時間でセックスに至った、の、だが、その少佐の妻は、夫の不倫を識りつつも諦観、大尉の妻との間には奇妙な連帯があり、ある種の結託が結ばれていてる、そして彼女は、フィリピン人の使用人の青年アナクレトと擬似母子的な繋がりで傷を舐め合い、そこに、ペンダートン大尉が恋をする、黄金の目を持つ一等兵ウィリアムズがいて、そんな一等兵は大尉の妻にストーキング行為をしており、夜毎大尉の家の寝室へ侵入し、じっと寝姿を観察している。
と、いう、全員が明後日の方向を向いているという人間関係の地獄で、いや、ある種、人間関係が成立していない、感じ、この関係図も、『禁色』と少し似ている、が、『禁色』においては、一つの地場に対して強烈な執心が四方八方から注がれている、『黄金の眼に映るもの』においては、人間関係が表面上だけで、水底では断絶している。
で、この少佐の婦人が、一番原作者のカーソン・マッカラーズに近いキャラクターだと思われるが、大尉も、大尉の妻も、夫も、全員頭がおかしいんじゃないの…?!的に、ヒステリックになり、精神を大分病んでおり、以前、自分の乳首をハサミで切断したのだ……。
で、ペンダートン大尉は、軍人であり、場所は南部であり、ここで、この時代この場所で同性愛を曝け出すことなど、できようはずがない。何よりも、大尉自身が、自分のセクシャリティに対して自覚的ではない、認めたくないアンビバレンツな感情に引き裂かれている。
今作は、小説では、同性愛、と、いう言葉はほぼ出てこない。冒頭で、大尉がウィリアムズに庭の手入れの仕事を頼み、ウィリアムズが小さな親切大きなお世話をやらかして、それがきっかけで、大尉は彼を敵視する、そして、その感情、言いようのない、妻には抱いたことのないその感情が、最終章で、段々と、恋であることの確信へと近づいていく。
ペンダートンの、希望と、希求、ウィリアムズへの恋心が育つにつれて、彼が自分の妻へ異常な執着を見せていた、それが明らかになるクライマックス、ペンダートンは恋に破れて銃口をウィリアムズ一等兵に向ける。ペンダートンは銃撃の腕前がのび太並なので、『のび太と銀河超特急』よろしくの、同じ場所に正確に銃弾をぶち込むことができるのだ!
ペンダートン大尉は、悠一とは異なり、性的な懊悩を吐き出す術、場所を識らず、映画では、ただただ少女のようにクリームを顔に塗りたくり、鏡を向いて、『タクシードライバー』の「俺に言っているのか?」の元ネタを見せて、そして、一等兵が落としたチョコレートの包み紙を宝物のように大切にするのである。この時、落とした包み紙を、ベイビールースの包み紙だが、周囲に気付かれないようにさっと拾う(誰も気にしていない)、そして、お家で、丁寧にシワを伸ばす。
で、まぁ、そんな原作、そんな映画(どんな原作、どんな映画だ)、然し、それは図らずにも、ブランドの持つバイセクシャル的な面が出ているように思える。
ブランドは、少年時代からの友人のウォーリー・コックスを一番に愛していて、兄事していて、そして、コックスは何でも識っていると心底慕っていた。
彼が亡くなる1973年、この時、ブランドは、『ラストタンゴ・イン・パリ』の撮影を終えて、同作がセンセーションを巻き起こしていた時、映画に関するインタビューは一切受けず、亡くなったウォーリーコックスの遺灰を抱いて眠っていた。お骨に話しかけていた。そして、それから30年以上の月日が経ち、二人のお骨は、一緒にデスヴァレーに撒かれた。
彼は、少年期からの親友との契りを、終生貫いたのだ。
三島由紀夫の『仮面の告白』はほぼ自伝のような感じだが、ここでの主人公である、公ちゃん、まぁ、平岡公威、三島由紀夫自身だが、その主人公の『私』の行為、は、本作のペンダートン大尉に近しいものがある。
彼もまた、幼い頃から、外側では仮面を作り、然し、家では女言葉、男性への思慕を延々と語る、その告白、心情を吐露した自伝小説である。
時代は戦前から戦後、少年期から青年期が描かれるわけだが、全四章仕立て、第一章の少年期に、汚穢屋、糞尿汲み取り人の逞しい身体に恍惚とし、第二章で学校の先輩、同学年だが落第している、兄貴的な男性、それもまた逞しく野卑な男である近江に惚れ込み、そこから後年、友人の妹園子を好きになろうと務める。
接吻をすれば、キスをすれば、或いは、園子の肉体を淫らに想像すれば、エレクチオンするはず……然し、するわけがない、だって男が好きだもの、女はただの物質だものと、悶々としつつも自分を騙して園子と仲良くなる、惚れられる、そして、結婚の話が出てきて……あ、まずい……、そんな小説。
ちなみに、三島、女性とイタしたときは、自慢げに、デキたゾ!と、同胞に語っていた、と、堂本正樹、三島由紀夫の弟分、契りを交わした弟の一人が『回想 回転扉の三島由紀夫』で赤裸々に書いている。
『回想 回転扉の三島由紀夫』は、主に、『禁色』の喫茶ルドンのモデルになった喫茶ブランズウィックでの三島と堂本の出会いから始まり、戯作者、評論家でもあった堂本と三島の友情以上の愛情を描いている。
堂本正樹は毎日お湯に手を浸して、綺麗な手を保っている、が、それを三島に見られて、やだ!恥ずかしい!と、なる。が、三島、そんな堂本がかわいい。
で、二人の馴れ初めから、映画『憂国』の制作秘話、まで書かれる、の、だが、途中、歌人の春日井建が顕れて、19歳、美貌、天才的藝術センスで三島の心を奪って、悔しい想いの堂本、特に、自分が正式に招待されていなかった舞台の一等席に座る三島、その横に春日井、春日井、気づいて「ちーす!」と手を挙げての悪気のない見せつけなど、恋愛漫画?と思う感じ。
堂本正樹は、『憂国』の演出を手掛けているが、今作、30分程の映画、が、重要なのは、三島由紀夫の自殺愛、自裁への憧憬、それを、二人が出逢って長い間繰り返してきた、『自殺ごっこ』、本番に至るまでの最後の模擬演習、であった、ということだろうか。
三島も、堂本も、同性愛雑誌アドニスの会員だったことにも触れられていていて、ここに、匿名で書かれた三島由紀夫の小説『愛の処刑』のディティールにも触れられているが、『愛の処刑』は三島が書いたものを、堂本正樹が三島邸に呼ばれて(遥子婦人不在の際)、清書させられた経緯を持つ。
『愛の処刑』は、30代の独身体育教師と生徒の美少年との話で、これも、まぁ、展開がヤマジュン漫画のように無理やりなのだが、最後には切腹と接吻、という、そういう自裁小説であり、『憂国』のプロトタイプ版である。著作でも堂本が述べているように、『愛の処刑』を書いた時、三島が、「今度はこれを世間向きの桐の箱に入った純文学として書くよ」と、彼に言い、後年、『憂国』として転生したわけだ。
なので、本来的には、この、『憂国』、と、『愛の処刑』は、本質は同じもので、わかりやすく、2.26事件を絡めて世間向きの体裁を整えているが、その実、本来的には、『仮面の告白』でも散々と語り尽くしたあの、『聖セバスチャンの殉教』を見てマスターベーションに耽る様、それを模した『薔薇刑』、そして、散々書い連ねてきた八つ裂きにされることへの恍惚、堂本正樹が語る、『午後の曳航』の削除された、裸の死体を解剖するラスト……、などなど、もう、完全に、自分のプライヴェートな欲望の昇華が三島藝術であって、実際には、日本国はどうでもいいのだ。
石原慎太郎も、野坂昭如との対談で、「彼は天皇なんてちっとも好きじゃなかったと思うね。」と、指摘している。
『英霊の聲』における、「などてすめらぎは人間となりたまひし」と、いう、畳句も、その谺もまた、ポーズに過ぎないのではないか。それほど、人間が、日本人が、どういうものを悦ぶのかを冷静に理解している。

この、『愛の処刑』、『憂国』に、至るまでには、『聚楽物語』があり、そして、殺生関白と称された豊臣秀次の切腹、更には、彼の妻子などの眷属39名の処刑の無惨絵図、これらが、二人にインスピレーションを与えていて、豊臣秀次のこのエピソードは、谷崎潤一郎も、『聞書抄』にて取り上げている。耽美派には堪らない、マゾヒスト(を装ったサディスト、或いは、その逆も然り)には堪らないものがあるのだ。
三島と堂本の『自殺ごっこ』は、純粋に、子供の遊びの延長だ。それは、満州皇帝の王子と甘粕正彦大尉の時もあれば、沈没船の船長と少年水夫の時もあったし、やくざと学習院のお坊ちゃんの時もあったのだという。互いが役割を決めて、自殺を遂げる。ほぼ、三島が設定を決めている。
死への憧憬、これは、性的なものと頒ちがたく結びついているのは、三島の人生観、文学感、そして、性癖そのものであるが、その性癖を究極にまで推し進めて、その人生の丸ごとの萃点を1970年11月25日に持ってきている。
天皇、英靈、ナショナリズムは全て、それを輝かすための設定に過ぎず、究極の自殺ごっこであり、作品なのだ。
美少年と逞しい男の滅びの美学を夢見る少年たちの遊び。
楯の会、それについて、堂本正樹は、自分は外側から、演劇を外から見る観劇者なのだと自覚し、彼自身、楯の会、制服を着た男一人では滑稽だけれども、この、制服姿の凛々しい男性が複数名集まることで生まれるフェティッシュ、美しさが確かにあるということは認めていて、私も、想像するだに、これは美しいものだと思える。一種のナチズム的であり、同性愛的であり、制服、と、いうものは、耽美的なものに結びついている。
制服、と、いえば、野坂昭如は、『赫奕たる逆光』の中で、「四五年の生を通じて、しかし三島は胎児のままだった、仮面は胞衣。能面、剣道の面、軍帽、ヘルメット、まことに冠ることが好きであった。」と、僅か二行で三島由紀夫の本質を突いている。
ナチズム、と、いえば、マーロン・ブランド、1958年の、『若き獅子たち』においては、理想に燃える若きナチの将校を演じていた。ちなみに、この映画では、『禁じられた情事の森』の代打を務めることになる、生前のモンゴメリー・クリフトと共演している。
で、この『若き獅子たち』における制服姿のマーロン・ブランドはたまらなく美しいが、彼は、この若き将校であるクリスチャン・ディーストルを演じるために、髪をブロンドに染め、確信犯的な、殉教者となる、聖者のナチ、と、いう、コンセプトを原作、脚本に見出し、それを演じようとする、正義感のナチ、理想を信じる人。然し、それは監督には反対、原作者にはウルトラに反対されてしまう。
ブランドは、人間は両面の存在であると常々言っている。正義も悪もないもので、矛盾した存在、矛盾こそが人間であるからこそ、聖者としてのナチもあり得るのだと。そのブランドの信念は揺るがないが、然し、受け入れられる土壌がない。戦後13年の世界において、ナチスは非道以外の何物でもない、人間ではない、悪魔なのだ。
で、ブランド、最後には、磔のキリストを模した死に方を演じようとするが、それは全力で止められてしまい、FUCK!なんだよ!な、気持ち。

三島の抱く、大戦で、華々しく死ぬ、だから未来がない、自分には、中年時代、壮年時代、老年時代がない、そんな自分、でも、本当には死にたくない、だから、死を夢想してその甘美な夢に浸るけれども、空襲警報が鳴るといの一番に逃げ出す三島。
そして、戦争が終わってしまったことに対する焦燥、死に場所が消えて、荏苒に生きていくことを定められた人生への慄き、確かに、全ての三島がこの作品一本に余蘊無く詰め込まれている。
『禁色』の中で、西鶴の言葉が引用される。西鶴、稲垣足穂も、彼の『男色大鑑』を現代訳していたが、そんな、西鶴、と、タルホ、と、三島。
『野郎翫びはちりかかる花のもとに、狼が寝ているがごとき』。
美しい詩的な表現。これこそが野郎遊びであると同時に、この、花びらを散らすその中で狼が眠る様という比喩、この表現、花を美少年に狼を男性に見立てることも、花を散らす狼と化した美少年と見立てることも、どちらでも出来る。花、とは、菊、でもあるし、そこから滴るもの、そして、それらいずれにも、想起される言葉から紡がれる美的幻想の馥郁たる香りが漂ってくる。この香水をこそ手首に、精神に、擦り付けた美青年こそが悠一なのだ。
悠一は、七匹の仔山羊よろしく手を白塗りにした狼に拐かされてしまい、結果的に野郎遊びを覚えると、前髪から狼へと化身するのだ。
さて、この西鶴の美しい言葉の並び、響き、然し、これは、『禁色』でも述べられるように、美しい藝術には醜悪な指紋がついている、と、いう、事実を見逃してはならない。
美しい芸術品と、作り手は、正反対であること、藝術と藝術家のアンビバレンツな関係そのものが、美を昇華させていく。美しい言葉、美しい詩句、それらは確かに美に満ちていて、想起される光景もまた美しいが、そこには作り手の翳の部分が確かに潜んでいる。翳こそが灯される火の兄弟だからである。兄には弟が、弟には兄が必要なのだ。
美しい藝術は、美しき者、正しき者、いや、美しいとされている者、正しいとされている者、が作るだけではない、そして、汎ゆる美しいものを、美しい人達が、ああ、美しい美しいと百貨店やお洒落なお店で触れている、買っている、その触れているものには、様々なものが、及びもよらない悍ましい何かが染み付いているかもしれないという、その皮肉。
『禁色』の書かれた時代、1950年代、まだ、この野郎翫びは、完全に、世間では常識の範囲外だった。現代とは全く異なる。その価値観の中で書かれている。この時代での男色は、登場人物たちに、悍ましい何かを感じさせていたのだ。
後半は、藝術家である俊輔が、美についての自身の論理を訥々と巡らせる章で、何度読んでも、私は、多分、5回くらいこの部分を読み直したが、わからない、の、で、あるが、なんとなく、わかりそうな、時もある。
で、藝術家は、男性は、美を、喪われた美を、若い美青年に託す、そして、この、美しい構図、どうしようもない、死が生を希むこの公式は、父親が息子へと抱く感情と相似している。
藝術家でなかろうとも、汎ゆる男性は、息子を慈しむその時だけは、藝術家なのだ。
年少の、幼心の、若草の息子に自身の理想を視て、この美少年を美青年へと育て上げたい心の動きこそが藝術であって、その達成には、自らの、人生における醜悪な汚れに満ちた指先で支えることが不可欠である事実が巌としてある。
男は狼なのよ、左様、狼である。然し、美しい狼というものは、この世には中々に現れない。然し、初めて登場するその時に、悠一は美しい狼と。作中で形容される。花が散りかかる中で眠る狼は悠一そのものなのであり、この一連の流れこそが藝術の本質に他ならない。
何れにせよ、『禁色』における若人と老人、こそは、テネシー・ウィリアムズとブランドの関係性のみならず、テレビに映る若い自分を観て不機嫌になり、一緒にいた恋人に、あの頃の俺は美しかったさ!と、罵る、そのブランド、『欲望という名の電車』のブランドが悠一で、老年のブランドはその美青年へ執心する老いたブランド、叶うならば、同一の役者で、『禁色』が観たいものだ。その夢想は現実的には映画では叶わない、然し、舞台ならばと、あったかもしれないと、そんな埒もない夢を描く。
『仮面の告白』でも、『禁色』でも、再三、三島は、愛するものになりたい、あの男となりたい、という、同一化の夢を何度も語り続ける。美しいものへの同一化。そのための方法、それが藝術。
作中でも述べられるように、悠一の精神的父親になった俊輔は、眼前の美しい息子を見る、という表現からも、これは、同性愛の物語であると同時に、父子の話でもある。父親は、息子になりたい、同一化したいのだ。何故ならば、息子はかつての理想の自分の再臨であって、その息子がいないときには、それにふさわしい美少年が選ばれるからだ。
『仮面の告白』は、『黄金の眼に映るもの』に近しいと書いたのだが、そう、どちらの作品でも、荒々しい男性像が、主人公を翻弄する。
『仮面の告白』のラスト、結婚した園子と何度も清潔な逢引を重ねて、いつしか揺れ動き始めた園子を連れて入ったダンスホールで、「私」は若々しい、野生の男性を眼にする。その荒くれの野生、美しい肉体。
作中で、「私」は男たちの、そして自身のものにも触れて自分の欲情にそれが直結していることを書く。焦がれの対象である腋窩の叢、この縮れ毛が日差しを受けて金いろに輝くのを目の当たりにした時、「私」はもう、園子の存在を忘れて、女性への恋心の擬態を脱ぎ捨てて、その肉体をだけ欲する確信に至る。
ここが、三島の眼だ。男の叢が黄金に輝く様を、「私」が欲望する対象についての確信への帰趨に持ってきて、物語を締めるとともに、読者の眼には「私」の視たその煌めきを幻視させる。
普段は、目にも留めないようなもの、男性へどうしようもなく視線を向けてしまう男性の心情を、描く眼差し。
この眼差しは作家であり、当事者でなければ育まれえないものだ。
少年期に、糞尿汲み取り人へと抱いた【私が彼になりたい】、【私が彼でありたい】という思い、それは、『仮面の告白』のラスト、再び顕現される。
その姿は、1951年に、銀幕上に顕れた、粗野で無学で野蛮で、然し世にも美しい青年スタンリーを演じるブランドを観た男性が抱く、刹那の禁色と同質のものでなかろうか。
映画はモノクロームであったけれども、男たちの眼に、黄金色にも、菫色にも映り、その輝きが心に乱反射して、その時、マーロン・ブランドは、【私が彼でありたい】という一点のみで、イコンに、藝術に、そして、息子へと成ったのである。

