若狭の漁村巡り
福井県は嶺南地方に位置する若狭地方,その沿岸部には縄文時代より居住がみられる漁村地域がいくつも存在する.かつてより,海・湖・川・里山の恵みに囲まれてはぐくまれてきた漁村の営みは,数万点を数える古文書などの記録によって1000年を超える文化と生活を現在に伝えてくれている.
また,朝鮮半島から海流に乗りたどり着くこの地においては古代より秦氏の渡来があり,港を中心に国際的な交流の玄関としての役割を果たしてきた.
この地方でとられる海産物は,例えばフグ,鰻,マハタ,ヒラメ,アマダイなどきりがなく上げられ,その中でもサバが有名であったことから,鯖街道と呼ばれる京都までの複数の街道を通り運ばれていた.そういったことから「御食国(みつけのくに)」として独自の文化がはぐくまれてきたという歴史と膨大な資料から読み取られる都との強力な結びつきも併せ持つ.
そういったことから,この若狭地方の漁村についての民俗学的な研究は盛んであり,他の地域における民俗学的考察の比較対象としてもよく用いられることが散見される.いうなれば漁村研究の格好のフィールドと言っても差支えのないほどだ.
今回は,鯖街道を通り,若狭地方の漁村集落のいくつかを回ってみることとし,その地域に根付く文化や生活を町並みから伺い知ることとする.
鯖街道を行くJRバスの旅

朝早くの京都駅から旅は始まる.湖西線の旅は菅浦のとき以来だ.この琵琶の海はかつてより物流で栄えた歴史を持ち,京都や大阪の発展に切っても切り離せない関係を持つ.直接的な関係はないが,この記事も合わせて読んでいただければ幸いである.

大分,乗ってこの列車の終点である近江今津までやってきた.嶺南地方へのアクセスは路線図を見るとこの先の敦賀から小浜線に乗るとよいのだが,今回は少し時間のかかる近道を通ってみる.

駅西口のバス停より小浜行きのバスに乗り込む.中型路線バスいすゞのエルガミオが使用されている.
この路線は大変珍しい特徴をいくつも持つために,バスオタクの方々から大変な人気を誇っている.その3つの特徴をあげていく.
まず,国鉄バスの直系であるということである.もともと,鉄道線として建設される予定であった若江線に完成までの間にバスを通したことが由来となる.そのために,鉄道省,のちに国鉄,JRとその系譜が受け継がれて,線路建設の計画が立ち消えた現在ではバスだけが残っている次第である.高速道路を通らないバスとしてJRバスが鉄道連絡の乗車券を発行できる場所はここが唯一である.私も今回,大阪からの切符には経路欄に「自動車線」と刻まれていて,唯一無二の体験ができたのは喜ばしく思った.鉄道用の切符で路線バスに乗り継ぐというのも違和感を抱くものだ.
次に県境を越えるバスは珍しい.だいたい,バスの経営は都道府県ごとに行われている.県境を越えるバスは比較的特異であるためにいずれも有名になるほどだ.
最期に鉄道よりも早いバス路線ということだ.これは,ここ近江今津駅付近から小浜駅付近に向かう際に湖西線で敦賀駅まで向かい,小浜線で小浜駅までアクセスするよりもJRバス若江線に乗車した方がだいぶん早く到着するのだ.同時に出発したとしても30分以上は早く着くそうで,路線バスでありながら長距離移動を担い,乗りとおしの需要も多いのだとか.

乗車する際には整理券などは取らずに乗り込んでよい.ここからこのバスは熊川宿のある若狭熊川を通り,県境を越えて小浜まで至る.途中の上中(かみなか)までは国道303号を通っていき,そこから主点までは国道27号を通っていく.県庁所在地を通らない中で最も数字の若い2桁国道である国道27号を通っていけるのも魅力的だ.

車内には観光客らしき人はほとんどおらず,近江今津の近辺で半分以上が降りてしまった.バスはしばらく今津の町を邁進していく.

少ししてバスは峠道に入った.走りやすく整備された国道だが,にしても運転手の技術が光る路線であるという印象だ.
さて紹介が遅れたが,この路線バスは鯖街道を構成する一部の若狭街道・九里半街道を通っていくバスとしても有名であり,この今津から若狭を結ぶ道のりが九里半街道,またこの先の保阪から水坂峠を越え小浜に抜けていく経路が若狭街道の区間の一つでもあるのだ.九里半街道の方は今津で積み替えをして船によって荷を京都まで運んでいたのだが,足の速い鯖などの海産物はどちらかというと若狭街道の方がふさわしかったのだろう.

保阪の村落に出た.先述の通り,ここから若狭街道と合流する.京都へ納める鯖は数日前に”注文”を知らせておくと,約束の日に合わせてとっておきのものを届けるのだそう.だいたい小浜から京の都までは一昼夜をかけて運ばれるそうで,十八里,およそ80kmの距離を行商人が籠を背負い深い山を歩く.何かの話ではその行商人のほとんどは女性であり,十貫を超すような荷をしょってきたと聞いた.

さてバスは大きな峠越えをトンネルをもって行う.ここは若狭湾と琵琶湖の分水嶺であり,この先の山中というところと合わせて難所として扱われていたようだ.

珍しいことにトンネルを越えて少ししたところに県境がある.分水嶺の峠の向こうまで滋賀県高島市で,越えて少ししたところで寒風川と天増川が合流し,北川と名を変えるところで福井県若狭町に入っていくのだ.

福井県に入ってすぐに熊川宿につく.近年では,県を挙げて観光に力を入れており,嶺南地方を代表する観光地の一つとして注目されている.今回は最も見て回りたいと計画している常神半島の漁村がメインであるので,今後の機会に取っておくことにした.

303号を突き進み,次第に地形が広がっていく.海の近づく予感に気づいて交通量が増えてきたころに,しばらくたどってきた国道303号の終点に着く.国道の中でも県庁所在地を通らないものとして最も番号が若い国道27号に合流して旅は続く.

そこからは町が続いていて,時折小浜線の駅がみられた.徐々に町が大きくなってきたころに終着点のアナウンスが入る.小浜駅は舞鶴と敦賀の間に位置する若狭地方の代表的な町の一つで,駅前の栄え方は想像よりも華やかなものであった.今日はこの小浜町はさほど見る時間を用意できなかったために足早にバスを下車する.

若江線には様々な面白さが詰まっている.近江の国から若狭の国へ国境を街道を通っていく面白さは一見の価値がある.慎ましく公共交通としての最後の使命を果たす国鉄バスのなごりはいつまでも記憶に残る.
小浜線の旅
今回の旅では若狭湾に沿って連なる美しい漁村風景を見ることをしてみるとする.時間の都合で若狭町と美浜町にまたがる常神半島の漁村を見て回ることとしたため,先ほどのJRバスやこれからの小浜線に関してはゆっくりと取りあげるのはまた今度とさせていただく.

小浜駅でバスを降りて改札で今回の連絡乗車券をお見せする.すると,少し戸惑った表情であったのだ.大阪からの乗車券でこの駅から切符を提示されることはめったにないであろう.すかさず,若江線で来ましたと申すと,それは大変失礼いたしました,と丁寧に通してくれた.お互いに緊張をした.

地方の駅に来ると鉄道が来る時間にだけは人が集まる様子が見られる.乗り込んでみるとボックスシートが埋まっている,いわゆる満席の状態になっていた.

海が遠くなく,適度に山があって平地ある田には水が張られている.こういった景色が嶺南なのだと行く先が近づく私に語り掛ける.朝の快い空の青はなんとも12月とは思えないほどに心を躍らせる.のちに,この1週間後には雪に染められる景色である.

しばらく乗って美浜駅に着いた.美浜駅では対向の列車とすれ違う.私は本日は美浜駅から車で旅を続けるため,ここで下車する.

列車が去り,人がいなくなった美浜駅はさみしさを感じさせる.利用者の数に対しては広いホームがそう思わせている.

この駅から海岸線までは約900m離れている.また,この付近では海岸線のぎりぎりまで山が反り立つために小浜線で海が見える場所というのは案外少ない.しかし,この美浜駅だけは900mにわたって遮るものがなく,手前の田と奥に海が見える美しいコントラストが得られる.

美浜駅付近は駅前に道の駅や駅中に観光案内所が設けられており,美浜町を代表する駅として美しく整備されている.嶺南地方の大動脈である国道27号がある駅南側に改札が設けられており,道路と線路の接続をよく考えられた構造だ.
本当は小浜線についてもっと取り上げたい思いであるが,今回の最もの目的は若狭地方の漁村訪問である.そのためにここらで小浜線の乗車記は結びとさせていただく.
三方五湖ネイチャークルーズ(美浜町)
ここからは美浜出身の友と車で旅程をこなしていく.美浜で生まれ育った彼も今回の旅で初めて常神半島に位置する集落を回るそうで,二人して貴重な探訪となる.
美浜駅から車で10分ほどで美浜町早瀬の集落につく.早瀬は三方五湖の一つ,久々子(くぐし)湖と若狭湾にまたがって位置する漁村集落で,かつては北前船の寄港することで大変にぎわったそう.

我々は早瀬の集落を見て回る前に久々子湖やその奥に広がる水月湖,菅湖をめぐる遊覧船,三方五湖ネイチャークルーズを体験することにした.

久々子湖は水鳥や渡り鳥がよく訪れ,季節によってさまざまなな顔ぶれがみられる.このネイチャークルーズに来ている人も,半数以上は野鳥観察が目的であることが分かった.船に乗り込んだ時に双眼鏡をお貸しいただけるサービスまであるほどの充実ぶりである.今回持ってきたカメラがあまり野鳥観察に向いていない広角のものなので,野鳥などの説明は省略させていただくが,ぜひこのネイチャークルーズを体験される方には楽しみにされてほしいところである.

水鳥たちを紹介していただきながら久々子湖を内陸側へ進み,次第に両端が狭くなってくる.この部分は川のようになっており,両脇を岩盤が囲っているため,先ほどまでの穏やかな湖から険しい渓谷を行く川下りの小舟に乗っているような景色に変わった.これは浦見川といい,小浜藩の奉公,行方(なめかた)久兵衛によって開削された水路である.菅湖から久々子湖へはかつては天然の気山川があったのだが,雨が降った際には排水能力が不足し,氾濫することがあったそう.のちの地震によってこの川がふさがり,開削の機運となった,浦見川の場所には坂があり,その岩盤を2年の歳月と22万人を動員し工事は行われたそうだ.

開削された水路を通って急に広がる湖が水月湖である.また,梅の栽培で有名な長尾島とい半島によって菅湖と画しており,これらは水質は非常に似ていることを察した.この先にまだ三方湖という湖があり,そちらは水月湖と細い水道でつながるのみであるために,水質の変化や流れが非常に少なく,海や湖,沼地の堆積物の調査においては非常に素晴らしいフィールドなのだそうだ.なので,三方湖のほとりには世界最大級の年縞が展示されている「福井県立年縞博物館」があり,クルーズの際にはそちらの訪問もお勧めされたほどである.クルーズに乗って気が付くこととしては360年前の開削までは湖の近くは氾濫し住むことが難しかったことからか,集落などの存在は確認できなかった.

我々はまた浦見川を通って久々子湖に戻ってくる.帰ってきてから見る水鳥の様子は少し違っており,楽しみが厚みを持っている.我々がよその湖を見ている間に水鳥はみな少しずつ動いていたようだ.
三方五湖という日本でもここでしか見られない地形や自然を知らずして常神半島の漁村巡りはできないだろうという考えからの体験であったが,皆様におかれても非常にお勧めをさせていただきたい.
早瀬集落(美浜町)
船を降りた私たちは,船からも見えていた早瀬集落の中心地へと向かった.早瀬の集落は久々子湖と若狭湾を結ぶ早瀬川という短い川の両側に広がる集落で,漁港に中心がおかれているような漁村集落の装いである.この早瀬川はかつてはもっと狭く,三方五湖のうちの三方湖,菅湖,水月湖,久々子湖の唯一の海への排水の機能を持っ.そのために,五湖の貯水が増えると早瀬の集落は水害に見舞われたそうだ.そこで寛文4年(1664年)に先述の浦見川開削に尽力した行方久兵衛によって拡幅の工事が行われた.

かつては敦賀半島と常神半島の間に位置する北前船の寄港地の一つとして修業や海運業も栄えた場所であった.現在でも集落を歩き見ていると,つくりのいい家などが残り,かつての区割りからもその繁盛がうかがい知れるような気がする.湖にそった集落であるために,近代から現代までには漁業従事者と農家が主な産業だったことがうかがい知れる.かつてでは脱穀の道具である千歯扱きの生産が有名であり,そういった加工の技術の優れた集落であったことも資料に残る.また,集落内にある三宅彦右衛門酒造の早瀬浦という地酒が有名で,常神半島の集落に存在する旅館でも提供がされているそうである.

早瀬集落に入ってみれば,集落内にこういった大きくはない祠が点在している.これらは集落の最終単位ごとに設けられているようで,繁栄ぶりがそこからもうかがえる.また,後述させていただくが,神社がひときわ多く,人口に対して全国的に珍しい密度を誇っている.祠に話を戻そう.ひときわ目についたものはこちらの早瀬港の祠とされているものである.特段調べた結果では確かなことは論ずることはできないが,おそらく,漁業や農業,商売繁盛を願って信仰されるエビス信仰の祠ではないかと考察した.この付近ではかつてより文化が築かれてきたという話をしたが,古代より朝鮮半島から大陸の文化や人を受け入れる玄関口としての役割も果たしていた.そののちに渡来人一族として秦氏の存在などによってこの地域の発展や文化形成にも役に立ったことであろう.そういった側面から,土着の神であり,海から流れ着くといった漂着神という側面を併せ持つこと,など,この地域が外からの文化や,ハレ・ケ・ケガレの受け入れの姿勢がこの祠にも表れているのではないかと読み取ることにした.またこの付近に蛭子神社が存在しているためにそういった信仰の存在の輪郭を強めてくれた.

早瀬漁港は午前中に訪問したが,人影がなかった.半農半漁という側面を持っているために,特に漁業が盛んな様子を見れなかったのか.今は漁の時期ではなかったというだけかもしれないが.

漁協の近くには干物を扱う場所があり,この日は天気が良かったためにきれいに並べられていた.この後にも見て回る集落にも干物を干す様子は見られた.

早瀬集落の内側に入っていくと道に水路が敷かれ,幅も整っており,今日までに昭和,平成と時代に合わせた大きな改修があったのだろうことが読み取れた.実際,漁港には平成のどこかのタイミングで建て替えがあったことがプレートから読み取れた.

海岸線から離れていくと徐々に住宅の間の道が太くなってくる.造りからも漁労というより農業や商業などの雰囲気が感じられ,豊かな集落であることがここからも読み取られる.

先述の祠の一つである.付近の家々によって管理されている神社であり,よく信奉されていることがわかる.集落内の場所ごとに少しずつ違った祠が置かれている.
先述の通り,この早瀬集落には人口に対して神社が非常に多い.これは,古代では秦氏の渡来があり,国際港として様々な文化を受け入れたことに始まり,天然の良港であったために北前船の多く停泊する栄えた港町となったことなどによって,交易や商業,廻船の結節点としての役割がそうさせたのだろうと考える.また常神半島という絶好の漁場を持つ場所から熊川宿,行く果ては京都といった流通拠点を担っており,後述の神子や常神,遊子などのいくつもの集落からの海産物などはここ早瀬を通って行ったものと考える.文献をさかのぼれば,江戸時代頃にはこの早瀬集落に山王信仰として日吉神社,地之神として蛭子神社,水無月神社の三社がそれぞれの信仰の核を持っていたことがうかがえる.そもそも文献によるとこの地には,林神社,日吉神社(山王),水無月神社(三光神),市姫神社,宗像神社,江頭社などの多くの神社が存在した.しかし,明治41年にまとめて合祀されているものが多く,これは一般的な密度ではない.

集落の中心には蛭子神社がおかれていた.ここには現在は小さな祠があるだけであるが,森隆男『民俗儀礼に残る早瀬の歴史』によれば,もともとの早瀬の信仰とされる地之神社は蛭子神社であるそうだ.また,先ほどの結節点としての早瀬浦の歴史をうかがえる話として京の白河,美濃の糸・絹などの記述がこの蛭子神社の祭文に刻まれている.ここの境内の3基あるうちの1つの常夜灯には「文久四年 大坂屋半七」と銘されており,大阪の商人からの奉納であり,商売繁盛への感謝や祈願と考えられている.
蛭子神社というと一般的には商売繁盛のえびす様や七福神唯一の土着の神といったイメージがある.しかし,漁村においては浜や港,浦の守護といった意味合いや漁労にとって航海安全,大漁祈願などの意味合いを持って祀られることが多い.こういった信仰は総本宮を島根県は美保関に置く事代主神の信仰に準じたものが多く,山陰地方を中心に非常に広い分布を持っている.おそらくはここもそれに準じたものとなっているはずだ.

この水無月神社は古来よりこの早瀬において婦女子からの信仰が厚く,早瀬の水月様と呼ばれて来た.先ほどの話の浦見川の開削以降は近隣住民の罪穢を川瀬に流すという祓いの式をこの地で行ってきたという.若狭地方には疫病などの流行の際,川下に水無月神社を祀って流行病の多い水無月に名越し(夏越し)の祓いを行うとよい,という.山城国以南では一般的には水無月に茅の輪くぐりをして半年のケガレの祓いと残り半年の無病息災を祈る伝統がよく見られる.しかし,若狭地方や丹後地方においては現在ではその数を減らしているものの,間人の水無月社では火や太鼓を使った祭りや,ここ早瀬では海上で神輿を掛け声とともに担ぐ祭りなど,独自のものがみられる.この地方ではかつて記録によるとコレラの流行の際に日吉神社に子ども歌舞伎を奉納したとの伝承があり,いずれも何度かの疫病にさらされてきた中での知恵の結晶であることがうかがえる.また,この水無月神社は地元だけでなく遠方からの信仰が厚かったと記載があった.それは,川下にケガレを流すといった信仰は,三方五湖のうちの4つの湖の流出をひとえに担う早瀬ならではの信仰で,その表れに川上や他集落などの遠方からもお参りに来たのであろう.

先述の明治の合祀の際に水無月神社は日吉神社に合祀されており,現在は祠を持たない.しかし,先述の水月祭りの際にはこの御旅所に2階建ての御仮屋を建てて,沖において儀式を行った後にここの御仮屋を周ってから2階に安置されるのだろう.合祀前の雰囲気や祭事の流れは調べた中ではわからなかった.
ここまで信仰のことを論じれば気になることがある.この地の信仰であるといった蛭子神社の祠があまりに小さい.写真こそないが,本来は立派な社を構える日吉神社この地の地之主神とするのが一般的である.そのうえ,かつて日吉神社は林神社としていたそうで,早瀬の名前の由来ともされている.日吉神社の社伝ではかつて主神を蛭子神としていたそうだが,近江坂本の日吉大社から勧請したとある.これをそのまま読み取れば,かつての日吉神社である林神社がのちに山王信仰へと変化したもので,先述の蛭子神社とは違ったものである,と思える.考察するに,日吉神社の境内に山王社と蛭子社の両方を同じ境内の離れた場所に祀り,時代が変わってそれぞれ別のものになったと思われる.なので,かつての蛭子信仰を組むのが日吉神社で,かつての名残として蛭子神社が小さな祠として残っているのだろう.あくまで考察の域を出ないため,ゆくゆくはここで調査をしてみたいものである.ただ確実に言えることは,ここに存在した林神社とは何なのかというのを詳しく読み解くことが早瀬の歴史を紐解くことにほかない.

私の旅においては,この屋外の流しの存在を確認することが多い.それは,漁村集落の特徴の一つでもあり,集落の生活を伺うための重要なものであるためである.写真の木製のものやタイル張りのものなど時代やその集落の生活に合わせて様々なスタイルを見て取られる.後述にもこの屋外の流しについて2度にわたって記述をさせていただく.

基本的に他の集落と比べて家並みが立派である.また.家の装飾が越前よりも近江の国の影響を強く受けているように思えた.例えば,外装を紅塗するような家が多く,これは近江の北部に存在するベンガラ塗りの文化からくるものと思える.

先ほどまでいた寺や神社,祠が多く存在するエリアから早瀬川を渡って久々子湖のほとりに存在する家並みを見る.こちらには舟屋や漁労の雰囲気はあまりなく,どちらかというと農耕の集落の雰囲気があった.実際に,農機や農具などが多く,肥料のにおいもかすかにする.かつてはこの付近に大規模ではないだろうが農耕があったのだろう.現在では釣り人のボートの停泊に使う場所や漁港として埋め立てられた場所,新興住宅の並ぶ国道沿いでは,この人口の多かった早瀬集落で食べていくだけの農耕を行っていて,その名残なのではないかと思われた.一瞬はこの久々子湖の沿岸に農業を行う場所があり,船でそこまで向かって仕事をするといったことを行っていたことを考えたが,この農耕の雰囲気の小屋が建て,大雨などの際に排水がうまくいかぬ三方五湖のほとりから集落が姿を消していて,ここから離れた農地を持つメリットというのはなくなっていたのではと私は考える.

早瀬集落では現在も数を減らしながらも漁業を行う方がいるそうで,網漁を行う船が数隻見られた.日本海が荒れる時には久々子湖という自然が造り出した最高の船溜まりが真価を発揮する.後述にもあるがかつては常神半島の漁村集落は今よりも数が多かったそう.しかし,津波の被害を受けて数を減らしたという文献がある.常神半島の東側は特に外洋からの波にさらされやすく,こういった内海の湖を持つ集落は人口を増やしやすかったのだろう.
日向集落(美浜町)
次に,美浜町の最西部に位置する日向(ひるが)集落に訪問する.この日向集落も先ほどの早瀬集落と似ていて,日向湖と若狭湾につながる水路付近に広がる集落である.しかし,この日向の方が湖を天然の船泊として利用しており,集落の形がやや異なる.

記録によると日向は隣の早瀬と土地の問題や資源,漁業権のことでたびたび争ったそうだ.例えば,常神半島の東側に広がる赤石山や堺土,かつて存在し,津波によって流されたくるみ浦(くるび浦)などを争ったそうだ.
先ほどの早瀬浦では北前船の寄港地としてよく知られていたが,こちらは調べた上ではあまりそういった歴史で有名というわけでは無さそうだ.

この橋の下で毎年1月に日向名物の水中綱引き祭りが行われる.この日向橋から20-30代の男性が日向運河に飛び込み、水に浮かべた藁の綱を引き合う.と言っても,我々の思い浮かべる綱引きとは違い,綱を引きちぎるために引き合うそうで,豊漁を祈願した祭りの一つだそう.

日向湖の方へ来てみると漁村集落が湖に沿って存在しており,早瀬集落よりも現在まで漁労の方が多く残っていることが分かった.ほとりにはずっと向こうまで小さな漁業小屋が存在している.

湖を取り囲むように集落が形成されており,現在でも非常に栄えている様子が見られる.今回は湖東の道を散策する.

湖の方に緩やかな傾斜があり,山側の住宅の背後にはすぐに崖が存在する.この道路は昔からの集落の道幅を残しており,左右には漁業で生計を立てている家が並んでいる様子が見られる.

山側の道路はどこも道路から一段上がったところにある.部分的にはしっかり護岸をされているような石垣の印象すらある.訪れた際はこの道路がかつての海岸線であり,コンクリートによって護岸がなされた後に湖側にも集落が広がったのではないかと思ったが,両脇の家に古さの差が見られず,確かに確認できるものはなかった.ただ,何も対策されていなかった頃や日向開削運河開削以前では湖とはいえ風が立つときや大雨があった時には湖側の家に浸水の恐れがあったときはあっただろう.湖の方に護岸を各家ごとに行ているものが古い家に見られたのは,琵琶湖畔の古い集落に見られるものに似ている.
実際に調べてみたところ,日向運河が開削される以前,淡水湖の日向湖は現在より1.2mほど水面が高かったそうだ.その後,外浜に面する部分が波の浸食が船の停泊場所を削り取るために,寛永12年(1635年)に開削された.その後は近代に入るまでにこの日向湖のほとりには漁業に向かう木船のための舟屋がずらっと並んでいたのだそう.現在は船舶のFRP化が進んだために舟屋はほとんど残っていない.

高札のようなものが見られた.確かにこの場所は集落の一区切りであり,熊川方面から日向へ至るには気山方面から日向湖の東側を通ってここに至る.集落の入り口の一つであったのは確かであろう.

この日向の清浄の森というところににかつて宇波西神社の元社が置かれていたそうだ.宇波西神社の祭神である鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)が初めておいでになった現在の宮崎の日向を名乗るように言ったとさる.また,日向の橋坂山の景色に似ているから日向と名付けられた説も存在する.伝承によれば日向からの移住があったとされ,方言や字名(あざめい)には共通するものが多いそうだ.宇波西神社は現在は気山の上瀬に位置している.実際に今でも4月の宇波西神社の際には日向の元社にお祀りされているお太刀を運んで始めることがしきたりとなっているそうだ.
現在は運河より西にある稲荷神社が氏神となっており,水中綱引きも稲荷神社の祭りとされている.しかし,先ほどの早瀬と同じように多くの信仰を持つ集落であったことがうかがえるのが,この稲荷神社はかつて存在した厳島神社,蛯子神社,山神社を明治41年に合祀しているそうで,信仰という面でみると集落の規模から考えれば密度が高いといえる.

この日向に入ってからの印象といえば,漁業従事者が現在の全国にあるいずれの漁村集落の中でもひときわ多い印象を受けることであろう.実際,大敷網の規模が非常に大きく,福井県内で最大のものだそうだ.扱う魚も大きそうなことが漁船から見てとられる.定置網に関しては集落の住民によって合資されているらしく,準備に手間を要する祭りが円滑に行えていることはおそらくそういった集落の絆が非常に強いことからきているのであろう.
日向運河にかかる立派な橋は現在は新しいものであるが,以前のものも1999年製の今のものように立派なコンクリートアーチ橋であったそうで,それまでに流されてきた橋のことを思うと立派なものをと思う気持ちが伝わってくる.
三方五湖レインボーライン
美浜町の漁村集落の探訪は以上として,常神半島の先端までに存在する漁村集落を訪問する.
常神半島の東側には,かつて集落が点在していたそうだが,現在には日向以北の常神半島東側には集落が存在しない.これより先は「三方五湖レインボーライン」を通り,常神半島の西側へ移動する.この「三方五湖レインボーライン」は美浜町と若狭町にまたがる三方五湖と日本海を眺める梅丈岳(395m)の山頂に至る絶景の観光スポットの一つだ.

今回は日向方面から若狭町へと抜けていく.途中で常神半島の東側がきれいに見える展望台があった.この常神半島の東側は先端まで美浜町である.先ほどの日向の説明の際に記述したが,この写真の左側にかつてくるみ浦(くるび浦)と呼ばれる集落などが存在した.この常神半島の東側に日向以北に集落が現在はない理由は様々考察されている.写真からも確認できるが,非常に急峻な地形が定住を拒んだとされる理由が主流であるそうだが,ほかにも,津波による被害から逃れて,日向や早瀬に移りすんだとされる説などもある.また,海流が悪さをし漁場としては非常に分が悪いようで,急峻な地形には定住がなくなったとされる時期ごろの遠浅の地引網漁が向かないためにわざわざ住む理由がなかったなどがあるそうだ.どう見てもここに現在まで定住することは水の確保やアクセスの悪さが壁となりそうなことはよくわかった.

山頂公園にある施設でお昼ご飯を食べる.福井県の名物であるソースかつ丼でこの後の散策に備える.

リフトに乗って山頂に上ると,三方五湖が一望でき,この特殊な地形が一見にご覧いただける.おそらく湖ごとに塩分濃度が違い,湖内にも塩分濃度差が発生している.

足湯のあるデッキがあった.そちらの方からは先ほどまで散策してきた早瀬や日向の集落が眺められる.こうしてみると,美浜駅のあたりだけが
平地となっており,そこからこの常神半島に近づくと久々子湖や日向湖,その付近に開かれた集落がよく見え,美浜町の美しい地形と生活の営みが見て取られた.
美浜町の持つ魅力というのは私の筆舌に尽くしがたく,実際に見ていただくのが最善である.固有の地形が織り成す美しい眺めや,そんな地形に営まれる人間の生活の系譜は集落探訪からから強く伝わった.また,湖へ出れば水鳥も同じくこの美浜町にいざなわれていることがわかる.皆様におかれては集落探訪やグルメの満喫と合わせてレインボーロードと山頂公園の訪問をお勧めさせていただく.
塩坂越集落(若狭町)
我々はレインボーロードを下っていき,常神半島の西に出てきた.訪問前から地図を見ていて気になっていたところがあったので,訪問できればと考えていたため,寄ってみることにする.水月湖の方面からトンネルを抜けて側道に入り,急な坂を下っていきたどり着くここは塩坂越という集落だ.

塩坂越集落にアクセスするには現在ではいずれの方向からもトンネルを抜けてくる必要がある.ということは,かつては山を越えるか船を出すかの二つしか他の地域への移動はできなかったということである.
名前の由来はこの集落で盛んであった製塩業で得た塩をしょって山を越えて運んだことからくるそう.または,ここが常神半島の付け根にあり,海から塩や魚を運ぶ際にここを通ったことから名づけられたという説もある.おそらくは峠の名前であったものがその地域の固有の地名とまでなった例と思われる.また,塩坂越と書いて「しゃくし」と読む.レインボーロードの終わりに位置した水月湖のほとりの水坂越を「みずさこし」,それとついとなる塩坂越を「しおさこし」と呼んだそう.中世の時代から読み方が徐々に訛り現在の読み方に収まったのではないかと考えられてる.

塩坂越の集落の中心は八幡神社に伸びる坂道を中心に形成されている.といいうよりかは,これ以外に集落を形成する道路がほとんどない.

その坂道を駆け上がっていくと,いわゆる道路とは違う生活道を感じる.道にせり出すように軒や植木があり,細さがそれをより際立たせる.

この道には車は入ってこられないために,おそらくは集落の上の車道に各々の駐車がされているのかと思われる.振り返れば,郵便ポストがおかれており,ここがこのあたり数軒の中心のように思えた.


家の軒から流れた雨水は坂を流れていくのだろうが,道を苔で覆ってしまう.集落の中には,ここが漁村集落であることを伝えてくれるようなものがいくつも見られた.例えば,プラ製のブイなどの漁業の道具である.また,家の玄関先や裏口におかれる流しの存在である.先ほどの早瀬や日向にも見られたが,ここで論じることにする.
流しの使い方は様々で,現在においても砂浜をもつ集落などでは家に砂を持ち込まないように低くに流しがおかれている.これは,道具や足,体を洗うためと思われる.私は以前に伊勢志摩地方において大きく低い流しを見た際は,海女の文化の存在がそう言った形にさせたのだと確信した.今回のような手元の高さの流しは,現在では使用される例は非常に少ないがその名残はたくさん見られる.例えば,漁に出て獲れた魚を家で捌くと匂いが非常にきついし,汚れも目立つ.私は家の外に置かれた流しを見て,漁業従事者の多さを図ることができると確信している.網元を持つ集落でもそうでない集落も軒先に流しを設けているものである.

先ほどにはこの集落の由来は「塩」があると申したが,それはおそらくは鎌倉時代ごろまでの歴史が関係すると考える.この常神半島を含む若狭は,奈良時代の律令期においては調として塩を納めていた.そのためか素焼きの土器が沿岸集落に出土が多くみられるのだそうだ.また,鎌倉時代ごろには隣の遊子集落には塩田の所有があったことが分かっている.そのことについては後述させていただく.そのころには実際,揚浜式の塩田が開かれていたはずである.現在ではその製法は奥能登にのみ残っているそうだ.しかし,この地域におけるこの方式の製塩ははっきりいって効率的ではない.天日蒸発を十分に得られるほどの日照があるわけではなく,冬場には多雪によりなすすべがなくなる.そののちには,江戸時代前期から入浜式塩田の技術が瀬戸内海付近で発達し,また,北前船や菱垣廻船などの航路による開運が栄えて,日本全国の漁村集落が単体で製塩に取り組む文化には衰退がみられるようになる.常神半島に至っては製塩業を失っても漁業によって生活をつないでゆき,塩の専売制度が始まった明治期以降は観光業によって多くの常神半島の集落は栄えてきた.現在でもここ塩坂越集落にも旅館が存在しており,日本の生活史を地名や地形,集落の風情から感じることができた.
塩坂越という名前にはおそらくこういった流れがある.この地に定住があったかわからない時代から熊川の方面へと塩や魚介を運ぶ山道がこの集落の上方に敷かれていた.常神半島で得られた塩のほとんどがこの塩坂越と呼ばれる坂を通っていたためにできた名前なのであろう.そののちに世久見湾の入り組んだ地形から網漁に適したこの地に正式に定住が発生して塩坂越と名付けられたのであろう.
遊子集落(若狭町)
塩坂越を後にし,県道を北上してゆく.常神半島の西側に集落は先端から順に常神,神子,小川,遊子,塩坂越,世久見と続いていき,それぞれに固有の見どころがある.先ほどの塩坂越では塩を背負って運ぶ際の通り道としての地形が名前になったと申した.その塩はどこで作られたかというのがこの遊子集落である.これから回る神子や小川などの集落にも共通はしているがこの地には奈良時代の塩田の遺跡があり,古くから製塩業で知られている.素焼きの土器や金属が出土しており,古来では浜で木材を燃やして土器に入れた海水を煮詰めるなどをしていたのだろう.その後は製鉄の技術が徐々に盛んになり,煮詰める鍋ができた.中世においては揚浜式によって製塩を行っていたことであろう.
かつては隣の小川の集落からの別れであるということや丹後の方らか人が来たということなど,集落の始まりには諸説ある.しかし,こののちに紹介するいずれの漁村集落にも共通しているが,分家が許されないという文化があった.それは狭い集落に人口が増えすぎるのを防ぐ意味合いもあったかもしれない.昭和後期の時代にいなっても弟が集落を出て自分で家計を建て,暮らしていかねばならぬため,高校卒業後に大学へ進学する割合が高かったそうだ.塩坂越にも同じことが言えるが,常神や神子,小川の発展に際してこちらの遊子に分家の移住があったなど言うこともあったかもしれない.

この集落は他に比べて沿岸ちかくまで山がせり出しており,そのために製塩や農業が重要な産業となっていたのだろう.集落の中心に県道が畑を回り込むように通っており,海側にはかつての製塩業の土地なのだろう平たい土地がすこしある.ここと,山の方に少しある農地は古くからアブラキリの栽培を行ってきたそうだ.現在では大戦後の工業化の影響でアブラキリの栽培は見られないそうだ.

先ほど,くるみ浦(くるび浦)の話を少しした.ここ遊子や小川からすればちょうど反対側の集落となる.血の浦と呼ばれた浦の集落は津波にのまれたとの伝説が残っているが,言い伝えによれば,全昌院という写真の左のお寺の石垣が山腹を利用して高く積まれているのは津波除けなのだそうだ.
常神集落(若狭町)
我々は日没までに常神半島の目的の集落を見て回りきるため,一番の目的である常神を先に見ておくことにした.

常神集落へ行くには2つのトンネルを超える必要がある.一つは常神トンネル.2023年に開通した新しいトンネルで,かつては海岸ぎりぎりのところを通っていく必要があった.旧道も残っており,神子集落から分岐している.もう一つは,写真の常神隧道である.コンクリートで固められたトンネルだが,こちらのトンネルは見た目以上に古いのではないだろうか.おそらく,1972年の県道216号常神三方線拡張工事完了の際に現在のおおよその形ができたのだろう.しかし,この集落へのアクセスは,この隧道の付近にほかない.訪問の際には旧道は見られなかった.おそらく,近代の時代よりこの位置に素掘りの隧道があって,のちの時代のどこかのタイミングで拡張されたのではないかと考えられる.

常神という地名は,常神トンネル以南にある常神社という.常神半島端部付近に御神島(おんかみじま)という島があり,常に神様がおられて守ってくださっているということから恒神,のちに常神という名がついたそうだ.漁村集落としては珍しく,海上安全・豊漁だけでなく養蚕神としても信仰されている点が非常に興味深いものである.常神半島のいくつかの集落では養蚕業も行われていたという記録もある.ちなみに,敦賀にある常宮神社とは同じ神格を有している可能性があるそうだ.
常神に至るまでにはのちに論じる神子という集落がある.かつて御賀尾浦と呼んでいたそうで,常神と同じか少し古い文献に名があるそうだ.現在,常神社が置かれている位置にかつての常神集落がそこに開かれていたではとされている.現在では世帯数の半数が旅館業を営む旅館街となっているが,漁村集落として賑わっていた頃の雰囲気がよく残っており,世帯のほとんどに見られる旅館と漁村の両面を備えた住宅の雰囲気はなかなかに独特のものがあった.

常神集落の中で一番の旅館が並ぶ道を歩く.両脇に旅館の看板が多く並んでいる.常神集落ではほとんどの家が旅館業を営んでいるという記述がある.実際,多い時では9割を超える割合を占め,現在では廃業した家でもおそらく旅館業を行っていたのであろう雰囲気があり隔世の感を得る.

常神には樹齢1300年を超える国の天然記念物のソテツがある.この地域に自生しているものとは考えにくく,誰かが持ち込んだものと考えられるが,それについては調べたところわからなかった.

緩やかな坂に沿って旅館が連なる様子はここでしか見られない.常神という名前もそうであるが,この集落には非常に引き付けられるものがある.この道を上がった先に常神灯台があり,若狭湾の景色が一望できるそうだ.
ここ常神と隣の神子は平安時代末期から鎌倉時代初期の間には伊香氏の領有が認められており,また,刀禰と呼ばれる者たちによって支配がなされていた.その時には日本海での交易を担う一大拠点であったことだろう.そのためか常神半島の中でも非常に早くから大網漁やハマチ漁,サバ漁などの漁村集落として先進していたそうだ.神子とは土地や漁業権のことで何度かもめていたそうで,そういった文献が多く残っている.現在でも天候によるが大敷網漁が4月から11月までほぼ毎日行われているそうだ.

集落にはタイル張りの流しが軒先に設置されている住宅を多くみる.しかも現在にも使われているような雰囲気がある.続いての神子集落を論じる際に,早瀬に続いてまた「流し」について論じようかと思う.

昭和四十年代に陸の孤島が解消されるまではずっと交通は船か山道を行くしかなかった.そのために郵政の制度が開始された当初は早瀬から配達夫が山路を通ってきたそうだが,冬の間は日本海側の深い積雪に遮られ1か月ほども不通になることがあったそうだ.これはかつて塩や魚介類を早瀬の方へと運んでいた時代の名残であろう.そののち昭和3年から三方湖のほとりにある田井の方から配達されるようになる.現在では陸の孤島の解消以降はそういった寒村の雰囲気はなくなっており,集落の訪問からは感じ取られなかった.早瀬の結びつきという意味では,複数の旅館の看板に早瀬浦の記載があり,むしろ早瀬にいる時よりも早瀬という文字を見たような気がするほどである.

海のほとりには漁業小屋にあたると思われる作業スペースが所狭しと並んであり,大敷網漁のための小屋や,獲ってきた魚を干物にするための場所が開かれていた.昔からみつけの国として漁業で得たものを保存のきく状態にしてから早瀬や熊川に至り京都まで運搬をするのが一般的であったのだろう.
しかも,かつての文献からは常神と神子はこういった都への献上以外にも越前,丹後,敦賀,若狭湾沿岸,近江の国との交流が盛んであったことが分かっており,昭和の時代までの陸の孤島とは違った側面が見受けられる.

かつてより栄えた常神の集落は現在も釣り客や若狭のフグやカニを楽しむ旅行客によって注目されていることがよくわかった.先ほどは早瀬と日向を見て,梅丈岳を超えて塩坂越を通って常神まで至ったが,昭和の中後期頃までそうであったように早瀬との結びつきをその順番にたどってこられて非常に良かったと思う.
神子集落(若狭町)

常神集落を離れて常神トンネルを抜けてすぐの神子集落を訪れる.こちらも現在では旅館が多く並ぶ集落で,同じく漁村集落であったが,のちに旅館業が増加した次第であろう.

県道沿いにはずらっと旅館の看板が並んでおり,常神と同じく看板には早瀬浦と記載している.
この集落はかつてからの住人と近江の国から移住してきた伊香氏の子孫である大音氏(おおとし)の混じったものになっている.伊香氏というのは伊香郡伊香具村大字大音の伊香大社の神主の筋である,御賀尾(現在の神子)と常神の領有となったのちに,性を加茂,大音と改称してきたそうだ.遊子も神子もそうだが,由来についてはよくわかっていないところがあるそうだ.

常神と同じく,干物にするための道具がたくさん見られた.漁村集落という雰囲気であるが,沿岸部の半分が護岸されており,もう半分は砂浜が残っている.砂浜の部分には防風林が植えられている.
この地の神子神社というのは大音明神が祀られた伊香具神社の山王社が奉祀されたものであり.例によってほかにもいくつかの信仰が合祀されている流れである.少し面白いのが,神子の産土神はかつては諏訪社であった.この諏訪の信仰が信濃の諏訪大社から荘園支配の時代に勧請されたそうだ.ほかにも,浜神社や天照大神宮,八幡社などの信仰があることからわかるように,この集落は海の玄関口としての側面だけでなく,様々な地方とのネットワークの存在を感じることができる.

神子の集落においても旅館業と漁業が主産業として共立している雰囲気がみられ,漁に使うのであろう道具が集落中に見られた.細い道にはせり出すように家から軒が伸びたりしている.しかし,旅館集落になったころからだろうが,集落の住民での交流をこういった細い道で行う様子は見られない.

現在,営業している旅館は県道に面して入り口が設けられており,中に入っていくところがあっても県道側からすぐにアクセスできる位置である.集落の裏側を貫く生活道に私たちが歩いていると不審な目を向けられる.裏の道にはビール瓶が詰まれ,室外機が部屋の数だけたくさん並ぶ様子がある.
歩いていると屋外の流しで作業する男性の姿が目に入った.

私はかねてより複数の漁村集落を探訪してきたが,実際に外流しが使用されているところというのは初めて見た.
以前に訪問した三重県鳥羽市答志島の答志集落では多くの住居に流しが見られた.それらは生活の道具といった意味合いだけでなく,コミュニティの形成という側面でも大いに意味を持つそうだ.しかし,現在になってこの流しというのはほどんど使われなくなっており,リフォームなどによって外流しから土間型のものへと変化している.今日見られる流しのほとんどは本来の役割を失っているものがほとんどであるはずだ.
しかし,今回の訪問ではフグの調理にこの外流しを用いているシチュエーションを見かけることができた.夕暮れ時の訪問であったためであろう.漁業集落には外流しが多くみられる理由は,魚の選別から解体・内臓処理までを行い,また,漁具の清掃,修理なども一挙に行える場所であるからということがあるだろう.この地域の名産であるフグを捌くとなると,血液や内臓が多く,臭気が強いことや,大量の水を使うことなどから屋外の流しを使っている様子が見られたのだろう.

神子という名前に由来が不明である,という点が私の中では少し引っかかる.これほど古くから伊香氏による信仰が築かれた集落なのだから神の子という名前は違和感がないのだが,かつては御賀尾(みかお)と呼ばれていたことから辻褄が合わない.御賀尾という地形を表すともとらえられる名前そのものに特に信仰が含まれているということも考えづらく,常神と同時期に築かれたこの集落に対して,由来が不明であることと後から神子という名前が付いたことに疑問がどうしてもぬぐえなかった.ほかにも先ほどの遊子であっても由来が不明である.遊子に至ってはどのような音からこの字になったのかすらのこっていない.
ここからは私の想像となり,与太話となってしまうのであるが,お付き合いいただければ幸いである.そもそもこの地域の名前には疑問があった.
先ほどの早瀬においては林明神の信仰からハヤシの音が訛り早瀬となったとする説が有力とされている.しかし,早瀬浦には大雨の際には早瀬川に三方五湖の水が一挙に押し寄せるさまは「早瀬」そのものだったであろうという気がしてやまない.私の考えでは林明神の信仰と同時に早瀬という名が同時に存在しており,その二つが合流した形で地名となったのではないかと考えている.
このように由来とされている地名や古くからの信仰というのは多重の層のように重なり,現在に残っているのではないかと考察している.
同じように,神子についても考察をするとミカオがミコという音に変化するのはやや飛躍しているように思う.それに常神という同時期に開かれた集落が神聖な名前を持っていることからも,かつてより神の子という意味合いを持つ言葉が名付けられるのは不自然ではないはずだ.元来,民俗学者の柳田國男の『巫女考』の中では,全国の歩き巫女が本来の神の使いとしての役割を担っており,巫女という音は神子という言葉からきていると解き明かした.であるから,御賀尾という地形由来の名前と神の使いという意味合いのミコという音が合流したという説明が最もすっきりするのではないかと思った.それに,常神半島には塩坂越の北に先述の遊子という地名がある.常神,神子,遊子という順番に地名を見たとき,遊行(ゆうこう)や遊部(あそびべ)という意味合いでの遊子という言葉を連想した.そういった者たちは全国を放浪し,信仰や仏教の教えを説いて回るものという意味合いがある.もとより御神島という島が最も神聖であるという信仰があり,ほかにこの地域にも根付く蛭子信仰などの海上信仰には,沖合に出れば出るほど神聖であるという考えがある.半島においても同じことが言えるかもしれない.常神,神子,遊子という順番で地名が並ぶこと,また,その地名が今日まで残っていることというのは何か考えさせられるものがある.
小川集落(若狭町)

続いては小川集落を見て回る.世久見を除けば常神半島の主楽をすべて見たことになる.県道に旅館が並ぶ様子は遊子や神子と共通するものがある.こちらはコンクリートによって護岸がなされており,防風林は設けられていない.
この集落では昭和の初期頃まで魚の行商が「小川の里売り」として女の仕事とされていた.海産物をかごに入れ天秤を担いで出かけたそうだ.先述の鯖街道では熊川を通って京都まで至る長い行商の道のりを示したが,遠いところでは遠州まで出掛けたそうだ.また,大敷網漁だけでなく,出雲地域までの遠洋漁業を行っていたという.その影響か,大正の終わりまで出稼ぎも非常に多かったと記録が残っており,戦前は海外への移民へ出たり,戦後は関西や中京の工場へと出稼ぎに出たそうだ.
くるみ浦の話はここにもある.くるみ浦が津波で亡くなった際には,もともと浦の持ち物であった海を日向がもらい,山を早瀬がもらい,本尊の延命地蔵をもらって現在の海蔵院に祀ったとの伝説がある.

小川集落を最後に回ってよかったと思える理由がある.常神半島の常神や神子というのは陸上交通での孤島であるために小川集落というのはそこから早瀬へと抜けていく玄関口になっていたのではないかと思う.おそらくは近代まで三方五湖の集落はすべて早瀬とつながっており,県道ができるまでは山路を歩き,早瀬に海産物を届け,早瀬の千歯扱きを売りにいく行商があったのだろう.現在ではその早瀬からくる方がかえって難しいような道路網が築かれており,美浜町と若狭町という二つの町に分かつ形で常神半島がなっている.

また,小川というのは,常神半島の集落からすれば最も多きな集落であったそうで,今でもその痕跡がみられる.写真のパチンコ屋などは地方に多く見られた施設の様子を残している貴重な廃墟であり,この地域の繁栄の様を想像するには非常にたやすかった.
三島由紀夫氏の『潮騒』の舞台に三重県鳥羽市の神島が選ばれたのだがその理由にパチンコ屋が置かれていない離島の漁村を探したといういわれがある.それほど,1960年代以降にはほぼすべての漁村集落にも娯楽が置かれていたのだろう.神島については以下の記事で紹介をしているのでご一読いただければ幸いである.

小川には廣峯神社という神社がある.かつてより網漁を行っていた漁村集落なのだが,安原弥太文書によれば,漁師が大網にかかったお面を牛頭天王としてあがめ祀ったという言い伝えがある.のちに牛頭天王は素戔嗚として祀られることとなる.他の地域と違って天王牛頭を天王信仰として祀ったという言い伝えが残っていることは比較的珍しく思う.備後国風土記に残された蘇民将来の伝説や茅の輪くぐりなどの話広く信仰されたいるにもかかわらず牛頭天王という名が残っているのは半島の集落であるからだろう.またほかにも熊野本宮から能野権現を勧請した吉田神社や,他の集落に共通して浜神社や八幡,金毘羅の信仰がみられる.

かつては常神半島の西側に開かれた地域を西浦地区といったそうで,小川はそんな西浦地区の中でも中心としての存在であったそうだ.役場はもちろん診療所なども置かれており,ここらの地域の中心であったことが文献上からも読み取られる.しかし,他の地域と歩いて違いを見つけられるほどではない.

他の地域の違いを頑張ってのべるとするならば,防火設備などの近代設備に現れるように,あらゆるものが近代化が早かったような印象を受けるといったところである.おそらくは小川までの道路や水道の開通はそこまで遅くはなかったはずである.

また,常神や神子までの道ができていないときは小川まで船でくるといったことがあったであろう.いわゆるレトロという雰囲気がよく残されているという感想だ.昭和35年に観光組合が置かれてから著しく夏季旅館が数を増やしたそうで,繁栄の様が訪問や記録の調査から多く得られた.
伊良積の船小屋(若狭町)

県道を南下すると三方湖のほとりまで出て伊良積という集落にあたる.ここは梅の栽培で栄えた集落だそうで,この集落内だけでなく三方五湖のほとりのさまざまなところまで栽培を広げていたそうだ.ここには漁村ではないにも関わらず船小屋が残されている.一般的には湖岸のさまざまな地域まで梅を売りに行くなどする際の交通手段として使っていたとする説もあるが,おそらくは三方五湖の菅を隔てる長尾島のような半島には長らく交通手段がなかったために,そういったところまで農地を拡大し,船で収穫へ向かっていくためにこの船と舟屋を使っていたなんてこともあるだろう.

湖に面しているだけに簡素な造りの舟屋が現在まで残っている光景が見られているのであろう.かつてはこのように三方五湖のほとりにいくつもの農村が見られたのであろうが,世界的に美しい年縞が得られるという湖の特徴として流出入が少ないことなどからそういった集落はだいぶ消滅してしまったのであろう.また,この地域の複数の神社に疫病神や疫病に関する信仰,祭りが残っていることからも推測できるが,こういった湖のほとりで生活を行うことは非常に衛生面で難しいのであろう.伊良積という集落の船小屋を見てかつての生活を想像できたために,短い時間でも訪問してよかったと振り返っている.
エンディング
半島を後にして敦賀駅へ向かう.美浜の東隣である敦賀市は交通の要所としても知られ,大阪から北陸に向かう際には必ず通っていく場所である.また,国際港として好条件であったために海上交通から陸上交通への切り替え地点としても栄え,現在では人口減少などが課題となる中でも北陸新幹線の延伸により,再び起点駅としての役割を担う場所である.
この敦賀においては実はかつての区分では先ほどまでの若狭の国ではなく越の国(越前)に分類される.敦賀の東西それぞれに峠があり,西には関峠(かつての国境),東には木ノ芽峠(嶺北・嶺南の境)に囲まれた立地よりうかがい知れるように,敦賀市の立地の重要さや天然の良港の性質が表れている.現在ではどちらの峠も道路や鉄路が整備され,かつての国の区分を超えて福井県として一つになっている.

私は,今回の訪問を通じて,若狭湾に広がる漁村が他の地域の発展と異なり,大陸との玄関口,都との交流,北前船の寄港地としての役割や,信仰の多様性,その後のフグ・カニを売りとした宿町としての側面,その後の衰退という様々な側面を見た.道路交通の発展の末に人口減少だけでなく,文化の衰退という拡散を発見した.また,若狭の漁村巡りを通じて,常神半島の文化や生活,民俗を学ぶことができ,今この時に見ることができてよかったと心から振り返っている.

